育む者 : 044

まもる
「…………」

いつものように眉間を深く寄せたラクツは、忙しなく手を動かしていた。精神的なショックが大きかった所為なのか、気を失ってしまったあの娘の為に先んじてスープを作っている真っ最中なのだ。

「………………」

黄色とオレンジ色が混ざったスープをひと口飲んだラクツは、料理の出来栄えに軽く頷いた。すりおろしたかぼちゃとにんじんをじっくり煮込んだ上で幾度も濾しただけあって、実にまろやかな口当たりだったのだ。そんな悪くない出来のスープを前にしたラクツは、そこでようやく手を止めるとどうしたものかと思案した。当然ながらこのスープは出来立てで、つまり彼女の目が届かないところで作ったということになるわけで。あのようなことがあった後で、果たしてあの娘がこのスープを飲んでくれるかが疑問だった。単に食欲がないならまだいい。しかし精神的な要因で飲めないと言われたら、それこそ彼女が食事自体を拒絶する事態になったとしたら、いったいどうすればいいのだろうとラクツは思った。せっかく回復傾向を見せていたところだったのに、”あの彼女”に逆戻りするのだろうか?

(それは……。……嫌、だな)

頬が無残にこけて、瞳に光も見当たらず、更には身動ぎ一つすらしないで。生きているのか死んでいるのか一瞬判断が付かなかった”あの彼女”を一目見た際の衝撃は、きっと一生忘れることはないだろう。太陽の下で無邪気に笑っていた彼女の姿を思い返したラクツは、またしても眉間に深い皺を刻んだ。自分の腕の中でうわ言のように「ごめんなさい」と言っていた彼女とはまるで別人のようではないか。結局、あの後すぐに彼女は気を失ってしまった。自分にはいまいちよく分からないが、それだけ精神的に追い込まれたということなのだろう。どうして倒れるまで自分は何もしなかったのだろうかと、ラクツは本日何度目になるか分からない猛省をした。もしかしたら、あの娘の笑顔を見られることはもうないのかもしれない。そう思うだけで心臓に痛みが奔るのは、いったい何故なのだろうか……。

「……ああ、フタチマルか」

思考の海に沈んでいたラクツは、突如として感じた気配で振り返った。こちらを見上げているフタチマルは、つぶらな瞳を心配そうに揺らめかせている。

「分かった。今行く」

彼女の傍にいたフタチマルがここに来たということは、つまりそういうことだ。ラクツはコンロの火が消えていることを今一度確認した後で身を翻した。自分の後を追って来る手持ちポケモンより彼女の方が遥かに気になって、たいした距離でもないのに足早に歩を進める。

「ファイツくん!」
「…………」
「ファイツくん……。具合はどうだ?」
「…………」

ファイツは、まさに今起きたと言わんばかりの恰好でソファーに横たわっていた。柔らかな髪の毛はところどころ跳ねているし、ちゃんとかけたはずの毛布もものの見事にずり下がっている。焦点が合っていないらしくあらぬ方向に視線を彷徨わせていたファイツは、三度目の呼びかけで目を数回瞬いた。ゆっくりと顔を横に向ける動作まで全てが緩慢で、しかしラクツはこの娘を急かそうなどとは露程も思わなかった。

「ラクツ、くん?」
「ああ、ボクだ」
「ここってあたしの家……だよね?あたし、いつの間に帰って来たんだっけ……?何だか全然憶えてなくて……」

まだ状況が掴めていないにも関わらず、ラクツは思わずその言葉で苦笑した。不思議そうに小首を傾げるファイツに、何とも言えない”何か”を感じたのだ。

「それはそうだろう。キミはあの後気を失ったからな、ここまで運んだだけのことだ」
「ラクツくんが、あたしを寝かせてくれたの……?」
「そうだ。言っておくが、やましいことは何もしていないぞ」
「……うん……?……でもごめんね……。あたし、また迷惑かけちゃったよね……」
「別にいい。それより、気分はどうだ?」

ダケちゃんに気付いたのだろう、手持ちポケモンの頭を優しく撫でていたファイツはふるふると首を横に振った。そこで初めて涙の跡が彼女の頬に複数あることに気が付いたラクツは、内心で息を吐き出した。ここで気を失っている間にも泣いていたのかもしれない。

