育む者 : 002
気付いた瞳
”ラクツくんにまた会えて嬉しい”。心の底からそう思ったファイツは、記憶の中にいる彼とはまるで似つかない姿をしている男の人をただひたすら見上げていた。嬉しいという気持ちのままに、満面の笑みを浮かべながら彼の顔を見つめてどれくらいの時間が経ったことだろう。押し黙っていた彼が、唐突に溜息をついた。深い深い溜息だった。(……あ)
そして、その瞬間はやって来た。微動だにせずその場に立ち尽くしていた彼が、ゆっくりと左手を動かしたのだ。彼自身の頬を親指と人差し指で軽く摘まんだと思ったら、数秒後にはファイツの知っている”ラクツ”の顔が目の前に現れていた。特殊メイクで変装していたに違いない。
(すごい技術……)
手に持ったマスクの残骸を鞄の中にしまい込んで、ポケットから取り出した黒いハンカチで顔に残った変装の名残を拭い落としている彼を、ファイツはただただ無言で見つめていた。それは彼の変装技術に圧倒されていたというのもあるけれど、今声をかけるのは単純に悪いと思ったのだ。訊きたいことは色々ある、話したいこともたくさんある。だけど今すぐ声をかけるわけにもいかなくて。今か今かとタイミングを見計らっている自分の前で、どうやら顔を拭い終えたらしい彼がポケットにハンカチを戻した。今だとファイツは思った。話しかけるなら今しかないと、根拠もなくそう思った。
「……えっと……。今、いい?」
おずおずと尋ねたら、彼がこちらに目を向けた。茶色の瞳を持つ彼に無言で小さく頷かれて、ファイツはごくんと唾を飲み込んだ。彼に再会出来て心の底から嬉しいと思っているのは確かだ。だけど本当に久し振りに会ったからなのか、胸がどきどきどきと高鳴って息苦しいのだ。ファイツは内向的である自分の性格を内心で呪った。
「…………」
息苦しさと戦っていたところ、黙ってこちらを見下ろしている彼の眉間が目に見える程に寄せられた。それはそれは深い皺が出来る瞬間を目の当たりにしたファイツは、大いに焦った。どう考えても彼を苛立たせてしまったことは明らかだ。自分から言い出しておいて中々話を切り出さないのだから、彼でなくとも苛立って当たり前だ。これ以上待たせるわけにはいかないと、ファイツはぐっと右手を握った。彼の目をまっすぐに見上げて、大きく息を吸う。
「ひ……。久し振りだね、ラクツくん」
「ああ」
淡々と答える彼の声は何とも落ち着いていた。緊張で声を上擦らせた自分とは、まさに正反対だ。ボイスチェンジャーか何かでも使っていたのだろうか、ぶつかった時に出していた声とはまるで違う声だった。もう朧げにしか思い出せないけれど、トレーナーズスクールに潜入していた頃の彼より随分と声が低くなっているとファイツは思った。声変わりしたんだと、心の中で呟いた。それに自分の記憶違いでなければ、かなり背が伸びている……。
「えっと……。6年振り、だよね?」
「そうなるな。正確に言えば6年と1ヶ月振りだが」
「あ……、うん。そう、だね……」
ファイツは曖昧に答えて、事細かに訂正した彼に小さく頷いてみせた。分かっていたことだけれど、そうじゃないかと思っていたけれど、やっぱり彼は素っ気なかった。きっと、これが本来の彼なのだろう。そう思った瞬間に、記憶の中の、にこやかで人当たりのいい笑顔を浮かべていた”ラクツ”の姿が粉々に砕け散る。自分のことを”ファイツちゃん”と呼んで事ある毎にぐいぐいと迫って来た、だけど同時に転校生だった自分に幾度となく優しく接してくれたあの彼だ。その優しい彼は最初からどこにも存在しなかったのだという事実を改めて突き付けられたファイツは一瞬だけ怯んで、だけどめげなかった。
今から約6年前のことだ。トレーナーズスクールでの卒業式で”次会えたら名前で呼びたい”と勇気を出して告げたら、彼にやんわりと突き放された。あの日のことは、今でもしっかりと憶えている。多分一生忘れることのない、ほろ苦い思い出だ。だけど、あの日からもう6年と少しの月日が流れているというのも確かな事実なのだ。実に子供っぽいという性格をしているという自覚はあるけれど、それでも自分だって多少は成長しているのだ。拒絶された悲しさと淋しさでともすれば泣きそうになったあの頃の自分はもういないのだと、ファイツは自分自身を強く奮い立たせた。だって、せっかく彼に会えたのだ。素っ気ないからと対話を諦めてしまうのは、何だかすごく悲しいというか、とにかくもったいないではないか。
「い……。今もあのお仕事は続けてるの?」
「ああ。国際警察官の警視として職務に従事している」
「…………」
