school days : 002
思い出すのは彼女のこと
自分のクラスはA組だろうというラクツの予想は、ものの見事に的中した。とはいっても頑張って勉強したわけではなく、普通に授業を受けて普通にテストの問題を解いただけなのだけれど。クラスメイトの名前をざっと確認して、ラクツは掲示板の前を後にする。流石に何人かは知らない名前だったが、去年とほとんど代わり映えしないメンバーだ。おまけに担任まで同じだった。その中に、幼馴染の名前はなかった。A組へと向かいながら、ラクツは幼馴染のことを考えていた。あの様子は嘘を言っているようにはとても見えなかったから、本当に怪我なんてしていないのだろう。そもそもぶつかって来たのは彼女の方なのだから、ラクツがこんなにも気にするのはおかしいことなのかもしれない。けれど、自分としてはどうしたって気にしてしまうのだ。地面にへたり込んでいる人間をファイツだと認識した時、ラクツはどうしようもない罪悪感に襲われた。結果的には無事だったから良かったものの、危うく怪我をさせるところだった。血の気が引くような思いをしながら、それでも何とか平静を保って話しかけた。普段はファイツをあからさまに避けているラクツだけれど、流石に放ってはおけなかった。今だけは、あの誓いを忘れよう。そう思いながらラクツは手を差し出した。結局、ファイツが自分の手を取ることはなかった。だけどそれは、よく考えてみたら当たり前のことだった。転んだ彼女はもう16歳で、幼かったあの頃とは違うのだ。異性の手を握ることに躊躇いがあってもおかしくない。
ラクツもファイツも人間だ。人間である以上成長して、色々と変わるものもある。だけど変わらないものもあって、例えばファイツの性質はあの頃と同じだった。おとなしくて臆病で、すぐに泣く女の子だ。
ファイツとは幼稚園のグラウンドで出会った。引っ越して来たばかりでまだ住み慣れない家から、一番近い幼稚園だった。誰もがグラウンドを力いっぱい走り回っているのに、1人だけ周りの輪に加わらなかった子供。それがファイツだった。目立たないグラウンドの隅に、先生と2人でぽつんと立っている。それが、最初の記憶だった。
随分とおとなしい子だと、見た瞬間にそう思った。何となく気になったものの、その日は遠くから見るだけに留めた。今日始めて会った人間とすぐに遊べるような性格をしていないだろうと、根拠もなく思ったからだ。
次の日から、ラクツはファイツの様子をそれとなく観察した。園の誰に訊くまでもなく、彼女がこの幼稚園に溶け込めていないことはすぐに分かった。幼稚園の先生達はなるべくファイツを構うようにしていたが、いつまで経っても周りに馴染まない彼女の扱いを持て余している様子だった。周りの皆も、話しかけるとすぐに泣くファイツに近寄ろうとはしなかった。園にいた誰もがファイツを少なからず疎んでいた。
確かにラクツだってファイツのことを”よく転ぶ泣き虫な子供だ”と思ったけれど、流石に口に出すことはしなかった。それを聞けば、彼女は酷く傷付くだろう。言葉のナイフは鋭いことをラクツはよく知っていたのだ。父親のハンサムは言葉選びが下手で、3歳の時に病死した母親とよく喧嘩になっていた。まったくもって悪気はないのだろうが、選ぶ言葉のセンスがとにかく良くないのだ。特に女性の扱いといったら壊滅的だった。当時のラクツでさえもっと言い方があるだろうと感じた程だ。1歳上のブラックはそうは思わなかったらしいが、女性の扱いに関してだけは気を遣おうとラクツは思った。父親のことは尊敬しているが、そこの部分は反面教師にした。だから、ファイツのことは確かによく泣く子だと思ったけれど、わざわざ声に出してまで告げなかった。
けれど、全員が全員ラクツのような大人びた考えを持っているわけではない。むしろ自分は少数派で、周りの子供はそうでないだろうとラクツは分かっていた。子供は残酷だ。正直に、思ったことをそのまま口に出す生き物なのだ。
ある日、ついに我慢出来なくなったのだろう。「ファイツちゃんはすぐ泣くから嫌だ」とか「嫌い」だとか、他にも「すぐ転ぶし一緒に遊ぶとつまんない」なんてことをファイツに言った子供がいた。気が強くてはっきり物事を言う、いわゆるガキ大将だった。先生は「ファイツちゃんに酷いことを言っちゃダメでしょ、謝りなさい」と諌めたけれど、彼女自身も少なからずそう思っているであろうことをラクツは見抜いていた。幼いながらも何かを感じ取ったのか、ファイツはついにどの先生からも離れるようになった。
そんなファイツを、何故だかラクツは放っておけなかった。もう誰とも仲良くなんてなれないと沈んでいたファイツに近付いて、強引に彼女の手を取った。自分の手を握り返すのをじっと待っていてはダメだと、強く思った。そのことが余程嬉しかったのだろう。次の日から、ファイツが自分の後を付いて回るようになった。ファイツは相変わらずよく転んで大泣きしたけれど、その度に手を差し伸べた。例え何度転んでも、何度でも自分が助けてあげればいいのだと、ラクツはそう思うようにした。他の誰もが近付かない子供に遊ぼうと話しかけた、ラクツがしたことはほんの小さなことだ。けれども周りの子供はそうは思わなかったらしい。”皆と違うことをしたラクツくんは変だ”との噂が流れるのは早かった。数日後には、先生もラクツをどことなく避けるようになった。時折4歳児とは思えない言動をする自分を気味悪がったのだろうと、ラクツは勝手に結論付けた。
それらに対しては微塵も気にしなかった。はっきり言ってしまえばどうでも良かったのだ。他の子供達には絶対に自分から話しかけないファイツが、ラクツだけには話しかけてくれる。1人ぼっちでなくなったファイツは少しだけ明るくなったけれど、相変わらず自分の後を付いて来る。そして、嬉しそうに笑いかけてくれる。ファイツがいれば、ラクツにはそれで良かった。出会って1ヶ月も経つ頃には、この笑顔を護りたいと思うようになっていた。この先ずっと、この娘は自分だけには笑顔を向けてくれるに違いない……。そんなことを、当時の自分は本気で信じていた。
(……本当に、幼かった)
あの頃は本当に幼かったと、そう思う。思い上がりも甚だしいものだと、何度だって自嘲したくなる。今はあの頃とは真逆で、彼女は怯えた目を向けて来る。もっともそう仕向けたのは他でもないラクツ自身なのだけれど。
時々、思うことがある。あの時彼女を拒絶していなかったらどうだっただろうと、考えることがある。ファイツが話しかけてくれた時に、彼女に応えていたらどうなっていただろうか。もしそうしていたら、自分達の関係は今とは違うものになっていたかもしれない……。
(……バカバカしい)
自業自得だと、ラクツは自分を嘲った。こんなことを考えていても意味がないと理解している。もっと建設的なことを考えるべきだとも思う。けれどもやっぱりファイツの怯えた顔が浮かんで、それに少なからず傷付いている自分がいることもちゃんと分かっていて、その事実にラクツは顔を顰めた。