育む者 : 006
ショッピング・パニック
「う……。嘘……っ」すっかり行きつけの店となった、スーパー・ヒオウギ。その店内に一歩足を踏み入れた瞬間、ファイツはそんな言葉を漏らした。決して大きいとは言えない店内は、人とポケモンでものの見事にぎゅうぎゅう詰めになっていたのだ。確かにここは安いし、おまけにお昼真っ只中という時間帯も手伝ってそれなりに混むだろうとは思っていた。だけどまさか、ここまで混むだなんて夢にも思わなかった。満員御礼にも程がある。
「……あ、ダケちゃんっ!」
”ここに来たがっていたダケちゃんには悪いけど、混み過ぎてるから店を変えよう”。ふと頭に浮かんだそんな考えは、ダケちゃん本人が無謀にも人とポケモンで出来た波に飛び込んでしまったことで泡と消えた。小さくて軽い身体のおかげなのか、ダケちゃんはぴょんぴょんと器用に飛び跳ねて人伝いに店の奥へと向かって行く。そんなダケちゃんの姿を呆然と見つめていたファイツは、はっと我に返った。いくらダケちゃんが小さい身体をしているとはいえ、この混雑振りだ。何かの拍子に跳ね飛ばされたり、何なら踏まれないとも限らない。最悪の光景を思わず想像してしまったファイツの顔色は、一瞬で青くなった。
「ダケちゃん、待って!!……待ってってば!」
ファイツは懸命に声を張り上げた。何度も何度も「待って」と訴えた。だけど自分に目線を向けるのは人やポケモンばかりで、一番届いて欲しいダケちゃんにはとうとう届くことはなくて。大事な友達の姿を完全に見失ったファイツは、ぐっと奥歯を噛んだ。ダケちゃんが怪我をしたら、それは間違いなくあの子を引き留められなかった自分の責任だ。こうしてはいられないと、止めていたままだった足を前へと踏み出した。その途端に腕を強く引っ張られる羽目になったファイツは勢いよく振り返った。こんなことをするのは一緒に店内に入った彼しかいないと、振り向きざまに条件反射で斜め上を睨みつけてやる。強く引っ張られた所為で、腕がずきずきと痛かった。
「何するの、ラクツくん!」
自分の勝手な決め付けは、どうやら当たっていたらしい。痛みと憤りからぐぐっと眉根を寄せたファイツは、斜め上から自分を見下ろしている彼に更なる恨みがましい視線を送りつけた。
「それはこちらの台詞だ。キミはこの混雑を本気で真正面から突破するつもりなのか?進行方向的にどう考えても無謀だとしか思えないがな」
何をやっているのかと言わんばかりの溜息をこれ見よがしにつかれたことで、ファイツの焦りと苛立ちはますます募った。こうしている今にも大事な友達が大怪我をするかもしれないというのに、どこまでも冷静な態度で自分を引き留めるラクツが心の底から恨めしい。誰かを嫌ったり憎んだりすることはあまりない自覚があるファイツだが、この時ばかりは本気でそう思った。
「放して!放してってば!」
ファイツはどうにか振り解こうと、必死になって腕を動かした。だけどどれだけ力を込めたところで、彼の手はびくともしなかった。自分は女でラクツは男なのだという性別の差をまざまざと見せつけられて、一瞬諦めそうになったファイツは奮起した。ダケちゃんは大事な大事な友達ではないか。簡単に諦めてどうする。
「お願いだから放してよ、ラクツくん!」
「断る。放したら、ファイツくんはこの群衆の中を逆らって進むだろう?ダケちゃんの体格なら可能でも、キミには到底不可能だ。押し潰された結果、怪我を通り越して窒息しかねないぞ」
「…………」
言葉での懇願が失敗に終わったファイツはまた奥歯を噛んで俯いた。分かっている、彼は自分を心配してくれた為にわざわざ引き留めてくれているのだ。言うなれば、死にに行こうとしていた彼をかつて引き留めたファイツ自身と同じ行為をしているだけだ。そうなのだ、時には自分の命を投げ捨ててでも護りたい大切なものが誰にだってあるわけで。こんな形で彼の気持ちを分かりたくなかったと思いながら、それでもファイツは顔を上げた。
「それでも、あたしが行かなきゃ……!ダケちゃんを助けないと……っ!」
「ダケちゃんなら大丈夫だろう。確かにおっちょこちょいだが、あれで中々に実力は高いポケモンだ。集中力もある。無事たどり着いた目的の場所で、懸命に物色しているのではないか?」
「目的の場所って……」
「食品売り場だろう?キミとの交渉で好物を3つ購入してもらえる権利を勝ち取ったと記憶しているが。どうやら食に執心しているようだし、何よりも空腹だと目付きと身振り手振りで訴えていたし……。そうだな、今頃は試食コーナーを順に巡っているかもしれないな」
「…………」
ラクツの言葉はあくまで推測でしかない。だけどファイツは、彼の発した言葉が的中していると根拠もなく思った。そうであって欲しいという願望ではなくて、絶対にそうだという確信があった。黙り込んだ自分をどう解釈したのか、ラクツが訝しげに眉根を寄せた。
「ん?……違うのか?」