相変わらずどこか素っ気ないけれど、それでも彼は返事をくれた。変装している時点できっとそうなのだろうと思っていたけれど、やっぱり彼は相変わらず国際警察官として活動しているらしい。無視されないで良かったなんて思いながらぼんやりと彼を見上げていたファイツは、そこではたと気付いた。そもそも、犯罪者を追う立場の人間である彼が変装していたという事実がまずおかしいのだ。
「もしかして、お仕事の最中だった?……あたし、邪魔しちゃった?」
おそるおそる言葉を紡いで、目を伏せる。「いない方がいいのかな」と、消え入りそうな声で問いかけた。変装が彼の趣味であるというならまだしも、とてもそうだとは思えなかった。つまり、自分は彼の邪魔をしてしまったのではないだろうか。今更だけど、その考えに至ったファイツはぐぐっと眉根を寄せた。泣く資格がないことは分かっているけれど、何だか涙が出そうだった。
「……いや。別にキミの存在を疎んじているわけではない。それに任務遂行の真っ最中というわけでもない。実はつい先日、イッシュ地方でとある盗賊団を捕らえたばかりでな。……そうだな、早い話が次の任務を拝命するまで待機していると言ったところか」
「……本当?本当の本当?」
「ああ」
ファイツはホッと胸を撫で下ろした。嘘をついているようには見えなかった。良かった、自分は彼の邪魔をしたわけではなかったのだ。その安堵感もあって自然と微笑んだファイツは、「お疲れ様」と頭を下げた。
「…………」
「はえ?」
彼が黙ってしまったことが気になったファイツは、小首を傾げた。そのまま、彼の茶色の瞳をじっと覗き込んでみる。すると、露骨に目を逸らされた。何だかものすごく困っているような印象を受けるのだけれど、本当の彼は素っ気なくて淡々としている人なのだという事実を身をもって思い知らされたばかりなのだ。やっぱりこれは、自分の思い過ごしなのだろうか?
「……あ!もしかして、じっと見つめられるのって苦手だったりする?」
ファイツはパッと口を両手で覆った。考えなしに見つめてしまったけれど、彼を精神的に追い詰めてしまったのではないだろうか。心の中に渦巻いた不安は、彼が否定したことで消え去った。だけどホッと息を吐いたのも束の間、今度は別の疑問が浮かんで来る。
「……どうしたの?」
「”どうしたの”、か。それはこちらの台詞なんだがな」
「え……?」
「キミは、何故……」
彼は、そこで言葉を切ると黙り込んだ。どう考えても言い淀んだようにしか見えなかったが、ファイツは黙って彼を見つめていた。ものすごく気になったのだけれど、「続きを早く言ってよ」と催促する気にはとてもなれなかったのだ。
「……いや、いい。聞かなかったことにしておいて欲しい」
「……?」
その言葉からしても、ついでにまたしてもそっぽを向かれたところからしても、彼はこの話題をこれ以上続けるつもりはないらしい。深く追究しない代わりというわけではないけれど、ファイツは別の疑問を尋ねようと口を開いた。
「ねえ、訊いてもいい?」
「ああ」
「今が待機中なんだったら、どうして変装なんてしてたの?」
「過去のこととはいえ、このヒオウギシティ中を警察官として素顔で奔走していた身だ。ボクの容貌は隠しておくに越したことはないだろう?万が一ボクの顔を知っている犯罪者がこの町で犯罪を犯していたら、対応が後手に回る危険もあるからな」
「そういうものなの?」
「まあ、そういうものだ。……さて、ファイツくん。ボクもキミに訊きたいことがあるんだが」
「うん、何?」
ファイツの心は、何か熱いもので満たされた。彼が自分の名前を憶えていてくれた。”ファイツくん”と呼んでくれた。そのことが、何故だか無性に嬉しかった。
「……キミは何故、あの男が”ラクツ”だと分かったんだ?これでも変装は得意だと自負している。ボクの変装は完璧だったはずだが」
「何となくだよ」
「……何となく?」
「うん。あたしにも上手く言えないんだけど、”この人はラクツくんなんだ”って思ったの。”ラクツくんの瞳だ”って思ったんだよ。だから……」
「…………」
そう宣言するように言い切ると、彼はまたしても押し黙ってしまった。眉根を寄せて、疑わしげにこちらを見下ろしている。どう見ても訝しんでいる様子の彼に向けて、ファイツは「本当にそう思ったんだよ」と必死に主張した。適当なことを言っているのだと思われたくはなかった。自分は放っておかれたと解釈したらしいダケちゃんが痺れを切らして”たいあたり”を繰り出すその瞬間まで、ファイツは彼の瞳をただただ見つめ続けていた。