育む者 : 046

encounter 〜Hyu&Yuki〜
「…………どうしよう」

膝を抱えてソファーに座ったファイツは、太陽と雲のイラストが映っているテレビの画面を見ながらぽつりとそう呟いた。外出する機会がめっきり減った自分にとって、テレビは外の世界との繋がりを示すものであると言ってもいいだろう。画面越しの人が自分に話しかけているわけではないと頭では理解しているものの、ニュースキャスターの顔を真正面から見返す気にはどうしてもなれなくて。だから人間が映らない天気予報かニュースを音で知るくらいしか出来ないのだけれど、それでもファイツはこの”テレビ鑑賞”が好きだった。だけどそのテレビでさえもやもやした嫌な気持ちを紛らわせてはくれなくて、堪らずに両手の指にぐぐっと力を込める。

「どうした?」

黒いエプロン姿のラクツが顔を覗かせたのは、三度目の「どうしよう」を言い終えた直後だった。水仕事をしてくれている最中なのか、長袖のシャツを肘の部分でまくっている。何かしら失敗する所為で最早家事全般を引き受けてくれていると言っても過言ではないラクツに向けて、ファイツは申し訳なさと安心感が入り混じった視線を向けた。彼の瞳だけは真正面から見返しても少しも怖くないと、はっきり言い切れる。

「あ、ううん……。……何でもないの!」

この「何でもないの」は真っ赤な嘘でしかなかった。だけど、ファイツは両手をひらひらと振ってみせた。嘘をついたことで罪悪感が重くのしかかったが、正直言ってまだ心の準備が出来ていなかったのだ。確実にそうなると決まったわけでもないのだし、余計なことは言わないでおこう。そう心に決めたファイツは「本当に何でもないんだよ」と言って曖昧に笑った。ただでさえ彼にとてつもない迷惑をかけている身なのだ。不確実なことを言って、余計な心労をかけるわけにはいかない。

「…………」
「な、何?」

声が上擦ったのは何のことはない、眉をひそめたラクツにじっと見つめられたからだ。根掘り葉掘り訊かれたらどうしようだとか、物の弾みでついてしまった嘘が暴かれるんじゃないかだとか。そんな不安と罪悪感が混ざった気持ちだけで恐怖や嫌悪感といった感情は少しも湧いて来ない辺り、自分は本当にこの人を信頼しているのだろう。既に分かりきったことを改めて思い知らされたファイツは、笑みを貼り付けたまま彼の瞳をまっすぐに見返した。

「……ファイツくん」
「な、な、何……っ?」
「今晩は何が食べたい?」
「ふえええ……っ!?」

予想外のことを言われたファイツの声は更に上擦った。てっきり「何を隠しているんだ」と尋ねられるとばかり思っていたのだ。最早裏返ったと表現しても過言ではないそれを耳にした彼は、しかし表情を変えなかった。変化らしい変化と言えば、精々眉間の皺が1本増えたくらいだ。そんな彼の口角はぴくりとも動かなかった。

「…………」

自分の声はきっと変だっただろうに、くすりとも笑わなかった。きっと気付いていただろうに、深く追及しないでくれた。その事実で、ファイツの心は更に温かくなった。浴槽に張られたお湯の温度より、降り注ぐ燦々とした太陽の光より、彼の方が遥かに自分を温めてくれる。鼻の奥が何だかつんとする感覚を抱いたファイツは、右手を思いきり握って熱い何かが零れそうになるのを必死に我慢した。ここで泣いたところで彼を更に困らせるだけだ。

(ラクツくんって……。優しい人、だよね)

胸の奥で広がった音は心からの本音だ。失敗しそうだから怖いと言えば、家事を全部肩代わりしてくれる。不安だと言えば、落ち着くまでただ傍にいてくれる。そっと寄り添ってくれるラクツのことを優しくないなんて、いったい誰が言えるのだろう。かつては意地悪だと思っていた自分自身を全力で引っぱたきたいと、ファイツは時々本気でそう思う。自分は本当に本当に、骨の髄までこの人に救われているのだ。そのお礼というわけではないけれど、せめて少しでも彼の負担を軽くしたい。そんな思いでファイツは唇を開いた。

「あたしは何でも……。ラクツくんが作るのが楽なら、それで……」
「では和食にする。それでもいいか?」
「うん……。…………ラクツくん」
「ん?」

ファイツは眉根を下げて、キッチンに戻ろうとしていた彼を呼び止めた。爪が食い込む程強く右手を握りながら、小刻みに震える唇を必死に動かした。和食は自分が好きなメニューなのだ。

「いつも、ごめんね。……本当、迷惑ばっかりかけて」
「別に構わない。それより、後ろで見ていなくてもいいのか?」
「……うん。だって、ラクツくんが作ってくれるんだもん……」
「……そうか」

