育む者 : 008

水色のあなた
人の行き交いが幾分落ち着いたように見える大通りを、ファイツはのろのろと歩いていた。自分の亀のような足取りに合わせて、ビニール袋に包まれた荷物ががさりと揺れる。行き先はもちろん自分の家だ。はらはらと舞い落ちて行く桜の花びらが見えて、そっと溜息をつく。行きのように桜が綺麗だとはしゃぐ気はちっとも起こらなかった。あるのはただ申し訳ないという気持ちだけだ。

(全然知らなかった……。皆、あたしの声で迷惑そうにしてたんだ……)

少しも知らなかった。ダケちゃんを叱ることで頭がいっぱいになっていて、自分がかなりの大声を出していたことにまったく気付かなかった。何でも遠巻きからじろじろと見られていた上、ひそひそと噂話をする声がひっきりなしに聞こえていたのだとか。ラクツにその事実を指摘されたファイツは、それからの数分間を俯きがちになって過ごした。彼は内容こそよく聞こえなかったと言っていたけれど、何の慰めにもならなかった。もう恥ずかしくて情けなくて、何より申し訳なくて仕方がなかった。レジで精算してもらっている時ですら、店員ではなくかごの中の食品に目を留めていたくらいなのだ。
ダケちゃんがほぼ全部の試食を食べ尽くしてしまっただけでも申し訳ないのに、挙句の果てに”おや”である自分まであのお店に迷惑をかけてしまった。”あの優しい店員さんだけじゃなくて、大勢のお客さんやポケモンさんにまで迷惑をかけた”。そう思うと罪悪感で胸がずきんと痛んで、ファイツははあっと項垂れた。元から軽いとは言えなかった足取りが更に重くなったような気がしたが、それは多分気の所為ではないだろう。ちなみにダケちゃんはというと、悩みに悩んで選んだ大きいサイズのクリームパンをちびちびと肩の上で味わっている最中だった。普段なら友達の愛らしさに癒されるファイツだが、流石に今はそんな気分にはなれなかった。

(うう……。重いよう……)

重いと感じるのは足取りだけではなかった。それぞれの手で持った2つの荷物だってもちろん重かったのけれど、何よりも心が重かった。2種類の重さが全身にずしりとのしかかる。家までは後少しのはずなのに、何だかものすごく遠い道のりであるような気がしてならない。実際にやるつもりはないけれど、桜の花びらで出来た桃色の地面にこのまま倒れ込みたいとすら思った。

「……えっ!?」

現実逃避というわけではないけれど、桜色に染まった地面に目を留めていたファイツは目を見開いた。手から全身に伝わる重さが何の前触れもなく消え失せたのだ。しかもどちらか片方だけでなくて、両方同時に。まさかと思いながら、ファイツはそろりと顔を上げてみた。出来れば外れて欲しかった嫌な予感はだけど当たっていた。やっぱり斜め上から自分を見下ろしている彼と、ばっちりしっかり目が合った。その彼の手には、今の今まで自分がぶら下げていた重い荷物がしっかりと握られている……。

「ラクツくん……」

ファイツはおずおずと彼の名前を口にした。自分が呼びたいとせがんで、半ば強引にその許可をもらった呼び方だ。そして、自分が間違いなく迷惑をかけてしまった男の人の名前だ……。

(”𠮟りつける声が耳障りだった”って……。はっきり言われちゃったんだよね、あたし……)

あの淡々とした口調で、身体にぐさりと突き刺さるような言葉をまたしても告げられてしまうのだろうか。一瞬身構えたファイツだったが、そのラクツは無言で身体の向きを変えるとそのまま歩き出してしまった。彼はそれぞれの手で重い荷物を持っているのにも関わらず、何も持っていない自分より歩くのが早かった。

「……ラクツくん、待って!」

ポカンと口を開けてその場に立ち尽くしていたファイツは、はっと我に返ると同時に「待って」と叫んだ。だけど、彼は立ち止まってなんてくれなかった。まるで何も持っていないかのように、すたすたと歩いている。このままでは彼との差は広がるばかりだ。そう悟ったファイツは、まだ重い足をどうにか動かして彼の後を懸命に追いかけた。その拍子に、桜の花びらが足元でひらひらと舞い踊る。

「ラクツくん!」

一度目も、そして二度目も。悲しいことに特に反応を見せなかったラクツは、三度名前を呼んだところでやっとそれらしい反応を見せてくれた。つまりは立ち止まってくれたのだ。

「あたしが持つよ!だってこれ、あたしが買った物だし……!」

はあはあと息せき切ったファイツは、肩越しに振り返ってくれたラクツに思ったことそのままを告げた。間を置かずに「見ていて危なっかしい」とこちらの訴えをばっさりと一蹴した彼の返しに思わず挫けそうになって、だけどぐっと気合を入れる。例えそれが事実であったとしても、ここで「そうですか」と引き下がるわけにはいかないのだ。

