育む者 : 007
つぶらなひとみ
人とポケモンでごった返している店内を縫うようにして進んだラクツは、ダケちゃんを無事捜し当てることに成功した。最初から見当を付けていたこともあって、行方不明になっていたダケちゃんの捜索自体は実に短いものだった。むしろここに来るまでの道のりの方がずっと長かったくらいだと思いながら、手持ちポケモンを叱りつけているファイツを無言で眺める。つい先程まで自分が手を引いていた娘だ。性別を考えれば当然なのだが、彼女の手は自分のそれよりずっと小さかった。「もうっ、すっごく恥ずかしかったんだからね!!……顔から火が出るかと思ったじゃない!」
興奮からかはたまた言葉通り恥ずかしいと感じているのか、顔を赤く染め上げたファイツが何やらまくし立てている。周囲に他の人間やポケモンがいないのをいいことに、数分前から始まった説教は今もなお続いていた。ここ以外はどこもかしこも混んでいるのだから奇妙といえば奇妙だが、よくよく考えてみれば納得の光景だと思い直す。何せ今のファイツは大声で叱りつけている娘であるとしか言えないわけで。そう、はっきり言ってしまえば”非常に迷惑な娘”なのだ。目的があるなら別として、大声を出している人間に好き好んで近付く者がいるはずもない。業務で忙しい店員や買い物客なら尚更そうだろう。
「…………」
自然と不快感を覚えたラクツは眉間に皺を寄せた。積極的に近付かないまでも興味自体はあるのか、こちらに向けられる無数の好奇の視線が鬱陶しかったのだ。ついでに囁き声が止めどなく聞こえて来るという事実も不快感に拍車をかけた。あの娘の声でかき消されているから内容こそ聞き取れなかったものの、鬱陶しくて仕方がないとばかりに嘆息する。視線や囁き声以上に鬱陶しかったのがダケちゃんを叱るファイツの声だ。度を超えた大声は他人に多大なストレスを与えるのだという事実を再認識したラクツは、眉間を更に深く寄せた。彼女の興奮を煽りかねないからここで指摘するつもりはないが、”説教するのは勝手だがもう少し声量を落として欲しい”と告げることはラクツの中では確定事項となっていた。
「朝ご飯だってあんなに食べてたのに、全部食べちゃうなんて……!あたしがどんなに恥ずかしかったか、ダケちゃんは分かってるの!?」
”分かってるの”の辺りで、ファイツは困り果てたようにはあっと溜息をついた。ダケちゃんを非常に大切にしている彼女とて、流石に”これ”は看過出来なかったのだろう。何しろ数多くの総菜が並んでいたに違いない試食コーナーには、最早パンの欠片すら残っていなかったのだから。試食という名の暴食を行った犯人は、こうしているこの瞬間も叱られている小さなきのこポケモンだった。現行犯で捕らえたわけではないが、女性店員からの証言も得ているからおそらく間違いないだろう。何よりもダケちゃんの口の周りが汚れていたことと腹部がやけに膨張していることがその証拠だ。いや、ダケちゃんはポケモンであって人間ではないのだけれど。ちなみにそのダケちゃんはというと試食コーナーの担当である女性店員に対してどう考えても色目を使っていたのだが、彼女には言わないでおこうとラクツは思った。火に油を注ぐ結果になるだけだ。
(まあ、何にしてもボクの予想は的中していたわけだ。……どうやら、余程空腹だったと見える。燃費がいいのだろうな)
あくまで試食なのだから、1つ1つの量は大したことはないのだろう。それでも客の為に大量に用意していたであろう試食を、よくもここまで食い尽くせたものだ。そんなことを思いながら、ラクツは視線を彼女に戻した。今や腰に手を当てて説教しているファイツの眉根は、ものの見事につり上がっている。彼女にしては珍しい表情だ。
(そうか。おとなしい娘だとばかり思っていたが、案外そうでもないのか。……それにしても、表情が忙しなく変わる娘だ)
