育む者 : 001
解放する者は捕まえる
降り注ぐ太陽の光で自然と目を覚ましたファイツは、ベッドに横たえていた身をゆっくりと起こした。とろんとした目をごしごしと擦ってから、ぐぐっと伸びをする。やっぱり今日も完全にかみ殺せなかったあくびをしてから、ベッドの縁に足を下ろして揃えてあるスリッパを履いた。行先はもちろん窓際だ。今日の天気は何だろう、そう思いながらカーテンを開ける。今日も無事に、いつも通りの朝がやって来た。1日の始まりだ。「……わあ、いい天気!」
視界に光景を見た瞬間、ファイツはそう叫んでいた。きっとそうじゃないかと思っていたけれど、やっぱり天気は晴れだった。雲1つない澄み切った青空が、遠くまで広がっている。曇りの日もそれはそれで好きなのだけれど、晴れというのはやっぱり気分がいいものだ。それが快晴なら尚更だ。
(何だか今日は素敵な1日になりそうな気がする!)
根拠もなくそう思って自然と笑顔になったファイツは、枕元にいる存在に気付いてにっこりと微笑んだ。きのこポケモンのタマゲタケ・通称ダケちゃんが、愛くるしい顔をこちらに向けていたのだ。そのつぶらな瞳は、しっかりと開かれていた。
「おはよう、ダケちゃん!……ごめんね、起こしちゃった?」
大事な大事な友達に向かって挨拶をした後で、両手を合わせて頭を下げる。自分が不用意に声を上げた所為で、夢の中にいたダケちゃんを起こしてしまったのだろうか。だけどその心配はどうやら杞憂だったようで、ダケちゃんはふるふると首を横に振るばかりだった。良かったと胸を撫で下ろしたファイツは、思わず「あ」と声を出した。ベッドの向かい側にある机の上に置いていたライブキャスターの着信を知らせるランプが、ちかちかと点灯していることに気付いたのだ。
「ワイちゃんからだ!」
いったい誰からの連絡なのだろうと思っていたファイツは、履歴に残った名前を認めた瞬間に声を弾ませた。ワイというのは、カロス地方の図鑑所有者の名前だった。長い金髪を下ろしている、明るい性格の女の子だ。遠く離れているから中々直接は会えないのだけれど、彼女が自分の友達であることに変わりはない。大急ぎで着替えと洗顔と歯磨きを済ませて、寝癖がちょっとだけ付いた髪の毛をいつも通りお団子にまとめる。気心知れた友達で女同士だとはいえ、流石に寝起き姿のままで話すわけにはいかない。
(ワイちゃんと話すの、久し振りだよ……!)
二重の意味で胸をどきどきわくわくさせながら、ファイツはライブキャスターの通話ボタンを押した。トロバ経由でワイと知り合ってからもう数年になる。明るくて物怖じしないワイに一歩引いた接し方をしていたのは初めの頃だけで、今ではすっかり打ち解けていた。最初はさん付けで呼んでいたファイツも、彼女の明るさに釣られて”ワイちゃん”と呼ぶようになっていた。最早彼女は自分の親友と言ってもいいかもしれない。何せワイとのお喋りは、それはそれは楽しいひと時なのだ。何時間もお喋りを続けた結果、ライブキャスターの充電が切れたことも何回もあるわけで。そんなわけで、ファイツは彼女が画面に映るのを今か今かと待っていた。履歴にはつい数分前に着信があったと出ていた、基本的には夜遅くにかけて来る彼女にしては珍しいことだった。いったいどうしたんだろうとファイツは小首を傾げた。何か用でもあるのだろうか?