「ううん……。合ってる、と思う……。ダケちゃんって、このスーパーで試食するの好きだもん……。ここの総菜って、安くて量もあるのに美味しいから。……恥ずかしいけど、お店の人に食べ過ぎだって注意されることもあるんだよ?」
「ああ、それでこの混雑か。とはいえ、常軌を逸している気もするが」
「……ラクツくん」
納得したように頷いた彼の名前を、ファイツはそっと口にした。ざわざわと店内がうるさい中で随分と小さな声だと思ったけれど、それでも彼は目をこちらに向けてくれた。そのことが、だけどとても嬉しいとファイツは思った。ラクツへ抱いていた”恨めしい”というやつ当たりにも似た気持ちは、いつの間にか跡形もなく消えていた。
「何だ?」
「……ありがとう」
にっこりと微笑んで、感謝の言葉を紡ぐ。ただの言葉だけじゃ足りないと思ったから、ぺこりと頭も下げた。やっぱり斜め上から降って来た「急にどうした」の声がどこか狼狽えているように聞こえるのは、自分の気の所為なのだろうか。そんなことを思いながら、斜め下から彼の顔をまっすぐに見上げる。
「だって、ラクツくんにどうしてもお礼が言いたかったんだもん。……そうだよね、ラクツくんの言う通りだよね。きっと大丈夫だよね!」
「あくまで予想だ。ボクは無事であると思っているが」
「うん……。ダケちゃんって、ちょっと食い意地が張ってるけど身軽な子だもん。でもラクツくんって、ダケちゃんのことをよく見てるんだね」
「これでも警察官だからな。観察力と洞察力は人並み以上にはあると自負している」
小難しい言い回しをしたラクツに、彼らしいとばかりに微笑んでみせる。いつの間にか、掴まれていた手は自由になっていた。だけどファイツは、こちらに押し寄せる人で出来た波に逆らって進もうとはもう思わなかった。こうして頭が冷えた今、そうすることがとんでもなく無謀であると思えるのだから不思議なものだ。それもこれも、ラクツが自分を引き留めてくれたおかげなのだろう。
「ラクツくん。あたしを心配してくれて、ありがとう」
純粋な感謝の気持ちから生まれた言葉が、唇から勝手に飛び出した。気が付いたら”ありがとう”と言っていた。目を細めた自分とは対照的に、ラクツは目を大きく見開いた。彼の瞳の色が、同じ茶色である彼の髪よりちょっとだけ濃いことにファイツは今更気が付いた。
「……心配?」
首を傾げて、ついでに眉間に皺を寄せて。ラクツは呆然としたように呟いたから、だからファイツもまた同様に首を傾げた。おまけに眉根も寄せた。
「……違うの?」
「そう、なのだろうか……」
「も、もしかして違った?あたしは勝手にそうなんじゃないかなあって思ったんだけど……。……やだ、あたしの勘違い!?」
彼が自分を引き留めたことは事実だ。だけどそれがひょっとしたら死にかねない自分を心配してくれたからではなく、まったく別の理由からした行動である可能性に思い至らなかったファイツは途端におろおろと慌てた。例えば自分が死んでしまったとして、”同行者という理由で行われるであろう事情聴取が面倒だから引き留めた”という理由だったらどうしよう。もしもその予想が当たっていたとしたら、自分はとんだ道化ではないか。もう恥ずかしいやら情けないやらちょっとだけ悲しいやらで、ファイツは涙目になった。
「心配……。心配、か。ボクにもよく分からないが、そうなのかもしれないな。……ところで、ファイツくん。ここからまっすぐに食品売り場に向かえとは言わないが、それなりに急いだ方がいいのではないだろうか」
「はえ?」
色々な感情で頭の中がいっぱいになっていたファイツは間の抜けた声を出した。急いだ方がいいって、何で?
「ダケちゃんは食い意地が張っているんだろう?おまけにファイツくんが傍にいないのだから、下手をすると試食を軒並み平らげているかもしれないぞ」
「あっ!」
ファイツは自由になった両手で口を覆った。そうだった、ダケちゃんは基本的に食べることが好きな子なのだ。ダケちゃんはそんなことしないと言い切れないのが悲しい。言い切れないどころかむしろ心ゆくまで食べまくっている光景がありありと脳裏に浮かぶのは何故なのだろう……。
「い、急がなきゃ!……ふえっ?」
ファイツはまたしても間の抜けた声を上げた。今度のそれは、ラクツに手を握られたからだ。その事実を認識した瞬間に、どきんと心臓が大きく高鳴った。
「今のファイツくんを見ていると、どうにも危なっかしいと思えてな。それと、単純に店内で逸れそうだ。手を繋いだ方がいいだろう」
「う、うん……」
有無を言わさずといった調子で手を握ったラクツに、ファイツはこくんと頷いた。不思議と嫌だとは感じなかった。感じるのは、彼の手が温かいということだけだった。ファイツは胸をどきどきと高鳴らせて、そして顔をちょっとだけ赤く染めて、比較的流れが穏やかな方向を目指して歩くラクツの後を黙って追いかけた。