誰がどう見ても怪我など負っていないダケちゃんを見た瞬間のファイツは、確かに胸を撫で下ろしているように見えた。こちらからは後ろ姿しか見えなかったものの、わずか数mの距離を小走りで駆けた際の彼女はその動作と声から涙ぐんでいることが窺えた。ソースやら何やらで汚していたダケちゃんの口の周りをポケットティッシュで綺麗に拭き終えたその数秒後には、誰がどう見ても怒っていると分かる表情に変わっていたのだから驚きだ。自分自身の感情を理解する機能が欠落している自覚があるラクツだが、そんな自分にも彼女が”怒っている”と容易に判断出来る程の怒りようだ。見ていて飽きないというか、興味深いというか。表情をころころ変えるファイツから、どうしてか目が離せないとラクツは思った。
「……ちょっと、聞いてるのダケちゃん!」
その言葉と共にファイツが拳を身体の前でぐぐっと握り締めたのが見えたが、ラクツは間に割って入ろうとは微塵も思わなかった。彼女がダケちゃんを大事にしていることはその言動からしても明らかだ。いくら説教とはいえ、そんなあの娘がポケモンに暴力を奮うとはとても思えなかったのだ。それをよく理解しているからこそダケちゃんもあのような態度を、はっきり言ってしまえば彼女を下に見た態度を取っているのだろう。説教などどこ吹く風といった様子で何度も目を擦っているダケちゃんは、満足そうにお腹を擦っていた。以前から食べ尽くす機会を狙っていたに違いないと思わせるダケちゃんの顔には、言うまでもなく反省の色など欠片も見られない。しかも、事もあろうに早く終われとでも言わんばかりの大あくびまでする始末だ。
「ああそう!……分かった、よく分かりました!好きな物は買ってあげるけど1個だけ!3時のおやつはなし!……それと、試食するのはしばらく禁止ですからね!!」
どう解釈しても話をまともに聞いていないと分かるダケちゃんの態度で、流石に思うところがあったのだろう。こめかみに青筋を浮かべながらそう言い放ったファイツの言葉で、ダケちゃんは弾かれたように顔を上げた。この期に及んでもあの約束は丸ごと有効であると思い込んでいたようで、酷くショックを受けていることが窺える。ラクツもラクツで、ダケちゃんとは別の意味でファイツをまじまじと見つめた。3個から1個に数が減ったとはいえ、彼女は好きな物を買ってあげるという約束を反故にするつもりはないらしい。しかもダケちゃんの聞き分けが良かったらおやつまで与える気でいたとは、まさに驚愕の極みだ。
(……何というか、甘い娘だ)
”キミがそんな態度だから、手持ちポケモンとの力関係が逆転する羽目になっていると思うんだが”。口から出かかった言葉を、ラクツはしかし胃の中に収めた。手持ちポケモンとどんな関係を築こうがそのトレーナーの勝手だし、そもそも彼女達とは精々後数時間のつき合いなのだ。そう指摘することは、まるで意味のないことのように思えてならなかった。
「お店に迷惑をかけたんだから当たり前でしょう!?店員さんに赦してもらえただけでもありがたいって思わなきゃ!本当だったら、”もう来ないでください”って言われても仕方ないくらいなんですからね!」
どういうわけか敬語を使い出したファイツは、どこか不満そうなダケちゃんを半ば強引に手の上に乗せるとトーンを落として話し始めた。そんな彼女の声を耳にしながら、ラクツは軽く頷いた。ファイツの今しがたの言葉には完全に同意だ。ダケちゃんに困らされていたに違いない女性店員は、「弁償します」と言い出したファイツに苦笑しつつも「大丈夫ですよ」と答えていた。ファイツも大概だが、この店もかなり甘い対応をしたものだと今更だが思う。個人的には間違いなく出禁になると踏んでいたのに、結局こちらの予想は掠りもしなかった。いや、自分にはまったく関係のないことなのだけれど。
「そんな顔してもダメ!ダメったらダメ!……ラクツくんに助けを求めてもダメ!!」
