school days : 001
灰色の空
風に吹かれた桜が舞う中、ファイツは全力で走っていた。桃色に染まった通学路は見事なものだったけれど、それには目もくれずに走る。今日は4月7日、ファイツが通う私立ポケスペ学園の始業式の日だ。そして、これから1年間を過ごすクラスが発表される日でもある。大多数の生徒にとっては始業式より余程重大なイベントだ。もちろんそれはファイツにも当てはまっていた。ファイツはこの日が来るのをずっと待っていた。春休みに入ってからは一層落ち着かなかった。本当に本当に、心待ちにしていたのだ。(もう!こんな大事な日なのに、寝坊するなんて!!)
あたしのバカ!とファイツは自分を責めた。昨晩は緊張と不安で中々寝つけなかった。何とか気を紛らわそうと親友のワイに電話をしたものの、つい話しこんで夜更かしをしてしまい、結局寝たのは1時頃だったはずだ。その結果、新学期早々全力疾走する羽目になってしまった。高校2年生になった初日に遅刻をするなんて、絶対に嫌だ。
(……も、もう走れないよ……)
流石に息が切れてきて、ファイツは立ち止まった。考えてみれば家を出てからずっと走っていたのだ、無理もなかった。だけど、足を止めると不安が次々に生まれてしまう。ファイツは小さいことで悩み過ぎなのよ、と苦笑する親友の顔が浮かんだ。確かにその通りだと思うけれど、これに限っては決して小さなことではない。何しろ、好きな人が担任になるかもしれないのだ。
ナチュラル・ハルモニア・グロピウス。生徒達からN先生と呼ばれるこの人物に、ファイツはどうしようもなく憧れていた。担当教科は数学で、分からないところは丁寧に教えてくれる。穏やかな彼の性格を表したかのように優しい緑色をしている髪色も、成人男性にしては少し高めの声も、ファイツは彼の全てが好きだった。聞くところによると、Nは赴任してからずっとA組の担任を受け持っているらしい。ポケスペ学園はそれなりの進学校だけれど、その中でもA組は特別だ。3学年共通で特進クラスとなっていて、成績上位者しか在籍出来ない。つまり1年A組の生徒は、入試で高得点を取った者達ということだ。
N先生が担任だったらどれだけいいだろう。ファイツは彼の担当教科である数学の授業を受ける度にそう思った。授業以外でも毎日彼に会えるのだ、幸せに決まっている。ファイツは去年B組だったので、ほとんどNと接点がなかったのだ。姿を拝めるだけでも幸せになれるけれど、もっともっと彼のことを知りたい。こう思うのは、ファイツにとっては必然だった。
だから、ファイツは去年の2学期から勉強を頑張った。2学期からの成績でA組に入れるかどうかが決まるからだ。休みの日だって早起きして、それこそ必死で勉強した。全てはNが受け持つA組に入る、ただそれだけの為に。
(でも、もしA組に入れなかったらどうしよう……。せめてワイちゃんかサファイアちゃんと同じクラスになれればいいんだけど……)
自分なりに頑張ったと思うけれど、残念ながら成績が届かない可能性もある。この学校ではクラスが成績順で決まる為、それ次第では2人と離れることもあるのだ。仲がいい人間が同じクラスにいないというのは、おとなしい性格であるファイツには殊更辛いことだった。
ファイツは自分が内向的だと自覚している。目立つのは嫌いだし、知らない人間と話すのもものすごく緊張する。特に、自分から話しかけるのは大の苦手だった。無視をされたらどうしようだとか、マイナスな考えが浮かんで来る。例え声をかけられたとしても会話が長続きすることはあまりなかった。相手からどう思われているのかの方が気になってしまい、上手く話が出来ないのだ。
(友達は欲しいと思うけど、話しかける勇気が出ないんだよね……)
ファイツは去年の始めを思い出していた。引っ込み思案な性格が災いして、クラスメートに話しかけることが出来ずにいたのだ。そんなファイツに友達になろうと言ってくれたのが、少し離れた席にいたワイだった。その日の昼休みには、隣のC組からサファイアを連れて来た。
