育む者 : 041

あなたが産まれた日
「ラクツくん、こっちこっち!」

草原の入口で、ファイツは振り返りざまに声を張り上げた。それでもゆっくりと歩いている彼に向かって早く早くと手招きしたものの、求めに応じてくれたのはフタチマルだけで。フタチマルのことを蔑ろにしているわけでは決してない、だけど肝心の彼が応じてくれないのでは意味がない。心配そうに自分を見上げてくれているフタチマルに「先に行っていいよ」と促すと、フタチマルは後ろをちらちらと気にしつつも草原へと足を踏み入れた。

(良かった……。フタチマルさん、喜んでくれたみたい)

どことなく嬉しそうに見えるフタチマルに釣られたのか、他のポケモン達も一斉に駆け出していく。くさタイプだからなのか、ダケちゃんに至っては文字通り転がり落ちるようにバウンドするという喜びようだ。ハンサムに買ってもらったケーキを結局は独り占めしたダケちゃんを𠮟りつけたことも忘れて、ファイツは地面を跳ねまわる友達を目を細めて見つめた。大切なポケモン達が喜んでいる姿を見られただけでもここに来た甲斐があったというものだ。だけどそんなポケモン達とは対照的に、いかにも興味がありませんとでも言わんばかりに自分のペースで歩いている彼を遠目に見ながら、ファイツはそっと息を吐き出した。

(やっぱり、無理やりつき合わせちゃったのかなあ……。今日はラクツくんの誕生日なのに、悪いことしちゃったなあ……)

空は雲一つない程に晴れているし、草花も穏やかな風で優しくそよいでいるし、更には他に誰もいないというおまけ付きだ。最後の部分が大きいのか、ポケモン達も草花と戯れたり寝そべったりと思い思いに過ごしている。まさに絶好のピクニック日和だというのに、ポケモン達も喜んでくれているように見えるのに、ファイツはそれはそれは落ち込んでいた。
”良かったらピクニックに行こうよ、お弁当はあたしが全部作るから”。昨日の夜にそう言ったのはお世話になっているラクツへのお礼と迷惑をかけたお詫びのつもりだった。彼だけを残すのは単純に気が引けるし、出かけるのは買い物か病院の付き添いくらいで、ほとんどの時間を家で過ごす彼の気分が少しでも晴れればいいなという願いからだった。お弁当も朝ご飯も珍しく失敗することなく作れたというのに、彼に楽しんでもらいたかったというのに、結局はファイツの独り善がりでしかなかったというのだろうか……。

「どうした?」
「……はえ?」
「浮かない顔付きをしている。体調でも崩したのか?着いたばかりだが、家に帰るか?」
「…………」

至近距離にあるラクツの顔をぼんやりと見上げながら、ファイツはポカンと口を開けて立ち尽くしていた。いつの間にこんなに近くに来ていたのだろうか。全然気付かなかった。

「……あ!えっと、その……。大丈夫、ちょっと考え事してただけなの!本当に大丈夫だから!」
「……そうか?」
「そう!そうだよ!」

まさか、”あなたが早く来ない所為で落ち込んでいました”とは言えない。それに何より、お弁当をひと口も食べていないこの段階で帰るわけにもいかない。お弁当を入れたバスケットを持っていない方の腕をわたわたと動かしながら必死に首を横に振ると、ラクツは釈然としない顔をしながらも「そうか」と言ってくれた。自分の横をあっさりと通り過ぎた彼の背中を呆然と見つめながら、ファイツは自由になった両手の指を胸の前で重ね合わせた。そう、彼はすれ違いざまにバスケットを持ってくれたのだ。実にスマートな手際だとファイツは思った。

(あたしのバカっ!ラクツくんに気を遣わせちゃうなんて……!)

せっかくの誕生日なのに何させてるの、とファイツは自分自身を罵った。しつこいようだが今日は5月4日、つまりはラクツの誕生日なのだ。むしろ自分の方が色々と気を遣わなければいけないくらいだというのに、主賓である彼に気を遣わせてどうする。立ち止まってる場合じゃない、それに落ち込んでいる場合でもない。早くも仕出かした失敗を取り返す為にも彼の後を追わなければ。

「ラクツくん!!」

ファイツは大声を張り上げて駆け出した。いったい何事かと振り返ったラクツには構わずに、彼が持ってくれているバスケットに手を伸ばす。ファイツがバスケットの持ち手を引っ張るのと、彼が手を放したのはほとんど同時だった。

「やっぱりあたしが持つから!ラクツくんに持たせちゃうなんて悪いもん!」

ひと息でそう言い切ったら、彼の「そうか」が降って来た。拒絶されなかったことに気を良くしたファイツは草原の真ん中を目指して大股で歩いたが、その途中ではたと我に返った。彼に持たせたくなかったとはいえ、何もあんなに強引に奪い取る必要はなかったのではないだろうか。しかもお礼の一言すらも告げていないと来ているのだ。あたしは本当に嫌な子だと、心の中でそう独り言ちる。これではまるで引ったくり犯のようではないか。

