school days : 003
予感
どこにいるんだろう、とワイは溜息をついた。隣のA組にもいないし、職員室にも捜し人の姿はなかった。放送を入れれば一発だが、生徒が先生を呼び出すわけにもいかない。困ったわねとまた溜息をつきながら、ワイは2年B組の教室に足を踏み入れた。「ワイちゃん、どうだった?N先生、いた?」
ワイの姿を認めて、沈んだ表情のファイツが不安げに尋ねて来る。何だか申し訳なく思いながらワイが首を横に振ると、ファイツは「そっか」と呟いた。窓際の席で明るいはずなのに、彼女は随分と暗い顔をしている。このままじゃいけないとワイは思った。
「ファイツってば、元気出しなよ!」
「うん……」
「……あ、そうだ!帰りにパフェ食べに行かない?ほら、駅前にある店の看板メニューのやつ。食べてみたいって言ってたでしょ?」
「どうしようかなあ……」
ワイがそう明るく言っても、ファイツの声色は依然として沈んだままだった。どうしたものかとワイは、助けを求めるようにサファイアの顔を見た。それに気付いたサファイアは、何も言わずに首を横に振った。実はワイが席を外した間にサファイアも自分なりに場を盛り上げようとしたのだが、結局は失敗に終わってしまったのだ。やっぱりファイツは相当に落ち込んでいるらしい。何しろ、ファイツの大好物のパフェで釣ってもすぐに返事がないのだから。ファイツの気持ちはよく分かる。ワイもサファイアも、ファイツのNに対する気持ちはとっくの昔に知っている。Nの担任になれなかったことがどれだけショックか、その痛みが痛いくらいに理解出来る。だから2人は「早く帰ろう」とか、「いつまでそうしてるの」だとか、ファイツを急かすようなことは一切言わなかった。
2年B組の教室には、3人以外誰もいなかった。始業式もHRもとっくに終わっていて、後は帰るだけとなっている。ポケスペ学園は寮も選択出来るけれど、3人共自宅通学なのだ。普段は放課後になるとすぐに部室に行くので、HRの後に教室に残る機会もあまりない。ちょっとだけ新鮮な気持ちになったワイは、更に明るめの声を出した。
「そうだサファイア、C組の担任って誰だっけ?」
「ナギ先生ったい。陸上部の顧問とよ」
「ああ!あの美人な先生か。体育もナギ先生が担当なの?」
「そうったい!」
「じゃあアタシ達と同じじゃない。ああ、あの人で良かった……」
良かった、本当に良かったとワイは心の底から思った。授業は受けたことはないけれど、少なくとも去年のセンリ先生よりはマシに違いない。絶対そうに決まっている。
「なして?」
「……だって、サファイア。アタシとファイツは、去年センリ先生が担当だったのよ?」
「そうったいね」
「鬼教官って呼ばれてる、あのスパルタで有名なセンリ先生なのよ?」
「知ってるったい。あたしも受けてみたいとよ。絶対楽しいったい!」
「サファイアなら楽しめる気がするわ……」
サファイアってこういう娘だった、とワイは溜息をついた。他のどの授業より体育が好きで、特に陸上界ではかなりの有名人らしい。野生児だとか物の怪娘だとか、ワイからすればこれってどうなのと思うようなあだ名がついている。サファイア本人は気にもしていないから何も言わないけれど、女の子につけるあだ名じゃないと思う。
(サファイアにあだ名を付ける人の気持ちがちょっと分かったかも)
そんなワイでさえそう思わざるを得ない発言をした当の本人は、のんきにセンリ先生について語っていた。確かに体力はついたけれど、あの体育はハード過ぎる。ありがたかったのはダイエットをせずに済んだということくらいだ。それ以外はとにかく辛かったという思い出しかない。
(ファイツだって、よくついて来たもんだわ)
ワイはちらりと未だに沈んでいる親友を見た。あまり運動神経が良くないファイツだって辛かっただろうに、それでも何とかセンリの授業に付いて来たのだ。あまりの辛さにワイは1回だけ仮病を使ったけれど、ファイツは1回も休まなかった。
(アタシとは違って根性あるわよね……)
去年だってそうだ。どうしてもA組に入りたいと言い出したファイツは、休みの日でも勉強をするようになった。3人で遊びに出かけた時も、ちょっとした隙間時間に単語帳を見ていたくらいだ。親友ということを抜きにしても、本当に頑張っていたと思う。だからこそ、A組になれなかったという結果が残念でならない。神様って不公平だわ、とワイは心の中で悪態をついた。憧れの先生が担任を受け持つクラスに入りたいというささやかな願いも叶えてくれないなんて、本当に不公平だ。おまけに今日はタイミングが悪くて、ファイツは未だにNと話せていないらしい。
(どうにかして話させてあげたいけど、N先生はどこにいるんだろう……。さっきは職員室にいなかったけど、もう戻ってる頃かしら?)