それから、ファイツとワイとサファイアはよく一緒にいるようになった。明るくて物怖じしないワイと猪突猛進のサファイアは、内向的なファイツと正反対の性格をしていた。けれど逆に馬が合ったのか、出会って半年も経つ頃には2人共ファイツの親友と呼べる間柄になっていた。今年も2人と仲良くしたいなと思いながら、ファイツはふと左手首につけた時計に目をやった。針は8時25分を指している。8時40分から体育館で始業式が始まるのだけれど、一度自分のクラスを確認して鞄を置かなければならない。全力で走ったおかげで何とか間に合いそうだが、このまま休んでいるとギリギリのところで遅刻してしまうかもしれない。
そろそろ走らなくちゃと心の中で呟いたファイツは走り始めると、すぐ近くの角を曲がった。この道をもう少し進めばポケスペ学園にたどり着くのだ。
「……あ」
同じ学園の制服を着た1人の男子生徒に気付いて、ファイツは思わず足を止めた。あの後姿には見覚えがあった。
(……ラクツくん、だよね……。ああ、やだなあ。……困ったなあ)
前を歩いていたのが別の誰かなら、こんなことは思わなかっただろう。けれど、ファイツは彼に苦手意識を抱いているわけで。出来るなら、彼を避けて正門をくぐりたかった。だけどポケスペ学園に行くにはこの道を進む他なく、それには彼を追い越さないといけないのだ。一刻も早くクラスを確認したいファイツは唇を噛んだ。
(……どうしよう)
今でこそ彼が苦手なファイツだが、ラクツとはいわゆる幼馴染の関係だ。家がわりと近くだったこともあって、幼稚園が休みの日でもよく遊んだ。それこそ、毎日のように一緒にいたと思う。けれどいくら仲が良くても自分達は男の子と女の子で、いつの間にか遊ぶこともなくなっていた。口も少しずつ聞かなくなり、おまけに互いに別々の中学に進んだこともあって、ラクツとはすっかり敬遠になっていた。
だから、ポケスペ学園でラクツと再会した時は驚いた。再会といってもたまたま廊下ですれ違っただけだが、それでもファイツにとっては衝撃だった。まさか、ラクツと同じ高校に通うとは夢にも思わなかったのだ。久し振りにラクツの姿を見ると、彼と過ごした幼い日々が無性に懐かしくなった。ちょっと悩んだ後で、ファイツは話しかけてみることに決めた。彼が1人きりの時を狙って、緊張しながらも何とか話しかけることが出来た。過去に仲良くしていた記憶があったからこそ、異性である彼に声をかけることが出来たのだ。けれど、返って来た言葉は予想に反して実に素っ気ないものだった。思わず言葉を失ったファイツに構わず、ラクツは立ち去ってしまったのだ。彼の声は、何とも冷たかった。
ファイツの中で、一瞬、実は別人なのかもしれないという疑問が湧いた。けれど、すぐに違うと思い直した。間違いなく、彼はラクツだ。ファイツが大好きで大好きで、仕方なかった男の子だ。”自分が憶えていないだけで、ラクツくんに何かしてしまったのだろうか”。こんな考えまで浮かんだものの、具体的に行動することはなかった。また否定されたらと思うと、何も言えなくなってしまったのだ。
その恐怖が、苦手意識へと変わるのは早かった。あんなに大好きだった幼馴染なのに、今は彼が怖くて仕方ない。それ以来、その苦手意識はずっと続いている。もちろん、あれからファイツがラクツと話したことはなかった。そして、その苦手な人物は、ファイツの少し前を歩いている。
どうしよう、とファイツはまた逡巡した。先程から溜息を何度ついたか分からない。勇気がある2人の友人を思い浮かべて、自分はなんて臆病なのかとファイツは自分を責めた。ワイもサファイアも、自分より遥かに行動的な性格だ。2人なら、こんなところで悩まずにさっさと先に進むだろう。
(うう……。何悩んでるのよ、ファイツ!)