「……あの。ごめんね、ラクツくん……」

彼の名前を呼びながら、遅すぎると思いながら、身体ごと振り返る。肩越しに振り返ったのでは、気持ちが上手く伝わらないと思ったのだ。

「あんな風に無理やり持つことなかったよね……?せっかくの誕生日なのに、嫌な気持ちになっちゃったよね……」
「…………いや、別に?」

彼の口数は多くないということは知っている。だけどラクツが言葉を発するまでには、かなりの間が空いたとファイツは思った。きっと気を遣わせちゃったんだろうな。声に出さずにそう呟くと、心には重い何かがのしかかった。せっかくの誕生日なのに、彼にとっての大切な日なのに、あたしは何をやっているんだろう。込み上げて来る何かを必死に抑えながら、ファイツは震える唇で「でも」と言葉を紡いだ。

「でも、ラクツくん……っ」

気を遣わせてごめんなさいだとか、あたしったら本当に自分勝手で嫌な子だよねだとか、無理やりつき合わせちゃってごめんなさいだとか。言いたいことはたくさんあるのに、心の中ではすらすらとついて出て来るのに、何故だか言葉が上手く出て来ないのだ。結局は彼の名前を呼ぶことしか出来ない自分が本当に嫌で仕方なくて、ファイツは堪らずに俯いた。自分に泣く資格などないことは分かっている、だけど思いきり泣きたかった。

(ラクツくんに迷惑かけて、気を遣わせてばっかりで……。こんなことなら、こんなことならピクニックになんて誘わなければ良かったかなあ……)

マイナス思考に次ぐマイナス思考で、心には次々と嫌な考えが浮かんで来る。まさに負の連鎖だ。誘ったのは紛れもなくファイツ自身だというのに、最早帰りたいとファイツは思い始めていた。その所為なのだろうか、唇からは言葉が勝手に零れ落ちた。

「ラ、ラクツくん……。やっぱり……。やっぱり、帰った方が……」
「……分かった。うん、熱はないみたいだな」
「…………」

温かな何かが額に触れたことで、ラクツに熱を測られているという事実をぼんやりと感じ取る。彼は、誘っておいて帰ろうなどと言い出した自分をただの一言も責めなかった。それどころか、こんな自分を心配する素振りさえ見せてくれた。彼のその優しさが却って辛くて、ファイツはますます泣きたくなった。

「それでも万が一ということもある。帰宅する前に病院に寄った方がいい」
「ち、違うの……。あたしの具合が悪いんじゃなくて、ラクツくんに申し訳なくて……っ」
「ボクに申し訳ない?何故そう思うんだ?」
「だって、だって……。あたし、ラクツくんを無理やりつき合わせちゃってるんだもん……っ!」
「……ファイツくん。キミが何を思ってそう言ったのかは知らないが、ファイツくんに付いて来たのは紛れもなくボクの意思だ。昨日の今日で単独行動をさせるのは流石に憚られるし、何よりキミと関わるという任務を拝命している身だ。だから今は、常識的な範囲でファイツくんと共に行動するのが正しいとボクは考えている。断じて無理につき合わされているわけではないぞ」
「…………。……そう、なの……?」
「ああ」

淀みなくそう告げられて、そして間髪入れずに肯定されて、ファイツはおずおずと顔を上げてみた。すると、それは真剣な目をしたラクツと視線がかち合った。本心そのものだと言わんばかりの瞳に、唇からは深い溜息が自然と零れ落ちた。

「……そうなんだ、そうだったんだ……。ご、ごめんね……っ。あたしったら、また勘違いしてたみたいで……っ。それに、あたしばっかり溜息ついちゃって……」
「別にボクは気にしていない。だから、もう気に病むな」
「……うん」

こくんと頷いたファイツは、だけど軽く小首を傾げた。それは彼を疑ったわけではなかった。心の底からホッとしたのは確かなのだけれど、同時に引っかかるものを覚えたのだ。例えるならそれは、まるで胸を小さな針で突かれたような……。

「それに、ファイツくん。ボクはこれでもピクニックを興味深いと思っているんだぞ。何しろ、ボクにとっては未知の体験だからな」
「……え?……そ、そうなの?……一度もないの?」
「ああ。それどころか、誕生日をこんな風に祝われたこと自体が初めてだ。朝の挨拶より先に”誕生日おめでとう”などと告げられる日が来るとは思わなかった」
「…………」

衝撃の発言で、ファイツはポカンと口を半開きにするしかなかった。親しい誰かの誕生日が来たら朝一番に「おめでとう」と言うのはファイツにとっては極当たり前のことなのに、だけど彼は初めてのことだとはっきり言い切ったのだ。あまりの衝撃で、今しがた感じた違和感は最早頭から吹き飛んでしまっていた。

「じゃあ、今までやらなかった分をまとめてお祝いしようよ!」
「いや、別にそこまでしなくても……」
「ダメだよ、誕生日なんだからお祝いしなくちゃ!……ほら、ラクツくん!」

ファイツの唇からはまたしても言葉が勝手に零れ落ちた。だけど今度のそれは、マイナス思考から来るものではなかった。決して同情からではなく心から彼の大切な日を祝いたいと思ったファイツは、にっこりと微笑んで行こうよと手を差し出した。気分の浮き沈みが激し過ぎると自分でも思うのけれど、こればかりはしょうがない。一向に動かないラクツの左手を迷うことなく握り込んだファイツは、温かな太陽の下へ向かって全力で駆け出した。