育む者 : 003
再会、春景色。
「ごめんねダケちゃん!あたしったら全然気付かなくて……!」団子状にまとめた髪の毛先を垂らしている娘が、小さなきのこポケモンにそっぽを向かれている。ダケちゃんというニックネームのタマゲタケに拗ねられて、必死に謝っている。彼女だって自分の落ち度は分かっているのだろうが、何としても言い分を聞いてもらいたかったのだろう。青い瞳を潤ませてまで弁明しているファイツの姿を、黒の2号は遠巻きから眺めていた。
(……鋭いのか鈍感なのか、よく分からない娘だな)
そう呟いて嘆息する。脳裏に蘇るのはつい先程告げられた言葉だ。変装は完璧だったと自負していたのに、声だって小型の変声機で変えていたのに、どういうわけかあの娘には正体を見抜かれた。以前すれ違った時は微塵も気付いていなかったのに、どういうわけか今日は看破されてしまった。国際警察のデータベースから適当にパーツを合成して作成した男の顔とは似ても似つかない”ラクツ”をどのような思考回路で結び付けられたのかが、どうしても気になって。湧き上がった疑問を氷解させるべく尋ねてみたら、返って来たのは”何となく分かったの”という何とも曖昧な答だった。言葉とは裏腹に、確信を抱いたような物言いだった。それなのに、今や両手を合わせて必死に謝っているファイツにあの面影は欠片も見られなかった。わけが分からないと黒の2号はまたしても溜息をついた。視界に映っている彼女は、どこからどう見ても普通の娘であるようにしか思えない。国際警察官である自分の正体を見事に看破した、そして似ても似つかない男を”ラクツ”と結び付けた、あの鋭さはいったいどこに行ってしまったのだろうか?
「ち、違うんだよ!?無視したわけじゃなくてね……っ」
”いや、あれは無視をしたのと同義だろう”。黒の2号は心の中でそう指摘した。ぶつかってしまった衝撃で投げ出されたダケちゃんが、ファイツの足元で何度も主張していることにはもちろん気付いていた。肩の上に登りたいと、懸命に跳ねていた。彼女だって気付いているものとばかり思っていたからこちらは口を出さなかったのだが、まさか本当に気付いていなかったとは。唇から独りでに溜息が零れ落ちた。
「う……。わ、分かったっ!お詫びに好きな物を1つだけ買ってあげるから!アップルパイでもチョコレートでもプリンでも、全部ダケちゃんが食べていいからっ!……ど、どう?」
彼女が何かを言う度にそっぽを向いていたダケちゃんは、この言葉で心を動かされたようだった。つぶらな瞳を目いっぱい見開いて、”おや”であるファイツをまじまじと見つめていたものの、それでもむくれを解消するまでには至らなかったらしい。その条件では呑めないとでも言いたげに、小さな身体同様に小さな手を催促するようにぴこぴこと動かしている。
「……じゃ、じゃあ特別にもう1個……。ううん、全部で3個買ってあげる!…………やった!赦してくれてありがとう、ダケちゃん!」
予想はついたが、勝ったのはダケちゃんだった。ファイツとダケちゃんを眺めて、黒の2号ははあっと溜息をついた。本当にわけが分からなかった。こちらからすれば酷い仕打ちを受けたのは幾度となく無視を決め込まれたファイツの方なのに、その彼女が何故礼を言っているのだろうか。しかも彼女はものすごく嬉しそうにはしゃいでいるのだ。”やった”だとか、”嬉しい”だとか。ともすれば鼻歌でも口ずさみそうな調子で、にこにこと笑顔を振りまいている……。
(……先程といい今と言い、よく笑う娘だ。ボクの脳内に存在するあの娘の像とはかけ離れている。どうにも違和感が拭えないな)
びくびくと怯えていて、押しに弱くて、おとなしくて、どこかおどおどとしていて、引き攣ったような笑みをこちらに向ける少女。それが、黒の2号のデータベースにある彼女の情報だった。あれから6年以上が経過しているのだから情報と食い違っても不思議ではないが、それでもファイツという名前の少女がここまで笑う娘だったとは夢にも思わなかった。思考の海を漂いながら彼女の横顔を見つめていた黒の2号は、次の瞬間目を見開いた。何気なくこちらを向いたファイツと、まともに目線がかち合ったのだ。
「……っ」
目が合った瞬間に、彼女の青い瞳が三日月形に細められる。その事実を認識した瞬間に心臓がどくりと音を立てて、黒の2号は眉根を寄せた。どうにも落ち着かなかった。”彼女が笑うと調子が狂う”と、誰にともなく心の中で呟いた。
「…………」
どういうわけか顔まで熱くなって来たような気がしてならなくて、黒の2号は眉間に刻んだ皺を更に深くさせた。今の季節は春だ。こうしている今でさえも、桃色の花びらが風に乗って舞い散っている。変装を見破られたというのもあるけれど、4月にしてはかなり暑い日だと思ったから、だから変装を解いたのだ。しかし素顔だというのにここまで顔の火照りを感じるというのなら、いっそのこと変装していた方が良かったかもしれない。変装を解いたのは軽率だったなと、黒の2号は自らの行いを後悔した。そんな自分を見つめていたファイツが、不思議そうに小首を傾げた。その途端にまた心臓の鼓動が高鳴って、だから黒の2号は壁に寄りかかっていた背中を浮かせた。
「それでは、ボクはこれで失礼する」
溜息と共にそう告げる。そもそも路地裏を歩いていたことに特に深い理由などなかった。強いて挙げるなら、大通りだと人の往来が煩わしいと思ったからというところか。ファイツにばったり出くわしたことはまったくの偶然だったが、いくらぶつかったからといえど、早々に立ち去らなかったという事実には自分でも驚いた。どうしてこの場に長々と留まっていたのだろうか?
「……先程はすまなかったな」
一度謝罪した身ではあるが、この姿でも一応謝っておこう。謝罪を済ませた黒の2号は、これで用はないとばかりに歩き出そうとした。そう、そのはずだった。行動が未遂で終わったのは、何のことはない。ファイツにどういうわけか右手を掴まれていて、歩を進めることが出来なかったのだ。
「……何をする」
「え?……何が?」
「…………」
ファイツの手は、温かかった。そしてまたしても心臓が高鳴ったという事実をはっきりと感じ取りながら、黒の2号は自由な方の手でこめかみを押さえた。人の手をこんなにもしっかりと握っておいて、”何が”はないだろう、”何が”は。ファイツに手を握られた黒の2号は”暑いな”と声に出さずに呟いた。春という季節の所為で、やたらと顔が熱を持つのはどうにも困る。呆れ果ててわざわざ指摘する気にも最早ならなかったが、当の本人がいつまで経っても気付かないのだから仕方ない。こちらの指摘によってようやく事態を把握したらしいファイツがきゃあっと悲鳴を上げるのは、今から5秒後のことだった。