ダケちゃんがこちらを見つめていることをその声で悟ったラクツは、思考を一時中断させた。やや俯けていた顔を上げてみれば、ファイツまで縋るようにこちらを見つめているではないか。ダケちゃんとファイツのつぶらな瞳から放たれたまっすぐな視線が、この身に深く突き刺さる。向けられる視線など普段は気にしないラクツだが、どういうわけかこの時ばかりは気になって仕方がなくて。だから、それは深く息を吐き出してやった。双方に言いたいことはあるのだが、まずはこの騒動の元凶であるダケちゃんに向き直る。
「……ダケちゃん。ここはおとなしく聞き分けた方がいいとボクは思うぞ。ファイツくんの言うことはもっともだ。正直、出禁扱いになるに違いないと踏んでいたくらいだ。そうならなかったのは、あくまでこの店が温情をかけたおかげだな」
「ラクツくん……!」
思ったことを率直に述べた瞬間に、ファイツが感極まったように名前を呼んだ。涙ぐんでいるようにすら思えるその反応を大袈裟だと笑えばいいのだろうか、それとも呆れればいいのだろうか。よく分からなかった為に折衷案として苦笑を浮かべたラクツは、ファイツの手の中にいるダケちゃんと目線が合うように身を屈めた。
「ダケちゃんだって、この店の総菜を気に入っているんだろう?ファイツくんの言い付けを破るのはキミの自由だが、そんなことをしたら二度と食べられなくなるぞ。彼女にだって店を選ぶ権利はあるからな」
”ちょっと”どころではなく実際にはとんでもなく食い意地が張っていたダケちゃんを、静かな口調で説き伏せる。説得するなら食べ物を引き合いに出すのが最も効果的であることは明白だ。それが功を奏したのか、ダケちゃんは長い沈黙の後でこくんと頷いた。どうやら葛藤があったらしいが、それでも最後には言い付けを守る方向に行き着いたらしい。
「さて、ファイツくん」
これでひとまずダケちゃんの説得は完了したことになる。ならば次は”おや”であるファイツの顔に視線を移す。わざわざ立ち上がるのも面倒だったし、何より諭すのだから腰は屈めたままでいいだろう。その結論に至ったラクツは眼前にいる娘の名前を口にした。そう、口にしたのだ。
「…………」
「……ファイツくん?」
これ程間近で名を呼んだのだから、少なくとも話を聞いていますという姿勢くらいは見せてくれるだろう。ラクツとしてはそうに違いないと思っていたのだが、しかし実際はそうではなかったらしい。ファイツは呆然自失といった様子で瞬きすらもしなかったのだ。完全に放心してしまっている。それに、心なしか顔も赤くなっていやしないだろうか?
「……ファイツくん、どうした?熱でもあるのか?」
そう問いかけてもみても、彼女の態度は何ら変わることがなかった。身動ぎどころか瞬きすらしない、相変わらずの無反応振りを見せている。急な発熱に襲われたのかと深く考えずにファイツの艶がある前髪を掻き上げたラクツだったが、熱を測る目的から行われたそれは他ならない彼女自身の手で達成半ばで阻まれることになった。額に指が触れる寸前で我に返ったらしい彼女が、悲鳴を上げると同時に飛び退いたからだ。
「…………」
左手を何もない空間に伸ばしたままの状態で、ラクツは1歩どころか10歩は後退したであろう娘を見据えた。別に他意はなかったとはいえ、”女性の髪には気軽に触れるべきではない”という国際警察長官の教えを守らなかった自分にも確かに非はあるのかもしれない。しかし、それにしてもあの態度は少々行き過ぎではないだろうか……。
(今に始まったことではないが、この娘の真意が読めないな。……この有様では、昼食を共にする約束は反故にした方がいいような気がするんだが)
自分に苦手意識を抱いているというならそれでいい、約束は白紙にしてこの店から早々に出るだけだ。違うというなら大袈裟に飛び退いた意味が分からない。「何でもないの」と「ごめんなさい」を繰り返すファイツを一瞥して、ラクツははあっと嘆息した。
とにもかくにも、まずは”落ち着きたまえ”と告げよう。彼女が冷静さを取り戻したら髪に触れたことの非礼を詫びて、それから”ボクと食事を共にする気は本当にあるのか”という確認を今一度行って。そして最後に”ダケちゃんを𠮟りつける声が非常に耳障りだった”という苦言をこの娘に呈すべく、ラクツは閉じていた口を開いた。