「そ、それでもあたしが持つから……っ!」
「どうして?」
「だって、その……。ラクツくんに、これ以上迷惑をかけたくないんだもん……」

そうなのだ。店の中ではカートを使えばいいが、外ではそうはいかない。一歩外に出た途端に荷物の重さに負けてよろめいた自分を見るに見かねたのか、ラクツは素っ気ないながらも「ボクが持とうか」と一度は申し出てくれたのだ。そのありがたい申し出を「大丈夫」と断ったのは、他でもないファイツだ。重い荷物を持たせてしまったら、彼にまたしても迷惑をかけることになる。そう思うと、とても素直に受け入れる気にはなれなかったのだ。

「……”ボクに迷惑をかけたくない”、か。それならば、そのままおとなしくしていることだな。転ばれて怪我を負われる方が、ボクにとっては余程迷惑だ」
「…………」

「それと、ボクが運んだ方が単純に早いからな」という言葉で会話を打ち切ったラクツは、これで話は終わったとばかりに身体の向きを変えると再び歩き出した。そんな彼の後を、ファイツは黙って追いかけた。誰も見ていないのをいいことに、大股でずんずんと歩く。

(ラクツくんって、やっぱり意地悪……っ)

ラクツに対して罪悪感を抱いていたはずなのに、今や憤りの気持ちしか湧いて来ないのはいったいどういうことなのだろう。言葉には出さないけれど、背中を見続けることもしないけれど、それでも何も思わないわけではない。率直に言って”酷過ぎる”と思ったファイツは、鬱憤を晴らすかのように何の罪もない桜の花びら達を蹴り上げた。確かに彼の言うことは正論なのだけれど、いくら何でもあんまりな言い方だ。”ボクと食事を共にする気はあるのか”という問いかけに二つ返事で頷いたことを、ファイツは今になってちょっとだけ後悔した。

(何か、すっごくお腹が空いて来ちゃった……。帰ったら、急いで作らなきゃ……)

何せ今日は、普段とは違ってお客さんがいるのだ。それに何より待ってくれているポケモン達をあまり待たせたくはないと気合を入れたファイツだったが、同時にプレッシャーが重くのしかかった。自分からご飯を作ると言い出しておいて何だけれど、失敗したらどうしようという不安に襲われてしまったのだ。罪悪感に苛まれていたこともあって「あたしが作るから」と言ったら、彼は意外にも「分かった」と頷いてくれた。だけど、どちらかと言えば微妙な顔付きをしていたような気がする。例え上手くご飯を作れたとしても、こっぴどく酷評されそうだとファイツは思った。

(ダケちゃんにはあんなに優しい言い方をしてたのになあ……)

頭の中に思い浮かんだのは、ダケちゃんを諭した時のラクツだった。腰をわざわざ屈めてまでダケちゃんに目線を合わせてくれて。そして静かに諭していた時の彼は、とても優しい声をしていた。声だけでなくて口調も優しかった。瞳まで優しかったし、よく眉間に刻んでいる皺はただの1本もなかった。柔らかく細められた瞳からも落ち着いた声色からも穏やかな口調からも、優しさしか感じられなかった。
”意地悪なところもあるけど、ラクツくんって本当は優しい人なんだ”。心の底からそう思ったファイツは、全身から優しい雰囲気を滲ませているラクツのことを真正面からただただ見つめるばかりだった。胸がどきどきと高鳴って息苦しかったことは何となく憶えているけれど、それでも彼のことを見つめていた。呼吸すらも瞬きすらも忘れていた。はっきり言ってしまえば、自分はあの時の彼に完全に見惚れていたのだ。”見惚れていた”、つまりは過去形だ。

(違うもん!”あの”ラクツくんが優しかったから、ちょっとどきどきしちゃっただけだもん!……それだけなんだから!!)

どちらかと言えば心臓をばくばくと高鳴らせていたファイツは、心の中で誰にともなく言い訳をした。ラクツに見惚れていたのは認めるけれど、あくまで”あの時の優しいラクツに”なのだ。憎らしいくらいに背筋が伸びた彼の背中をむうっと睨みつけてやる。重い荷物を持ってくれているわけなのだけれど、今の彼には優しさの欠片も感じられないとファイツは思った。

「ファイツくん。背後から見つめるのは止めてくれとボクは告げたはずだが」
「……ああもう分かった、分かりました!」

睨んでから数秒後に飛んで来たのは、彼からの苦言で。はあっと溜息をついたファイツは脱兎の如く駆け出した。これ以上文句をつけられるのは嫌だと思ったのだ。やっとのことでラクツの隣に並んだファイツは、これ見よがしに両頬を膨らませてやる。ついでに思い切り眉間を寄せて深く皺も刻んでみた。彼だってよくやっているのだから、自分が同じことをしてもいいではないか。すぐに眉間が痛くなって、早くも挫けそうになったことは秘密だ。

