育む者 : 010

解放する者は混乱する
真っ暗な中で、誰かにじっと見つめられているような気がする。どこか遠くで、何かの音が鳴っているような気がする。奏でられる音に導かれるようにして、ゆっくりと目を開けた。

「……あれ……?」

そう呟いたファイツは、視界一面に広がる白をただただ見つめていた。色としては白いはずなのに、やけに黒っぽく見えるのはどうしてなのだろうか。それに何だか、頭もやけに重い気がする……。

(あたし……。何で寝てたんだろう……?)

自分が今の今まで眠っていたことは何となく分かる。だけど、そもそもどうして眠っていたのかが分からなかった。そして、ここがどこなのかもよく分からなかった。小首を傾げたファイツは瞼をごしごしと擦った、とてつもなく眠かったのだ。どうしてこんなに眠いんだろう、どうして視界がぐるぐる回っているんだろう。それにどうして、こうなる前のことが上手く思い出せないんだろう……?いくつもの”どうして?”が、頭の中で次々と生まれて来る。頭の中を?マークに占領されたファイツがぼんやりとそんなことを思った時、おでこに冷たい何かが触れる感触がして。だからファイツは、何だろうと思いながら身体を起こした。

「はえ……?」

身体を起こしたら、どうしてか視界のぐるぐるが強まった。強い眩暈に襲われたのだ。横たえていた何かにまたしても身を預けそうになって、だけどそうなる寸前で踏み止まる。身体に上手く力が入らないのにどうして倒れ込まなかったんだろうと、またしても別の”どうして?”と向き合う羽目になったファイツは、前のめりになった状態でぼうっと考え込んだ。

「…………」

うんうんと唸って頭を働かせてもみたけれど、どうしても分からなくて。だからファイツは重い頭をどうにか動かして、辺りをゆっくりと見回した。

(……何だろう?)

声に出さずにそう呟いて、薄暗い視界に何の前触れもなく映り込んだ水色の何かに視線を合わせる。まだ焦点の合わない瞳で、その水色の何かをじいっと見つめてみる……。

「あなたは、確か……」

鮮やかな水色を見つめて、どれくらいの時間が経ったことだろう。やっとのことで視線が定まったファイツは、ぽつりと呟いた。見覚えは確かにある、絶対に自分はこの子の名前を知っている。水のわざを主に使うポケモンだ。それに、ここが見覚えがある場所だということにもやっとのことで気が付いた。見覚えのあり過ぎるここは、他でもない自分が暮らしている家だった。だけどそこまでは思い出せるのに、どうしてもこのポケモンの名前だけが思い出せなかった。どうにかしてこの子の名前を思い出してあげたいと、ファイツはまたしてもうんうんと頭を悩ませた。

「フタチマル、何をしているんだ?手伝ってくれと言っただろう」
「あ!そうだ、フタチマル!!……って、あれ?」

その答は、横から突然降って来た。自分の力では結局思い出せなかった名前を繰り返し口ずさんだファイツは、そこではたと我に返った。今更だけど、本当に本当に今更だけど、どうしてこの子がここにいるのだろうと思ったのだ。だって自分の記憶が正しければ、あの子は彼が連れていたポケモンのはずなのに。

(……もしかして……)

何となく怖くなったファイツは、ゆっくりと身体の向きを変えてみた。予想は違えることはなかった。ようやく物がはっきりと見えるようになった視界に映っているのは、実に見覚えのある男の人だったのだ。リビングと廊下の境に立っている背の高いその人は、じっとこちらを見つめている……。

「ラクツくん……」

口に馴染んだ名前を呟いたファイツは、彼の顔を呆然と見つめ返した。ラクツの眉間にはすっかりお馴染みとなった皺が刻まれている。どこまでも呆然と見つめたまま、ファイツは”ラクツくんって何でいつも眉間を寄せてるんだろう”と思った。”痛くないのかな”とか、”もっと楽にすればいいのに”だとか。彼に聞こえないのをいいことに、好き勝手に呟いてみる。

「もう起きたのか、意外と早かったな。もう少し長く眠っているものとばかり思っていたが、予測が外れたな」

風向きが幸いして思ったより”きのこのほうし”を浴びなかったのだろうかという言葉で、ラクツは口を閉じた。”きのこのほうし”。その単語で、記憶が一気に蘇る。そう、そうだった。確か自分達はお昼ご飯を一緒に食べる約束をしていたはずで、そしてご飯は自分が作ることになっていたはずで、だけどダケちゃんの”きのこのほうし”を浴びて自分は眠ってしまったわけで……。

「まあそんなことはどうでもいい。起きたのなら、キミも……」
「……えっと、ラクツくん?」
「何だ?」
「何でここにいるの?」

彼の話を遮って、ファイツは思ったままを口にした。自分がものすごく失礼なことを言っている自覚はある。実際、尋ねた瞬間にラクツの眉間の皺の本数は追加された。だけどそれでも、自分としては訊きたくて訊きたくて仕方がなかったのだ。

(だって、だって……。もう夕方になっちゃってるのに……っ!)

だってだってと、言い訳がましくファイツは心の中でそう叫んだ。今更だけれど、オレンジ色の光が部屋を照らしていることにようやく気付いたのだ。つまり、今は夕方ということになるわけで。だけどそれでもファイツは分からないと思った。どうして彼がまだここにいるのかが本気で理解出来なかった。ラクツのことを理解しているなどとは口が裂けても言えないけれど、彼の性格上お昼ご飯を食べ終えたら用は済んだとばかりにさっさとここを後にするのだろう。そして、どこか遠くに行ってしまうのだろう。淋しいけれど、悲しいけれど、そして彼は意地悪な人だけど。ファイツはきっとそうに違いないと思っていたのだ。事実として、遠回しに”キミとは深く関わらない”と告げられもした。それなのに、どうしてこの家にいるのだろう?

「……ファイツくんも、大概無礼だな。もっとも、ボクが言えた義理でもないが」
「う……。ご、ごめんなさいっ!で、でもね!その、だから……っ!」
「話は後だ。起きたのなら早く手伝ってくれないか?……正直なところ、猫の手も借りたい状況でな」
「は、はい……っ」

ラクツの口調は相変わらず淡々としたものだった。ファイツは何が何だか分からなかった。出来ることならきちんと説明して欲しかった。だけど彼から発せられる有無を言わせぬ雰囲気に押し負けて、こくこくと何度も頷いた。ちょっとだけだるさが残る足を1歩1歩動かして、わけも分からず彼の背中を追いかける。一緒に住んでいるポケモン達が揃いも揃って何故かキッチンに集まっている光景と、何よりキッチンのシンクの上に並べられた数々の料理に驚いたファイツが声を上げるまでは、後10秒。