育む者 : 043
とりかえっこプリーズ
数時間前にあれだけ気分が高揚していたファイツは、だけどがっくりと肩を落としていた。白を基調とした明るい店内にいるというのに、それに甘い匂いも漂っているのに、段々暗い気持ちになるのは多分気の所為でも被害妄想でもないだろう。何か面白い話題で盛り上がっているのだろうか、女の人達のきゃあきゃあという笑い声が聞こえた瞬間にファイツはテーブルの上に突っ伏した。申し訳ないとは思うけれど、はっきり言って耳障りだとすら思ってしまった。遊び疲れてぐっすりと寝ているダケちゃんに気を遣う余裕もなかった。まさに気分はどん底だ。「まったく……。まだ気にしているのか」
「…………」
現在進行形で深く落ち込んでいるファイツは、向かい側から降って来た音で右手の親指を人差し指に深く食い込ませた。彼に失礼だと思う自分がいる一方で、とても顔を上げる気にはなれなかった。それでも無視をするのはもっと嫌だったから「気にするよ」とくぐもった声で返すと、「わけが分からないな」という音が降って来た。彼らしく静かな、だけどよく通る声だ。
「他でもないボクがもう気に病むなと言っているのに、いったいいつまでそうしているつもりだ?ファイツくんも中々に強情だな」
「それでも気にするよ……。だって、今日はラクツくんの誕生日なんだもん……。そりゃああたしはドジだけど、絶対失敗しちゃいけなかったのに……。もう最悪……っ!今日1日を楽しく過ごして欲しかったのに……っ!!」
「楽しいというのはいまいちよく分からないが、少なくとも興味深いとは感じたぞ」
「……それってピクニックのこと?…………それとも、あたしのドジさ加減に対して?」
「うん、正直に言うと両方だな。太陽の下で弁当を食べるというのは新鮮だったし、悪くない気分だった。しかしキミの抜け具合はそれ以上に興味深いな。何もない場所で何故あんな風に派手に転べるんだ?草原だったからいいようなものの、いつか怪我をするぞ」
「そ、それはもういいから!」
「それに言うまでもなく、手製の弁当の味も個性的で……」
「だ、だからそれはもういいのっ!それ以上言わないで!」
さっきよりずっと居たたまれなくなったファイツは、がばっと上半身を起こした。その動きで目を覚ましたらしいダケちゃんは、甘い匂いが漂っていることで察したのかそわそわと落ち着かない素振りを見せ始めた。そんなダケちゃんに「今日は絶対ダメだからね」ときっぱりしっかり言い切って、ファイツは彼に向き直った。もちろん他のポケモン達に念を押すことも忘れない。誕生日にケーキを食べたことがないと言ったラクツの為に、昨日来たばかりのケーキ屋まで足を延ばしているのだ。今日こそは彼に食べてもらわねば、自分の気が済まなかった。
「もういい?話を振ったのはキミだろう」
「それはそうなんだけど……。……ラクツくんって、やっぱり意地悪だよね」
責める資格などどこにもないと分かっているけれど、ファイツはドジらしいドジを踏みそうにないラクツを恨めしげに見上げてみた。いつだって平然としていて、自分よりずっと大人に見える彼のことが羨ましくもありちょっぴりだけ妬ましくもあった。ほんのちょっとだけでもいいから、彼の料理の腕が自分にも欲しかった。少なくとも、彼なら気合を入れて作った料理を失敗するようなへまはしないだろう。
「あ~あ……。あたし、ラクツくんになりたかったなあ……」
「何だ、それは」
「だって!これでも味見はしたんだよ!?あんなに美味しくないお弁当、初めてだよ……っ。……今日だけでもいいから、ラクツくんとあたしの料理の腕を交換出来ればいいのになあ……」
ファイツはまたしても溜息をついた。自分に彼の料理の腕があったとしたら、どんなにいいだろうか。毎日美味しい料理が好きなだけ食べられるのだ。まさに薔薇色の生活だ。
「……それは無理があるな。そのような効果はどんなポケモンの技にも存在しない。マフォクシーくんでも無理だろうな」
「やっぱり、ダメ?」
「現時点では不可能だ。しかし、今すぐでなくとも料理の腕を引き上げることは可能だろう。幸い時間はあるし、ボクが教えても構わない」
「うん……。でも、自分で頑張ってみるね。あたし、ただでさえラクツくんに頼り過ぎてるし」
「キミがそうしたいならそうすればいい。……ああ、そうだ。今更だが、連絡先を交換しておこうか」
「……うん。その、あたしの所為でバタバタしちゃったもんね」
「それこそ終わったことだ。それよりライブキャスターを出してくれるか?」
「うん!」
誰かと連絡先を交換するのは久し振りだなんて思いながら、ファイツはポチポチとライブキャスターのボタンを押した。登録完了、そう思った瞬間に周りの女の人のきゃあきゃあという悲鳴にも似た声がどうしてか大きくなったような気がして、思わずぐぐっと眉根を寄せる。自分の行いを反省したのはほんの一瞬だった。向かい側に座っている彼の眉間の皺も増えていることに気付いたのだ。
(ラクツくんもこういう声、嫌なのかな……。うん、ちょっとうるさいもんね。……ちょっとじゃなくてだいぶ、だけど)