「……どうした?随分と機嫌が悪いように見えるが」

斜め上から降り注いだこちらの神経を逆撫でするかのようなラクツの言葉で、こめかみには自然と青筋が浮かぶ。分かっていたことではあるけれど、やっぱり彼は意地悪だ。ダケちゃんを諭していた彼の面影などどこにも残ってはいなかった。優しさが溢れていたあのラクツはいったいどこに行ってしまったのだろう?瞳もどこか冷たいような気がするし、声色は落ち着いているを通り越して最早冷淡そのものだ。もちろん口調だって穏やかさなんて欠片も感じられないし、眉間には自分より深い皺が刻まれているわけで。”あのラクツくんとは何から何まで正反対だ”とファイツは思った。自分はもしかして、夢を見ていたのではないだろうか。そんな錯覚さえ感じてしまう程だった。

「……別に何でもないもん!……ラクツくんって意地悪なんだなあって思っただけ!ちょっとくらい待ってくれてもいいでしょう!?」
「ファイツくんが遅いのが悪い。しかし意地が悪いと評する割には、ボクを名前で呼ぶんだな。ボクは”あなた”でも”警視さん”でも”黒の2号さん”でも別に構わないんだが」
「それとこれとは別なの!……本っ当、ラクツくんって意地悪!」

”髪に許可なく触れてすまなかった”と彼に謝られたことは記憶に新しい。だけどそこに気を遣うくらいなら、もっと別のところに気を回して欲しかった。そう、例えば足を止めてくれるとか。後半部分を強調して言ったファイツは思い切り目を細めた。遠回しに怒っていることを伝えたかったわけではなくて、単純に眩しかったのだ。きょろきょろと辺りを見回したファイツは、眩しさの原因をすぐに特定した。どうやらビニール袋からはみ出ているペットボトルが太陽の光に反射したことで眩しさを感じたらしい。ラベルに”おいしいみず”と書かれたそのペットボトルを、ファイツはまじまじと見つめた。

「あたし……。こんなに水を買ってたんだ……」

”おいしいみず”のペットボトルは全部で5本もあった。1本が2リットルだから、水だけで合計10kgということになる。道理でやけに重かったはずだと、ファイツは変に納得した。

「キミは何をわけの分からないことを言っているんだ?ボクの目の前で買い込んでいただろう」
「……そうだっけ?」

「わけの分からないのはラクツくんだって一緒だと思う」。喉から出かかった言葉を結局は口にしなかったファイツは、小首を傾げながらそう返した。罪悪感に囚われていた所為もあって、買い物をしている最中の記憶がすっかり抜け落ちていたのだ。辛うじて思い出せるのはやっぱりやたらと混んでいたことと、ダケちゃんがクリームパンを選んでいたことくらいだった。

「あたし、全然憶えてなくて……。……何でこんなに買っちゃったのかなあ……?」
「値札を見た瞬間に手に取っていたぞ。店内が異常な程に混雑していたのも、オープン1周年記念で大特価セールを開催していた所為だな。キミだって、納得したように頷いていただろう」
「そう、だっけ……?」
「その記憶すらもないのか。大丈夫だと連呼していたが、本当に発熱しているのではないか?」
「…………」

考えようによっては優しさが窺えなくもないその言葉とは裏腹にどこまでも淡々と言い放ったラクツに、ファイツは無言を貫き通した。最早意地悪だと言い返す気力すらも湧かなかった。その代わりというわけではないけれど、ファイツは心の中でぶつくさと文句を言った。自分がラクツくんと呼んでいるこの人は、まるで水のような人だ。優しいところもなくはないのに、そうかと思えば酷く意地悪で。温かくも冷たくもなる水のように、そして実体のない水のように、どこか掴みどころのない人だと強く思う。

「……はえ?」

ラクツの本質はどこにあるのだろうと物思いに耽っていたファイツは、足をぴたりと止めた。何となく違和感を覚えて、おそるおそる左手を上げてみる。頭頂部の辺りをもぞもぞと動く”何か”にものすごく嫌な予感を感じながら、それでも意を決したファイツはその”何か”を掴んでみた。どうか勘違いであって欲しいと思いながら、思い切り閉じた瞳をゆっくりと開いてみる。だけど、その願いは叶うことはなかった。

「きゃああああっ!!」

”大嫌いな毛虫を素手で持っている”。その事実を到底受け入れられなかったファイツは悲鳴を上げた。虫ポケモンは大好きだが、毛虫となると話は別だった。視界は涙で潤んだし、心臓はバクバクと激しく高鳴っているし、全身からは嫌な汗が噴き出す始末だった。きっとこの後ラクツにまたしても嫌味を言われるとは思うのだけれど、これに比べれば実に些細なことだ。きゃあきゃあと悲鳴を上げ続けるファイツは、完全にパニックに陥っていた。

「……あ、れ……?」

やっとのことで毛虫を放り投げられたとホッとしたのも束の間、ファイツは別の異変に襲われることとなった。どうしてか、立っていられない程の眠気に襲われたのだ。宙に投げ出された拍子にダケちゃんが放った”きのこのほうし”を浴びる羽目になったのだと理解した時には、全てが遅かった。

「まったく……。つくづくキミは手のかかる娘だな……」

自分が本当に意地悪だと評した彼がそう呟いたことも、そしてその彼が倒れ込んだ自分を抱き留めてくれていることにも。そのどちらも知る由もないファイツは、ラクツの腕の中ですやすやと寝息を立てるばかりだった。