「……その、何だか気持ち悪くて……」
「そうか。スープを作ったんだが、飲めそうか?」
「…………」

途端、ファイツの顔色はさっと変わった。彼女の脳内では数時間前の出来事が去来しているのだろう。訊いておいてなんだが、訊かなければ良かった。身体を小刻みに震わせ出した彼女を見たラクツは、すぐさま軽率な発言したことを深く後悔した。

「うん、分かった。無理はしなくていい。……すまなかったな」
「あ、待って……。きゃあ!」

そっとしておいた方が良さそうだ。そう思ったからこそ踵を返したラクツは、振り返ると同時に視界に飛び込んで来た光景で絶句した。呼び止めた所為で前のめりにでもなったのか、ソファーから完全に落ちてしまっている。

「…………」
「…………」

ソファーから派手に落ちたファイツと、しっかりきっちり目が合った。いつものことだが抜けている彼女を抱えてソファーに座らせたラクツは、眉根を寄せて口角を上げた。

「何をやっているんだ、キミは……。まったく、危なくて目が離せないな」
「……ご、ごめんなさい……。その、ラクツくんに謝りたくて……」
「謝る?……何を?」
「だって、いっぱい迷惑かけちゃったから……。それに結局、ラクツくんはケーキを食べられなかったし……。それに、それに、あたしの所為で変に注目されちゃったみたいだし……。あたし、何て言って謝ればいいのかなあ……」
「ボクのことはいい。キミは自身の心配だけしていればいい」

この期に及んで他人の心配をする娘に、ラクツは呆れと不可解さが入り混じった視線を向けた。どうしてこの状況で出て来る言葉がそれなのか。そんな思考は、彼女が発した「もう二度と食べられないのかな」という小さな言葉でものの見事に吹き飛んだ。

「それに、あたし……。パフェもケーキも、あんなに大好きだったのに……。お店の人にだって、本当に悪いことしちゃったよね……」
「……キミが気に病む必要はないと思うが」

発したその音は自分の本心そのものだ。元々関心が薄かったラクツはケーキを食べ損ねたことを何とも思っていないし、むしろ色々と騒がしかったことであの店に対して悪印象しか抱いていなかった。善意なのかもしれないが、頼んでもいない食べ物を食べろと強要したのは向こうなのだ。それに、彼女があの店員に対して罪悪感を抱く必要性も皆無だ。見覚えのある下卑た視線を向けていた場面をラクツはちゃんと目撃していたのだ。彼女本人にはとても言えないが。ついでに周囲の女性客が口々に発した「あの人って超かっこいい」という言葉が勝手に蘇って、またしても眉間に皺を刻んだ。それだって至極どうでもいいことだ。

「でも、あたし……!…………あ」

ファイツの小さな声をかき消す程の音の出所は、彼女の腹部からだった。フタチマルに目配せしたラクツは、困ったようにさっと顔を背けた彼女を目を細めて見つめていた。本当に、何というかこの娘は……。

「あ、ありがとう……」

そう時間が経たないうちにリビングに戻って来たフタチマルが、依然として赤面した彼女に温めたスープが入った椀を恭しく手渡した。「味見を目の前でしよう」。そう言う前に意を決したようにスープに口を付けたファイツを、そして白くて細い彼女の喉が規則的に動くする様を、ラクツは無言で見つめていた。心には、何か熱いものが急速に広がっていく……。

「美味しい……」
「……そうか。……それなら、良かった」
「良かったあ……。あたし、ラクツくんが作ってくれる物なら、ちゃんと食べられるんだ……」
「…………そう、か。そうなのか……」

瞳から涙をぽろぽろと零しながら笑っているこの娘を見ながら、ラクツは何度も「そうか」と言った。それはどこか陰のある笑顔で、だけどこの笑顔を失いたくないとラクツは思った。そう思わざるを得なかった。泣きながら笑っているこの娘の笑顔を護りたい。多分そう感じたのは、この娘と関われという任務を拝命している故なのだろう。だけどラクツは、この時確かにそう強く思ったのだ。