自分と彼は正反対だと思っているけれど、どうやら共通点も存在したらしい。そんな何でもないことが、だけどファイツは嬉しいと思った。ちょっとだけ気を良くしたファイツは、明るい声色で「ここのケーキは美味しいんだって」と話しかけた。
「ハンサムさんもすっごく美味しかったよって!」
「そうか。聞いた話だが、彼は甘党らしい」
「ふふ、ハンサムさんも笑いながらそう言ってたよ。ラクツくんはどうなの?甘い物って好きな方?」
「さあ……。好んで食べたことは記憶にないと思う。しかし、嫌いかと問われるとそれはそれで疑問だな」
「そっか……。じゃあ、今日食べれば好き嫌いが何かが分かるね。ちょうど誕生日記念になるよ!」
「意味が分からないが。……だがまあ、いい機会ではあるな」
「……あ、ほら!あれ、ラクツくんが頼んだケーキじゃない?」
素直じゃない彼を微笑んで見つめていたファイツは、厨房から出て来た店員がお盆に乗せたケーキに目を留めた。ケーキと言えば定番の苺のショートケーキと、小さなケーキが上に飾られたチョコレートパフェが乗っている。
「どうだろうな。ボクが注文したのは単品のショートケーキだし、他の客が頼んだものではないのか?……しかし、ファイツくん」
「うん、何?」
「……本当に1つで良かったのか?」
「うん、いいの。ラクツくんの誕生日なんだし、ポケモンさん達にはまた別の日に食べてもらうもん。……それにほら、あたしはさっき、お腹いっぱいになるくらい食べ過ぎちゃったし!ラクツくんが美味しいって思ってくれたら、あたしはそれでいいの」
ファイツはにっこりと微笑んでそう言い切った。あたしは上手く笑えているだろうか、そう思ったのには気付かない振りをした。
「…………そうか」
「うん、そう。そうなの!」
ファイツはこくこくと頷いた。彼がそれ以上深く追究しないでくれたことが、涙が出るくらい嬉しかった。
「大変長らくお待たせしました。お客様、ケーキと特製パフェをお持ちしました」
「はえ?」
意味もなくうんうんと頷いていたファイツは、真横から降り注いで来た声に小首を傾げた。見上げると、厨房から出て来た店員が見覚えのあるケーキとパフェを持って立っていた。昨日も働いていた男性の店員であることに、ファイツはようやく気が付いた。
「間違えているのではないか?ボクが頼んだのは単品のケーキだが」
「承知しております。しかし、こちらのお客様は昨日も注文されておりませんでしたので。当店のサービス兼新メニューの試食という形にはなりますが、是非ともお客様に食べていただければと思っております」
「あ……。あ、その……」
ファイツは声にならない声を発した。試食という言葉を聞いた瞬間に、目の前が真っ暗になったような気がした。脳裏に勝手に蘇ったのは、忘れようにも忘れられないあの記憶だ。
「あ、や……。あ、あたし……っ」
背中から汗が一気に噴き出したのをぼんやりと感じながら、ファイツはただ身体を震わせていた。何だか、この店員にやけにじろじろと見られているような気がした。周囲の注目を一身に浴びているとも思った。女の人のひそひそという囁きがやけに耳に響いた。バクバクと鳴る心臓の音がうるさくて仕方がなかった。目の前に置かれたのはただのケーキが乗ったチョコレートパフェだ。自分の大好きだった食べ物だ。だった、過去形だ。前は大好きだったパフェが、けれど今は言うなれば毒物であるようにしか思えてならなかった。
(どうしよう、今ここで食べないといけないのかな。店員さんだって困るよね。作ってくれた人にも悪いし、今ここで食べないと……)
ファイツは意を決してスプーンを持った。かたかたと震える手を必死に動かして、小さな小さなケーキを掬った。ひと口サイズのケーキがやけに大きく見えるのは、果たして目の錯覚なのだろうか……。
(早く、早く、食べないと……。頑張れあたし、ふぁいとふぁいとファイツ……っ!)
ファイツは自分を奮い立たせる魔法の呪文を唱えた。そう、あの嫌な記憶とは今日限りでお別れするのだ。スプーンが放つ銀色の光が、やけに眩しいと思った。そして同時に、とんでもなく息苦しいとも思った。
(どうしよう、どうしよう、頑張って食べなきゃ。せめてひと口だけでも食べなきゃ。でも、でも、でも……。あたし、あたし、あたし……っ、……あたし、……あた)
記憶にあるのはそこまでだった。気付いたら、ファイツはラクツの腕の中で身を委ねていた。倒れた自分を助けてくれたんだと気付いたのはしばらく経った後だった。そんなラクツはやっぱり落ち着いていて、ファイツはただただ羨ましいと思った。だけど、そんな自分に刺さる視線と声が酷く痛かった。
(あたし……。……あたしも、ラクツくんみたいに強くなれれば良かったのに……)
ラクツが何かを言っているのをぼんやりと感じ取りながら、ファイツは本当にごめんなさいと声にならない叫びを上げた。今日は彼の誕生日なのに、どこまでも迷惑をかけている自分が嫌で嫌で仕方がなかった。ラクツがしっかりとこんな自分を抱き抱えてくれていることをありがたいと思いつつも、ファイツは役立たずな自分をただただ呪うばかりだった。