育む者 : 009

溜息
「…………」

いつも通り眉間に皺を刻んだラクツは、自分の腕の中で眠っている娘を真上から見下ろした。肩を軽く叩いて、深く嘆息する。彼女はすうすうと寝息を立てていて、起きる気配がまるで見受けられなかったのだ。

(……まあ、これで起きろと言う方が無理な話か)

まったくもって手のかかる娘だと一度は辟易したラクツだが、完全に寝入っているファイツを見て意識を改めた。この娘は民間人であって、間違っても警察官ではないのだ。自分のようにポケモンが放つわざを避ける訓練を積んでいない以上、”きのこのほうし”を浴びたとしても致し方ないではないか。増してあの”きのこのほうし”は広範囲に撒き散らされていた上に、風が強かった所為で殊更避け辛かったのだから。むしろ、その条件下でも苦もなく避けた自分の方が世間的にはずれているのかもしれない。

「……ダケちゃん?」

”ダケちゃんがこの娘を眠らせたのはこれで二度目だ”。そんなことを思いながらラクツははた迷惑にも”きのこのほうし”を撒き散らした原因を見やって、そして即座に異変を察知した。足元に転がっているダケちゃんの顔色は、悪いを通り越して蒼白だったのだ。このままでは窒息すると判断したラクツはファイツを片手で抱えたまま身を屈めて、んぐんぐと苦しそうにしているダケちゃんの背中を数回叩いてやる。三度叩いたところで、ダケちゃんの口からクリームパンの欠片が飛び出した。

(危機は脱したか。……それにしても、食い意地が張っているポケモンだ)

欠片と表現するよりどう見ても塊に近いそれを見て、先程より更に深く嘆息する。最後のひと口を欲張って頬張ったタイミングで運悪く放り出された結果、誤って喉に詰まらせてしまったといったところか。自分が動ける状態でここにいたからいいようなものの、もう少し遅かったら窒息していたはずだ。度を超えて食欲があるのも考えものだと思考したラクツだったが、柔らかい何かに頬をつつかれていることに気付いて顔を顰めた。柔らかい何かの正体は、復活したダケちゃんのぷにぷにとした短いにも程がある手だった。

「……何をする」

ぷにぷにとしているから痛みこそ感じないが、だからと言ってこうもつつかれるのは流石に迷惑だ。苦言を呈した途端、執拗に行われていたダケちゃんのつつきは止んだ。どことなく決まりが悪そうにしているところからして、どうやら礼のつもりでそうしていただけのようだ。

「ダケちゃん。ボクに感謝の念を抱いているのなら、ファイツくんの家の場所を教えてくれないだろうか。彼女を家まで運ばなければならないからな。……フタチマル!」

苦笑しながらそう告げると、ダケちゃんは任せておけとばかりに頷いた。どうやら快く道案内役を引き受けてくれる心づもりでいるらしい。相変わらず眠ったままのファイツを片手で支え直したラクツは、自由な方の手を鞄に突っ込んだ。取り出したモンスターボールから煙と共に現れたのは、自分の相棒とも言えるポケモンだった。

「ボクの代わりにこの荷物を持ってくれるとありがたい。流石に負担が大きいからな」

腕1本でこの娘を支えた実績のあるラクツだ。もちろんこの状態でも運べないことはないのだが、この娘を落とすリスクを負ってまで個人プレイを行おうとは思わなかった。使えるものは何でも使うというのが自分の信条なのだ。これまた快く荷物持ち役を引き受けてくれたフタチマルに礼を言ってから、ラクツはゆっくりと歩き出した。流石の自分でも、人間を横抱きにした状態で早歩きをする程非常識ではなかった。

(当然だが、よく眠っている。……それにしても、妙に軽いな)

間違っても落とさないようにしっかりと抱えながら、どこまでも深く眠っている娘を観察する。ファイツの家を目指して歩いているとはいえ、無駄に騒がない彼女の顔を間近で見たからこそ気付けたことだが、両腕から伝わる重さは1人の人間を抱えているとは思えない程に軽いものだった。よくよく見れば、顔色も常識的な範囲で悪いように見える。睡眠不足か栄養不足か、はたまたその両方か。何にしても、この娘の健康状態はいいとは言えないようだ。ラクツがそう結論付けた時、くうという小さな音が鼓膜を震わせた。音の出所を探し当てて、最早何度目になるか分からない嘆息をする。それはどう考えても寝息を立てている彼女の腹部から生まれた音で……。

「…………」

何せこの様子だ。ファイツはしばらく起きないと考えていいだろう。つまり自分が料理を作るということは、ほぼほぼ確定事項になったわけで。そう思うと、自然と溜息が口をついて出た。

(自宅まで運ぶだけならまだしも、何故招かれた側のボクが手料理を作る羽目になっているのだろうか……)

率直に言って面倒極まりなかったが、それでもファイツを捨て置く気にはなれなかった。何より空腹だと目で訴えて来たフタチマルを無視するのは嫌だったラクツは、仕方ないなと胸中で呟いた。とりあえず簡単なもの、具体的にはスパゲッティでも茹でてやろう。フタチマルが運んでくれている荷物から作れそうなメニューを脳裏に思い描いたラクツは、ぴょんぴょんと地面を跳ねながら道案内をしてくれているダケちゃんの後に続いた。フタチマルと同様に空腹であると無言で主張したファイツを、しっかりと横抱きにしたままで。