「……あ!おはよう、ワイちゃん!」
ファイツは大好きな友達に向かって、にっこりと微笑みかけた。綺麗な金髪を片側だけ三つ編みにしたワイが、笑顔で手を振っているのが見える。直感的に何かあったんだとファイツは思った。ワイは普段、髪を下ろしていることが多いのだ。もちろん下ろした髪型だって似合っているけれど、三つ編みにするなんて彼女にしてはかなり珍しいことなのだ。いや、むしろ初めてと言ってもいいのではないのだろうか。
『おはよう、ファイツ!……と言っても、もうお昼近いけど。……あ、何だか眠そう。もしかして、さっきまで寝てた?』
「うん、昨日は遅くまで起きてて……。ベッドに入ったのは3時を過ぎてたかなあ……」
勘の鋭いワイにものの見事に言い当てられたファイツは、えへへと笑った。今の時刻は11時だ。こんな時間まで寝ていたことを知られるのはちょっとだけ恥ずかしいけれど、今更隠すことでもない。
『ファイツにしては珍しいね。面白いドラマでもやってたの?』
「ううん。ポケモンさん達のお世話をしてたの。何だかすごく不安そうにしてた子がいたから、落ち着くまで抱き締めてて、それで……」
『そうなんだ。流石は”解放の専門家”ね!』
「ワ、ワイちゃんっ!その言い方は止めてってば!」
”解放の専門家”。その単語がワイの口から飛び出した瞬間にさっきの比ではない恥ずかしさに襲われる羽目になったファイツは、わたわたと手を動かして抗議した。ワイは大事な友達だったが、それとこれとは話が別だった。いつだってそうなのだ。傷付いたポケモンをお世話する、”解放の専門家”。自分がそう呼ばれる度に、ファイツはどこか居たたまれない気持ちになる。恐れ多いというかくすぐったいというか、とにかく気恥ずかしくなるのだ。
『えー?別にいいじゃない、減るもんじゃないんだし。トロバなんて散々連呼してるんだしさ。……そういえば、マフォクシーは元気にしてる?』
「うん!時々一緒に寝てくれるんだよ。……昨日は断られちゃったけど」
『そっか。相変わらずきまぐれな子なのね。……でも、もうちょっと懐いてくれてもいいとアタシは思うんだけどなあ……。ファイツがこんなに懸命になってお世話してるんだし』
形のいい眉を片方だけ上げたワイは、どうやらマフォクシーに対して憤慨しているらしい。自分の為に怒ってくれるワイの気持ちは嬉しかったが、そもそもこれは自分の独り善がりなのだ。気持ちを押し付けるわけにはいかないと、ファイツは苦笑した。
「ありがとうね、ワイちゃん。でもあたしは別に気にしてないよ。……ポケモンさんを縛り付ける方が、あたしにとってはずっと嫌なことだもん。マフォクシーさんが自由に生きてくれれば、あたしはそれでいいの」
ファイツははっきりとそう言い切った。ポケモンと一緒に生活が出来る時点で、自分は充分に恵まれているのだ。この考えはこの先だって変わることはないとファイツは確信していた。狐に摘ままれたように瞳をぱちぱちと瞬きさせていたワイにはあっと大きな溜息をつかれて、ファイツはちょっとだけ不安になった。もしかしたら、偉そうな子だと思われたかもしれない。抱いた不安は、ワイが仰々しく『おみそれしました』と言った瞬間にかき消えた。
『……やっぱりファイツはいい子だわ。伊達に”解放の専門家”って呼ばれてないわね』
「そ、それはもういいからっ!……それよりワイちゃん、いったいどうしたの?何かあったんでしょう?」
『え、っと……。うん、まあ……』
ワイは、こう尋ねるや否や口ごもった。やっぱり今日の彼女はどこかがおかしい。絶対に絶対にどこかがおかしい。重ねて「何があったの?」と尋ねると、ワイは何秒か躊躇する素振りを見せた後でぽつりと呟いた。”エックスとつき合うことになったの”。紡がれたその言葉が頭の中で鳴り響く。ファイツはポカンと口を半開きにして、ぐるぐると揺れる言葉達を吟味した。
「おめでとう、ワイちゃん!!」
ワイが爆弾発言をしてからたっぷり10秒は経っただろうか。やっとのことでその言葉の意味を理解したファイツは、きゃあっと歓声を上げた。恥ずかしいからやらないけれど、盛大にジャンプしたい気分だった。ワイがエックスという名の幼馴染の男の子に恋愛感情を抱いていたことは知っている。どうしたら良いのかしらと、ワイに相談を受けたことも一度や二度のことではなかった。そんな彼女の長きに渡る恋愛がようやく実を結んだのだ。それが、自分のことのように嬉しかった。
『ごめんね、急に。どうしても報告したくって……。ファイツだって色々忙しいのにね』
「そんなことないよ!本当に良かったね、ワイちゃん!!」