別にラクツに虐められているとか、そういう理由で彼が苦手なわけではないのだ。ただ自分が勝手に彼を苦手だと感じているだけだ。何も話さずにただ追い越す、それだけを頑張ればいいだけの話ではないか。
(……よし!ふぁいとふぁいと、ファイツ!)
自分を奮い立たせたファイツは早足で歩き始めた。だんだんと彼との距離が近付いていく。ラクツを追い越すまで、後3m、2m、1m……。
「きゃあ!」
いよいよ彼を追い越すかというところで、ファイツは声を上げた。これまで走って来た疲れが出たのか、ちょっとした地面のへこみに足を取られたらしい。ラクツに思い切りぶつかって、地面にへたり込んでしまった。更に悪いことに、振り向いた彼とまともに目線が合った。考えてみれば当たり前だ、ファイツだって誰かにぶつかられたらそうするだろう。
(ど、どうしよう……)
今の自分が彼にするべきことはぶつかった謝罪だ。頭では分かっているのだけれど、やっぱり言葉が上手く出て来なかった。ただでさえ男の子と話すなんて緊張するのに、それが苦手な相手なら尚更だ。
「…………」
「あ、あの……」
彼と視線を合わせて数秒後、やっと出て来た言葉がこれだ。どこまでも臆病だと自嘲して、けれども深く息を吸う。とにかく、彼にちゃんと謝らなければいけない。
「えっと、その……」
「…………」
「……ご……」
「大丈夫か?」
そのまま「ごめんなさい」と続くはずの言葉は、ラクツのそれに遮られる。すっかり出鼻をくじかれて、ファイツは思わず固まった。
「……え?」
「怪我は?……どこか痛むのか?」
「……大丈夫」
否定した声は何とも小さなものだった。けれど彼の耳にはちゃんと届いたらしく、ファイツがそれ以上追及されることはなかった。それでも完全には納得しきれていないのか、ラクツは疑わしげにこちらを見下ろしていた。
(そうだよね……。あたし、座りこんだままだもんね……。どこか怪我したかもって思うよね)
もしそう思われているのなら、まったくの誤解だ。上手く言葉にならなかったのは、決して怪我をしたからではないのだから。
「本当に大丈夫なの、ちょっとびっくりしただけだから」
「そうか。……すまなかったな、立てるか?」
ラクツが差し出した手を、ファイツはまじまじと見つめた。これに掴まって立て、ということだろう。
(……やっぱり、この人はラクツくんだ)
ファイツはまたもや昔のことを思い出していた。高校生になった今でもあまり運動が得意ではないけれど、小さい頃はとりわけ顕著だった。日に1回は転んでいたように思う。そんな時、助けてくれたのはいつも彼だった。どこか呆れた顔をしたラクツの手に捕まって、ようやくファイツは立ち上がるのだ。
例え呆れていたとしても、ちゃんと助けてくれる。そんな優しいところは少しも変わっていない。
「…………」
けれどファイツはその手に触れることなく、のろのろと立ち上がった。彼の手に掴まる気にはどうしてもなれなかった。ファイツはもう16歳だ、幼かったあの頃とは違うのだ。
「あたしは大丈夫だから。……ぶつかって、本当にごめんなさい」
すれ違いざまに何とか謝って、ファイツはゆっくりと歩き出す。その内早歩きになり、ついには駆け出した。もう彼には構わなかった。
ラクツはファイツの幼馴染だ。小さい頃はいつも一緒にいて、確かに彼が大好きだったはずなのに。それなのに、今はこんなにも苦手意識を持っている。彼が怖いのだと、強く思ってしまう程に。
(……N先生)
走りながら、ファイツは好きな人の顔を思い浮かべた。それが例えほんのわずかな時間でも、あの人の顔を見ると幸せな気持ちになれる。ポカポカと心が温かくなる。もちろんワイやサファイアも好きだけれど、あの人は特別だ。彼ならきっと、もやもやした心を晴らしてくれる。N先生に早く会いたいよと、ファイツは声に出さずに呟いた。