育む者 : 005

桜色のキミ
(……まったく……。あの娘はいったい何をやっているんだ?)

声に出さずにそう呟いた黒の2号は、深く嘆息すると眉をひそめた。視線の矛先は言うまでもなくファイツという名の娘だ。彼女は元から大きい瞳を更に大きく見開いて、ついでにポカンと口を半開きにして、凍り付いたようにその場に立ち尽くしている。
ジョウト地方のコガネシティやカロス地方のミアレシティなどの大都会には負けるものの、ヒオウギシティはそれなりに人口の多い町なのだ。今が昼時ということもあって、大通りは中々の賑わい振りを見せているように思える。そんな中で人の行き交いを阻むかのように道の中心に立ち尽くしているファイツは、かなり目立つ存在だった。

「…………」

脳裏に過ったのは、在りし日のファイツだ。転校初日での自己紹介で注目を浴びたことが余程恥ずかしかったのか、窓ガラス越しでも分かる程に顔を赤く染めていた。脳内に存在するこの娘の情報とまたしても食い違うと、黒の2号は眉間に皺を刻んだ。ファイツはすれ違う通行人達から発せられた幾多の視線に無反応のまま立ち尽くしているわけだが、この娘は目立つことを嫌がる性格をしていたのではなかったのか。

「ファイツくん」

突き刺さる視線に気付いてはいても態度に出していないだけなのか、そもそも気付いていないのか。黒の2号は思考の海に1人身を沈めていたが、やがて引き結んでいた唇を開いた。いつの間にやら人間で形成された波は更に激しさを増していたし、何より彼女の肩の上にいるダケちゃんが執拗に早く行こうと身振り手振りで催促していることに気付いたからだ。黒の2号は急かす意味で名前を口にしたのだが、それでもファイツは立ち尽くしたままだった。その態度で嘆息した瞬間に風に吹かれた花びらがひらひらと舞い散って、それと同時に彼女が感嘆したように溜息を漏らしたように見えた。そう、この娘は大通りを彩る桜並木に先程から目を奪われているのだ。

「……ファイツくん」

黒の2号は再度名を呼んだが、彼女の様子は依然として変わらなかった。相変わらず口を半開きにしたまま、凍り付いたように桜並木を見続けている。邪魔だと言わんばかりにすれ違いざまに舌打ちをする者もとうとう現れたが、それでも彼女は微動だにせずその場に立ち尽くしていた。その横顔には恍惚以外の色は欠片も見られない……。

(ああ、注目を浴びていること自体に気付いていないのか。……さて、どうするべきだろうか)

いっそ、この場に置き去りにするのもいいかもしれない。何しろ、ここまで桜に魅入られているのだ。ここは彼女の意思を汲んでやるべきだろうかと黒の2号は胸中で呟いた。昼食を一緒に食べないかという誘いを承諾したのは単に食事を済ませていなかったからで、つまり彼女につき合う義理などそもそもないわけで。この娘だって桜を見たがっているようだからちょうどいい、何より自分がこれ以上時間を奪われずに済む。まさに一石ニ鳥だ。そんな思考に至った黒の2号が最終通告とばかりに唇を開くのと、これまで固まったままだったファイツが唐突に振り返ったのは、まったくの同時だった。

「見てラクツくん、桜がこんなに咲いてる!」
「……っ」

桜並木を指差したファイツが、柔らかく目を細めてそう言った。満面の笑みを湛えている彼女を認めた瞬間、黒の2号の呼吸は止まった。彼女の茶色い髪の毛が、風の動きに合わせてさらりと揺れている……。

「…………」

”この娘に見惚れた”。そんな事実を知る由もない黒の2号は、ファイツを見つめたまま硬直した。心臓が早鐘を打っていることを、どこか他人事のように自覚する。自分のものとは違う彼女のそれが毛先まで艶めいている事実を知ったのは、見つめ始めてから数秒後のことだった。

「ああもう、すっごく綺麗……っ。あたし、もうすっかり見とれちゃって……。……あ!」

舞い落ちる花びらをどうにか捕まえようとしたのか、彼女が手のひらを忙しなく動かしている。その様子がどこか遠くで見えるような気がしてならないのは、いったい何故なのだろうか?