『あ、ありがとう……』
もう嬉しくて嬉しくて、ファイツは思わず涙ぐんだ。大好きな友達の恋が実ったことを、友達の口から聞けたのだ。今日が素敵な1日になりそうだという自分の直感は、やっぱり間違っていなかった。恥ずかしそうに顔を赤らめているワイに向かって、満面の笑みを向ける。
「ワイちゃん、可愛い!」
『も、もう!からかわないでよファイツ!』
「からかってないよ。だってワイちゃん、本当に可愛いんだもん!」
からかっているわけでもお世辞を言っているわけでもなかった。何しろ顔を赤く染めている今のワイは本当に可愛いのだ。エックスくんも好きになって当たり前だよね、と心の中で呟く。そうは言っても、直接彼と話したことはほとんどないのだけれど。
『ねえ。ところで、ファイツはいないの?』
「……はえ?」
エックスのことについてぼんやりと考えていたファイツは、ワイの声ではっと我に返った。思わず、間の抜けた声を出す。
『……だから。好きな人よ、好きな人。ファイツだって、誰かに恋したことくらいあるでしょう?』
恥ずかしがっていたワイは、どうやらいつもの調子を取り戻したらしい。にやにやと笑っている友達に向けて、ファイツはぶんぶんと首を横に振ってみせた。
「い、いないよ!」
『え、そうなの?……じゃあ、誰かに告白されたこととかは?』
「だ、だからないってば!」
『……そうなんだ。訊いておいて何だけどさ、絶対あると思ってた。だってファイツ、可愛いし』
「そ、そんなことないもん……っ」
お返しとばかりに可愛いなんて言われてしまって、ファイツの顔には熱が集まった。結構な頻度で、ワイは可愛いと言ってくれる。ワイだけでなくポケウッドでお世話になっているホワイトだってよく言ってくれる。だけどファイツは、その度に力いっぱい否定していた。自分が可愛いなどとはとても思えなかったのだ。
数回の押し問答を経て再開された友達とのお喋りは、やっぱり今回も楽しかった。時間を忘れて話し込んだファイツが名残惜しくもライブキャスターでの通話を終えた時には、既に12時を過ぎていた。自分でそうしておきながら「大変」なんて叫んだファイツは、財布が入ったバッグを引っ掴んだ後で部屋を飛び出した。一緒に暮らしているポケモン達と一緒にご飯を食べるのがファイツの日課なのだ。だけど、記憶が正しければ冷蔵庫の中は空だったはずだ。つまりはどこかで出来合いの総菜でも買うか、もしくは食材を買いに行かなくてはいけないわけで……。
「ダケちゃん、今日はどこに行きたい?ダケちゃんが決めていいよ」
廊下をばたばたと走りながら問いかけると、定位置である肩の上にぴょんっと飛び乗ったダケちゃんが小さな手をくいくいと動かした。その方角はスーパーを指している。ファイツは「分かった」と頷いた。どうやらダケちゃんは、スーパーに行きたいらしい。割と歩くけれど、値段が安くて品揃えも豊富なスーパーだ。
(あのスーパーで色々試食するの好きだもんね、ダケちゃん)
そう心の中で呟いて、くすりと笑う。ダケちゃんのぷにぷにとした頭を一度だけ撫でてから、ファイツはリビングを覗き込んだ。ソファーに優雅に腰かけていた、マフォクシーと目が合う。トロバ経由で知り合った、自分の大事な友達だ。
「マフォクシーさん、今日はどうする?一緒に買い物に行く?」
問いかけた1秒後にふんと鼻を鳴らしてそっぽまで向かれたファイツは、思わず苦笑した。マフォクシーは相変わらずきまぐれだ。それでも気が向いた時は一緒に行ってくれる辺り、自分にまるで気を許していないわけでもないのだろう。ワイはマフォクシーのことを怒っていたようだけれど、この子はただきまぐれなだけなのだと知っているファイツは、別に気にもしなかった。一応他のポケモン達にも声をかけたものの、誰も付いて来る気分でないのだと悟ったファイツは玄関へと向かった。靴を履いて家から一歩飛び出した瞬間に、陽の光が降り注ぐ。ポカポカとした、温かな太陽の光だ。
「やっぱりいい天気!……午後は庭で日向ぼっこでもしよっか?」
スーパーへの道のりを歩きながら、ダケちゃんに話しかける。うんうんと頷いたダケちゃんに目を細めたファイツだったが、思わずはたと立ち止まった。手を繋いで歩いている男女のカップルがいることに気付いたのだ。
「…………」
あんな風に手を繋いでいるということはつまり、あの2人はお互いを好きということなのだろう。後ろ姿しか見えないものの、仲睦まじいカップルであると雰囲気で分かる。明るいニュースを聞いたばかりということもあって、ファイツは本能的に”いいなあ”と思ってしまった。ポケモンに囲まれている今の生活が不満だというわけでは決してないけれど、だけどそれでも恋人がいることで生まれる幸せもあるだろう。