言葉少なにそれだけ言った彼は、今度こそとばかりにキッチンに引っ込んだ。彼が今の今までいた空間をしばらく見つめていたファイツは、ゆっくりと顔の向きを動かした。この時間ならニュースをやっているはずなのだ。

「……っ!」

今日は何のニュースをやるんだろう。そんな思いは、女性のニュースキャスターが視界に飛び込んで来た瞬間に粉々に吹き飛んだ。ファイツは両目をぎゅうっと瞑って、顔を勢いよく下に向けた。逃げたい。心に浮かんだ感情のままにリモコンのボタンを力任せに押し込んだ。

「…………」

はあはあと荒い息をついたファイツは、暗くなった画面をぼんやりと見つめて深い溜息を吐き出した。あのニュースキャスターが悪いわけではないのだけれど、彼女が金髪だった所為で昼前の出来事を嫌でも思い出してしまったのだ。明るい金色の髪の毛を颯爽と揺らした友達の顔を思い浮かべて、ファイツはまたしてもそっと息を吐き出した。

(……ユキちゃん)

それは、今から数時間前のことだった。ラクツを今か今かと待っている間、ファイツは偶然にも女友達と出くわしたのだ。ユキという名の彼女はトレーナーズスクールでの元クラスメイトで、色々とお世話になった子だった。不意に「ファイたん」と話しかけられたファイツは最初、固まった。その呼び名にではなくて、単にラクツ以外の人間に話しかけられるという行為そのものが怖かったのだ。それでも明るいはきはきとした物言いをするユキが自分の大親友にどこか似ていたからなのか、硬直が長くは続かなかったことが不幸中の幸いと言えた。そして引き攣った笑みを浮かべる自分を知ってか知らずか、ユキは軽い世間話の後にこう告げたのだ。「彼氏と同棲するから家を探してるんだけど、もしかしたらファイたんの近所に引っ越すかもしれないの」と。

(……どうしよう)

本日4回目の「どうしよう」を呟いたファイツは、そっと目を伏せた。反射的に「いいよ」だとか「嬉しい」と言ってしまった瞬間から、ファイツは底なしの”どうしようスパイラル”にはまってしまった。まずファイツは、ユキに彼氏がいるという事実を知らなかった。それでもユキの幸せに水は差せないし、彼女が大事な友達であることも歴とした事実だし、恋なんて自分とは最早縁がないと思いながらも「良かったね」と言った気持ちに嘘はなかった。だけどその数秒後は、「断れば良かった」と思ったこともまた事実だ。何せ今の自分は彼以外の男の人が基本的に怖いと感じているわけで、その対象がユキがだとはいえまともなご近所付き合いが出来るとはとても思えなかったのだ。もちろんユキの恋人は論外だ。
それに何より、この家には彼がいる。ユキは知らない、そして彼の恋人だって知らない、自分だけが知っている彼が住んでいる。その彼に相談しないまま「いいよ」なんて言ってしまった自分が、そして夕方になる今もなお言えずにいる自分が、ファイツは心の底から嫌いだと思った。いや、今に始まったことではないのだけれど。

「……っ!」

ピンポンというチャイムの音が耳に届いたのは、そんな折だった。自分に向けられる他人の目が怖い、自分に向けられる他人の声も怖い。だけどファイツは、弾かれたように立ち上がると玄関へと走った。何だか嫌な予感が拭えなかったのだ。キッチンで調理中の彼に「あたしが出るから」と早口で言って、玄関のドアを勢いよく開ける。そして、ファイツは今度こそ固まった。

「やっほー、ファイたん!これ、美味しいお菓子なの!良かったら食べてね!」
「あー……。悪い、ファイツ。ユキのやつがどうしても今日挨拶したいって言うからよ。その、今まで隠してたことは悪かった」
「………………」

目の前に立っているのは自分の知っている人達で、2人共自分の大事な友達で。ユキの言う”彼氏”が誰を指しているのかを悟ったファイツは、だけど震える声で「どうして」と零した。

「ファイツ?」
「どうしたの、ファイたん!?」
「ユキちゃん……。ヒュウくん……。……どうして……?」

どうして今来たの、どうして来る前に連絡してくれなかったの、どうしてあたしなんかに会いに来るの。2人が悪いわけではないけれど、そんな思いが湧き出るように溢れ出す。そのまま泣き出した自分を見て狼狽えた2人を涙が滲む視界でぼんやりと見ていたファイツは、聞き慣れた音で弾かれるように振り向いた。自分を「ファイツくん」と呼ぶのは、この世で1人しかいないのだ。そう認識した瞬間に心は安心感で満たされる。

「……まったく。何を隠しているんだと思っていたが、そういうことか」

思った通り、そこにはラクツその人が立っていて。この場の空気を一瞬で支配したラクツに「ごめんなさい」と「ありがとう」を心の中で言い続けながら、ファイツはヒュウとユキを無表情で見やる彼の名前を何度も何度も口にした。