「あーあ、行っちゃった……。……あれ?ラクツくん、どうかしたの?」
「…………」

黒の2号はファイツの問いかけに答えなかった。別に無視したわけではなかった。ただ、何を言えばいいのか分からなかったのだ。何せこうしている間にも、心臓の鼓動は更に激しく高鳴っているのだから。どうしてこの娘の問いを無視しようと思えないのだろう。それにどうして、またしても顔の火照りを感じているのだろう。疑問符を頭に浮かべながら彼女を見つめていると、ファイツが何かに気付いたかのようにはっと目を見開いた。

「あ、あの!今のは花びらを捕まえようとしたの!その、だからね……っ!」

何をどう思ったのかは知らないが、突然そう言い出したファイツの顔は緋色に染まっていた。その必要もないのにわたわたと腕を動かしている彼女の顔には、”恥ずかしい”と大きく書かれていた。何を言うでもなく見つめ続けていたら、彼女はがっくりと項垂れた。

「うう……。あたしのこと、子供っぽくて変な子だって思ったでしょう?」

前半部分はともかく現在進行形で”変な”事態に陥っている黒の2号は、観念したように口を開いたファイツの問いに曖昧に頷くだけで応える。すると、彼女はどうしてか酷くショックを受けたような様子を見せた。俯きがちになって「すっごく綺麗だったんだもん」だなんて、何とも言い訳がましい言葉をぶつぶつと呟いている。

「えっと……。その、ほら!お、大通り中に咲いてるから……」
「……わざわざ言わなくてもいい、嫌でも目に付く。あのようにはしゃいでいる人間は、精々キミくらいのものだ」

ようやく声がまともに出せるようになった黒の2号は、淡々と返した。しかしその返しは、ファイツにとって納得出来るものではなかったらしい。はあっと溜息をついた後で「ラクツくんの意地悪」と呟いた彼女の眉根は、どう見てもしっかりと寄せられていた。

「そう言われてもな。国際警察官として世界中を飛び回っている以上、桜などとうに見飽きている。それと、先程からずっと気になっていたんだが」
「……な、何?」
「ボクはもう、ラクツという名を捨てた身だ。いい加減、ボクをそう呼ぶのは止めてくれないか」
「…………」

そうなのだ。再会してからというもの、この娘は基本的に”ラクツくん”と呼んで来るのだ。任務の度に名前をもらう自分にとって、それは違和感を抱く以外の何でもなかった。

「…………どうしても、ダメかなあ?」

沈黙の後でぽつりと発せられた言葉は、風が吹けば消えそうな程に弱々しいもので。”まるで舞い散るこの花びらのようだ”なんて思いながら、黒の2号は実にたどたどしく言葉を紡ぐ娘をまっすぐに見返した。

「あの……ね。学校に通ってた頃に名前で呼ばなかったあたしが言うのもおかしいけど、どうしても名前で呼びたいの。”あなた”や”警視さん”じゃなくて、ちゃんとした名前で……」
「……どうしても?」
「うん」

尋ねたら、ファイツはこくんと頷いた。即答だった。青い瞳を揺らめかせながら、それでもまっすぐに見据えて来る彼女を黙って見つめていた黒の2号は、深く息を吐き出した。この娘に会ったことといい今といい、今日はやけにイレギュラーなことが起きる日だと内心で嘆息する。

「……まあ、いいだろう。ファイツくんの好きにしたまえ」
「い……。いいの?本当に呼ぶからね?」
「構わない。どうせ、数時間限りのことだからな」

”キミと深く関わるつもりはない”。直接言わないまでも言外でそうほのめかすと、ファイツは目を見開いた。深い海を思わせるかのような、はたまたどこまでも澄み切った空を思わせるような。どちらとも受け取れる彼女の瞳は、やはりゆらゆらと揺れていた。

「……うん。そう、だね……。ラクツくん……」

ファイツはまたしてもぽつりと呟いて、口角を上げた。それは同じ笑うという行為だったが、桜を見てはしゃいでいた際の笑みとはまるで違うもののように思えた。はっきり言ってしまえば、どこか無理をしたような笑みに見えたのだ。

(……ボクには関係のないことだ)

黒の2号、もといラクツは内心でそう口にした。例え自分の読みが当たっていたとして、それがいったいどうしたというのだろうか。何せファイツという名のこの娘と自分とを繋いでいる関係性は、散り行く桜のように実に儚いものなのだ。長くて精々1時間程度といったところか。今から数時間後には、きっと自分はどこぞを当てもなく歩いていることだろう。彼女だって、自分と会ったことを早くも過去のものとして昇華しているに違いない。そんなファイツに「無理に笑っている」と告げることは、まったくもって意味のないことのように思えたのだ。
”自分とこの娘の関係性は、桜の如く儚いもので終わる”。自分のその考えがまるで見当違いであることを知る由もないラクツは、「行こっか」と言ったファイツに頷いた。スーパーに行きたいダケちゃんの願いはこれでようやく叶うらしい。連れ立って歩くのではなく彼女の横を悠然と通り過ぎたその瞬間に、またしても数枚桜が音もなく舞い落ちた。