「好きな人、かあ……」
立ち止まったまま、ファイツは過去に想いを馳せた。自分だって子供の頃は、とある男の人を想って胸をどきどきさせたものだ。あれは恋ではなかったと今では分かっているからワイに言わなかっただけで、人生で一度も胸のときめきを感じなかったわけではない。ファイツの頭の中に、その”とある男の人”の顔がほわんと浮かんだ。彼が今どこで何をしているか、自分は知らない。彼だってきっとそうだろう。お互いの連絡先すら交換していないし、お互いが今どこで何をしているかも分からない。彼と自分の関係は、実に薄くて脆いものだと言い切れる。簡単にひび割れてしまうような、薄い薄い関係性だ。そんな薄い関係性を紡ぐことを選んだのはファイツ自身なのだ。そんな自分が彼の顔を思い浮かべること自体、何だか彼に申し訳ないような気がする……。
「……行こっか、ダケちゃん」
しばらくの間立ち尽くしていたファイツは、そっと溜息をつくと歩き出した。急に居たたまれない気持ちになって、逃げるように脇道に逸れる。普段はあまり歩かない狭い路地裏を歩いていたファイツは、またしても溜息をついた。脳裏には、押し問答を経て紡がれたワイの言葉が強烈に蘇る。
(ワイちゃん、エックスくんと一緒に暮らすって言ってたっけ……。それって同棲ってことだよね……)
友達が同棲を始めると知って、ファイツは内心で動揺した。もちろんファイツは「おめでとう」と言った。心の底から”良かったね”と思ったことは確かだったが、同時に疎外感を抱いてしまった。何となくだけど、友達が急激に大人びて見えて。そして同時に、子供っぽい自分が置いてけぼりになったような気がしてしまったのだ。言うまでもないことだけれど、それをワイに打ち明けるつもりはなかった。だって、自分達は歳頃の女なのだ。ファイツだって18歳になっている。18歳だ、つまりは成人だ。
(もう18歳なのに、大人なのに、あたしはいつまで経っても子供っぽいなあ……。どうしたら大人っぽくなれるんだろう……)
ファイツはホワイトの顔を思い浮かべた。自分を何かと構ってくれるホワイトとは2つ歳が離れているのだが、実に大人っぽい先輩だとファイツは思っている。仕事にも恋にも一生懸命で、きらきらと輝いている先輩だ。歩きながら、”ホワイトさんのようになりたい”とファイツは思った。その直後に”ワイちゃんのようになりたい”とも思った。それにはやはり、恋をするのがいいのだろうか。あのどきどきを胸に抱いて生きればいいのだろうか。だけど、恋はしようとして出来るものではないと知っている。どうやって恋をすればいいのだろう?
「きゃあ!!」
ぼんやりとそんなことを考えていたファイツは、角を曲がった瞬間に悲鳴を上げた。衝撃が身体に奔る。気付いた時にはものの見事に尻もちを付いていた。考え事をしながら歩いていた所為で、角の先にいた誰かにぶつかってしまったらしい。ファイツはそっと溜息をついた。両手はずきずきと痛かったし、心だってずきんと痛んでいた。どうして自分はこんなにもドジな娘なのだろうか?
「ごめんね、大丈夫かい?」
「あ、あたしの方こそごめんなさい……。ぼうっとしてて……」
目を伏せたファイツは、ぶつかってしまった男の人が差し伸べてくれた手を掴んだ。自分とは大違いの男の人は、尻もちを付いた自分を難なく立たせてくれた。「ありがとうございます」と頭を下げたファイツは、背の高い彼の顔を見上げる……。
「…………あれ?」
何気なく彼の顔を見つめ続けていたファイツだったが、ふと小首を傾げた。どう見ても見覚えがない顔なのに、何だかどこかで会ったような気がしてならなかったのだ。上手く言えないけれど、絶対に気の所為なんかじゃないという確信があった。直感に従ってぶつかってしまった彼の瞳をじっと見つめていたファイツの頭に、突如として閃くものがあった。ああ、そうだ。自分はやっぱり、彼を知っている。彼の名前は……。
「ラクツ、くん……」
「……え」
「やっぱり……。あなた、ラクツくんでしょう?」
”ラクツくん”。自分がそう言った瞬間に、彼は目を見開いた。彼は何も言わなかったけれど、その瞳が”そうだ”と言っていた。”ああ、やっぱりラクツくんだった。ラクツくんに、また会えた”。そう心の中で呟いたファイツは、記憶の中の彼とは違う姿をしているラクツに向かってにっこりと微笑んでみせた。やっぱり上手くは言えないけれど、何か素敵なことが始まるような気がしてならなかった。