育む者 : 003

うっかりや
(ああもう、恥ずかしいよ……っ!何であんなことしちゃったんだろう……!)

”穴があったら切実に入りたい”。日の当たる下をとぼとぼと歩きながら、ファイツはこう思った。まるで稲妻か何かのように、色鮮やかな記憶が頭の中を駆け巡る。最初はわけが分からなかった。”ラクツくんはどうして立ち止まったんだろう?”と不思議に思っていた。彼自身の口から指摘されるまで、自分が彼の手を掴んでいたことにまったく気付かなかった。ラクツに「その手を放して欲しい」と頼まれて、ファイツははっと我に返った。促されて目線を動かしてみたら、確かにそこには自分の手が彼のそれをしっかりと掴んでいる光景が映っていて。悲鳴を上げるのと掴んでいた手を離すのは、ほとんど同時だった。
何で、どうして、いつの間に、何やってるの。自分でそうしておきながらそんな言葉を繰り返し繰り返し心の中で叫んだファイツは、顔からだらだらと冷や汗を垂らしながら何度も「ごめんなさい」と謝った。口で謝るだけじゃ足りないと思ったから、何度も何度も頭を下げた。あたしのバカと、何度も何度も自分自身を罵った。彼を引き留めた自分を赦してくれたラクツを遠巻きから見つめて、ファイツはそっと溜息をついた。

(すっごく背筋が伸びてる……。そっか、ラクツくんって姿勢いいんだ……)

時々猫背になってしまうファイツは羨ましいと思いながら、彼の背中を見つめていた。このまま彼と別れてしまうのは、何だかとても淋しいような気がしてならなくて。だからファイツは、ありったけの勇気を振り絞って「一緒にお昼ご飯を食べない?」と誘ってみたのだ。長い長い沈黙の後でその誘いに頷いてくれたラクツは、行先であるスーパーの場所を知っていたらしく、自分のずっと先を歩いているのだ。そんな彼のまっすぐに伸びた背筋が否が応でも目に映った。何となく居たたまれなくなって目線を動かしてみたら、今度は彼の右手に目線が引き寄せられた。ごつごつと骨ばった、そして自分が無意識に握り締めてしまった、彼の右手だ……。

(やだ……!思い出したら、また顔が熱くなって来ちゃったよぉ……っ!)

あれから少なくとも5分以上は経っていると思うのだけれど、顔中に集まった熱は少しも引いてくれなかった。顔どころか最早耳まで熱いと、ファイツは堪らずに息を吐き出した。もう恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなくて、出来ることならこの顔を誰にも見られたくないとすらまで思った。だけど、それは叶わなかった。こんなにも強く願っているというのに、右肩から右手の上へと飛び降りたダケちゃんから放たれた鋭い視線が顔に突き刺さったことで、今度は背中から汗がどっと噴き出した。

「きゃあ!」

”ダケちゃんに真っ赤になった顔を見られている”。その事実を認識したファイツの顔は、更に赤くなった。それに気を取られていたファイツは、またしても悲鳴を上げた。足がずるりと滑った結果、本日2回目の尻もちをついたのだ。どうしてここだけぬかるんでるのと、自らの足跡が付いた地面をじいっと睨みつけてやる。不幸中の幸いで、お気に入りのスカートが泥だらけになるという未来は回避出来た。
だけどその代わりに、柔らかい地面に華麗に着地したダケちゃんに盛大に呆れられる羽目になってしまった。

「…………」

この瞬間でさえも世界のどこかでポケモンに優しく接しているに違いない憧れのあの人のように、ポケモン達の声を聞く能力など自分にはないことは分かっている。けれど、この時ばかりはファイツにだってダケちゃんが何を言いたいのかは流石に理解出来た。”何やってんだ”と言ったダケちゃんの声を確かに聞き取ったファイツは、はあっと深く項垂れた。まったくもって、ダケちゃんの言う通りだと強く思う。今回はぬかるみで足が滑ったわけだけれど、どういうわけかファイツは何もないところで転ぶことが多かった。自分でも不思議なことに、直したいと思っているのに、だけどどうしてもドジを踏んでしまうのだ。こんなことだから、自分はダケちゃん”に”手持ち呼ばわりされてしまうのだろう。確かに”おや”であるはずの自分が、だけどその手持ちポケモンに世話を焼かれている。あまりにも不名誉で情けないその事実で、ファイツは酷く落ち込んだ。そうは言っても、ドジを踏む度に落ち込むのは今に始まったことではないのだけれど。

「何をやっているんだ、キミは」

斜め上から降って来た声で、ファイツはぱっと顔を上げた。落ち着いた、何だか大人っぽさを思わせるような低い声だ。自分より1歩も2歩も、いや10歩も20歩も先を歩いていたはずなのに。それなのに、いつの間にこんなに近くに来ていたのだろうか?ファイツは呆然としながら、ラクツの顔を見上げていた。

「な、な、何でもないの!ちょっと滑っちゃってね、それだけ!」

手をひらひらと振りながら、精一杯笑ってみせる。そんな自分のことを呆れたように眺めていた彼が、手を差し伸べてくれたから。だからファイツは、右手を伸ばした。へたり込んだところを見られてしまったのは恥ずかしかったけれど、彼の気遣いが嬉しかったのだ。だけどありがとうと言う間もなく前へと引っ張られて、唇からは悲鳴が勝手に飛び出すことになった。

「ふえっ!?……な、何っ!?」
「何はこちらの台詞だ。先程からずっと、キミの視線が背中に突き刺っている。頼むから、ボクの隣を歩いてくれないだろうか。同じ視線を向けられるにしても、気配を探る必要のない分隣の方がまだマシだ」

呆然としたファイツは、ただただ酷いと思った。確かにじろじろと見つめていた自分だって悪いけれど、そこまで言わなくてもいいではないか。感じたばかりの彼への温かな感謝の気持ちが、一瞬で粉々に砕け散る。まだマシだなんて言い方はあんまりだと思ったから。だからファイツは「ラクツくんのバカ」と言って、恨みがましさが込められた視線を斜め上へと送った。