ワイは、いつしかストレッチを始めていたサファイアを見た。随分と距離があるから自分ではとても無理だけれど、彼女なら可能かもしれない。
「ねえ、サファイアって目が良かったわよね?」
「うん。両目とも2.5ったい!」
「じゃあ、ここから職員室の様子が見えたりする?」
「……ううん。あたしもやってみたけど……。すまんち」
「いいのいいの、ダメ元だったし。……あのさ、ファイツ。アタシ、やっぱりもう1回職員室に行って来る」
すまなそうに謝るサファイアに明るく笑いかけてから、ワイはもう1人の親友に向き直った。普段から、ファイツは積極的にNと話そうとしない。遠くから見つめてるだけでも充分幸せになるからいいと親友は言うけれど、こんな時だからこそ会って話すべきだとワイは思うのだ。
「そんな……!いいよ、ワイちゃん。本当はあたしが行かなきゃいけないのに、任せちゃったんだから。サファイアちゃんも本当にありがとう」
そう言って、ファイツは笑った。だけど、ワイには無理に笑っているように思えてならなかった。
「……2人共、こんな時間までごめんね。あたしはもう大丈夫だから。それに、考えてみればまだ来年があるんだし!」
Nに恋をしているファイツにとって幸運だったのは、彼と一緒に学年を上がれることだ。ポケスペ学園に入るのがあと1年早かったり逆に遅ければ、Nが担任になる可能性はまったくない。だからそれを思えば、可能性があるだけ幸運な方なのだ。
「それはそうかもしれないけど……」
「こんなことで落ち込んでちゃダメだよね。……あ、そうだ。やっぱりあたし、あそこのパフェ食べたいかも!ワイちゃんとサファイアちゃんも、良かったら一緒に行かない?」
ワイはサファイアと一緒に頷いて、珍しく先頭を歩く親友の背中を見た。来年、ワイ達は受験生になる。授業もテストも、きっとこれまで以上に難しくなるだろう。しかも、全教科で好成績を残さなければA組に入れないのだ。
「……ねえ」
何となく嫌な予感がしたワイは、サファイアを呼び止めた。サファイアがくるりと振り返る。
「どぎゃんしたと?ワイ」
「何か……。胸騒ぎ、しない?」
「……ううん」
その答えに、ホッと胸を撫で下ろす。ものすごく勘が鋭いサファイアが何も感じていなかった。だから今のは、ただの思い過ごしだろう。
(……エックスじゃないんだから)
後ろ向きな性格をしている幼馴染が頭に浮かんで、ワイは思わず苦笑した。エックスがそんな発言をする度に、何言ってるのよと言い返すのがお決まりなのだ。
「ワイちゃん、どうしたの?」
「何でもないわ。ちょっと考え事してただけ!」
振り向いたファイツに手をひらひらと振ってみせる。ふと感じた胸騒ぎはすっかりしなくなっていた。やっぱり気の所為だと思いながら、ワイは2人の後を追った。