育む者 : 045
あなただけ見つめてる
試食用にどうぞと出されたケーキをただのひと口も食べられなかったあの日から、無様にも倒れてしまったあの瞬間から、あたしの日常はすっかり変わってしまった。人々が行き交う往来を何をするでもなく視界に入れながら、ファイツはぼんやりとそんなことを思った。「…………」
柱にもたれかかりながら、緩慢な動作で空を見上げてみる。途端に鮮やかな青が視界の大部分を埋めたけれど、ファイツの心は特に動かされることはなかった。空が綺麗な青色をしているから何だと言うのだろうか。風が深い緑色をした木々を揺らしたけれど、それすらもファイツの心には響かなかった。そんなどうでもいいことより、ファイツは酷く気にかかることがあった。
(……寒い……)
心の中でそう呟く。そうなのだ、とにもかくにも寒いのだ。外はこんなにも晴れているのに、今の季節は初夏だというのに、今この瞬間でさえも日差しが燦々と降り注いでいるのに、寒くて仕方がなかった。どちらかと言えば冷え性であるけれど、それとは無関係に寒かったのだ。その理由はちゃんと分かっている。自分の隣に彼がいないからだ。最早自分の世界そのものとも言うべき存在になった、あの彼が隣にいないからだ。
(……くん)
声にならない声で、ファイツは彼の名前を呼んでみた。今日1日だけで、いやこの1時間だけで、いったい何度彼の名前を呼んだことだろう。そんな疑問が頭の中を埋め尽くしたけれど、それだってどうでもいいとファイツはすぐに思い直した。大事なのは自分の視界に彼が長時間映っていないということなのだ。病院で診察を受けていた時も、大事な友達であるはずのダケちゃんを撫でた時も、彼が気を遣って傍に置いてくれたフタチマルを見ている時も、そして何をするでもなく立ち尽くしている今ですらも、瞳と心はいつだって彼の姿を求めていた。……そう、ラクツその人を。
(ラクツくん……)
か細い声で今度こそ彼の名前を口にしたファイツは、唇から吐息を漏らした。彼はスーパー・ヒオウギで買い物をしてくれている最中なのだ。毎回店が混むからという理由で自分が病院に行っている間にスーパーでまとめ買いをするというのがお決まりになっているのだけれど、たった1時間彼と会えないだけでファイツは泣きたくなる思いだった。迎えに来るという決意表明なのか、彼が毎回フタチマルを残してくれていることはありがたい。だけど同時に、どうしてフタチマルさんがラクツくんじゃないんだろうとも思ってしまうのだ。フタチマルが悪いわけではないのだけれど、こればかりはどうしようもない。フタチマルでは、彼の代わりには決してなれないのだから。
それでも、彼の名前を口にするだけで押し潰されそうだった心がほんの少しだけ軽くなったような気がするから実に不思議なものだ。いや、実際に軽くなっているのだろう。定期的にもらっている睡眠薬と精神安定剤なんかより、医者の診察なんかより、ラクツの存在の方がずっと薬になるし頼りになるとファイツは思っているくらいなのだ。むしろ週に一度の病院通いがストレスと気疲れの原因になりうると言ってもいいかもしれない。それでもファイツが精神科への通院を止めないのは、偏に彼に勧められたからだ。キミはせめて通院した方がいい。あの落ち着く声で静かに言われたファイツは、こくんと素直に頷いた。彼の言葉を否定する気は微塵も生まれなかった。
ファイツはまたしても青い空をただただ見つめた。倒れたあの日から3週間あまりが経った。けれどあれから一度だって「入院すべきだ」と言わない彼に、ファイツは救われている。倒れた出来事が尾を引いているのか、この3週間あまりでとうとう彼の手料理しか精神的にも肉体的にも受け付けなくなったファイツだ。入院すれば絶望で3日と経たずに死んでいるだろう。水だって、彼が介さないと飲めなくなってしまった。文字通りラクツに生かされている身だが、彼は文句の一つもつけないどころか何も言わずに傍にいてくれるのだ。その事実に、ラクツの存在に、ファイツはどれだけ救われていることか。
(今日の夜は何を作ってくれるんだろう……)
主食はご飯だろうか、パンだろうか。主菜はお肉だろうか、魚だろうか。汁物は味噌汁だろうか、それともスープだろうか。それは見事なメニューの数々をほわんと思い浮かべていたファイツは、口角だけを上げた。何にしても彼の料理ならどれでも美味しいと思う。それはそれは美味しい料理を作ってくれる彼に、自分は何も返せていない。今や料理どころか掃除と洗濯もしてくれている彼に、迷惑と負担ばかりかけているという負い目はある。本当に本当に申し訳ないと思う。だけど同時に、ラクツが自分と同じ空間にいてくれることをファイツは良かったとも思ってしまうのだ。だって、これで自分は純度100%の安心感を得られるのだから。他の誰でも、そして他のどんなポケモンでも得られない圧倒的な安心感だ。
「ラクツくんが早く迎えに来てくれますように……」
心の中だけで済ませるはずだったのに、唇からは勝手に言葉が飛び出した。その音に反応したらしい通行人と目と目が合った途端に、ファイツは反射的に目を瞑った。それと一緒に自分の身体を護るように掻き抱いた。知らない誰かにじろじろと好奇の目で見られるのも、ひそひそと噂話をされるのも、嫌で仕方がなかった。もちろん人混みなんて以ての外だ。それを理解してくれているからこそ、彼はスーパーに自分を連れていかないのだろう。この病院通いだって、彼が毎回送り迎えしてくれるからこそ続いていることなのだ。
ラクツくんがいてくれれば、あたしは怖くない。ラクツくんがいてくれさえすれば、あたしは生きていける。人々の視線からも、そして人々の声からも全力で逃げ続けるファイツは、真っ暗になった視界でそう思いながらただひたすらラクツの姿を思い浮かべた。