育む者 : 040

欲しいもの
(……何だ?これは……)

ホテルではなくファイツの家に身を置くと決めた以上、来客用の寝具をいつまでも借りるわけにもいかない。デパートで自分専用の寝具一式を購入し、道具の補充を行い、更には合鍵も作成して。いくつかの用事を一度に済ませて帰宅したラクツは、リビングから見えた異様とも言える光景に呆然と立ち尽くしていた。テーブルの上には中身が空のケーキ箱が複数、更には多種多様なカタログやらチラシやらが床に散乱していたのだ。家主はあくまであの娘なのだから何をどうしようと彼女の勝手なのだが、足の踏み場もない程に広げるというのはいかがなものか。片付けに苦労する羽目になるし、第一踏んだ拍子に転びかねない。あの娘なら尚更だ。そう思ったラクツが散乱している紙類に手を付けなかったのは、それ以上に気にかかることがあった為だ。凍り付いていた足を動かしてソファーの前まで近付いたラクツは、無言のまま座っている人物を見下ろした。この距離まで近付いたというのに気付く様子が欠片も見られない娘は、どういうわけか膝を抱えて俯いている。

「ファイツくん」
「…………」
「……ファイツくん?」
「…………」
「ファイツくん!」

再三彼女の名前を口にしたものの、それでも反応を見せる兆しは微塵も見受けられなかった。最初こそいったい何をしていたのかという呆れを込めたその音に、次第に困惑と別の何かが入り混じる。ラクツがその事実に気付いたのは、5回目の「ファイツくん」の直後だった。

(……何だ?これは……)

先程と同じ言葉を、しかしまるで違う心境の元に呟く。率直に言って嫌だと思った。もしもこのままこの娘が何の反応も見せなかったらと、そう思うだけで心臓がどくりと高鳴った。いったいどうしたのだろうか、単に寝ているだけなのか、体調でも崩したのだろうか。それともまさか、もうこの世には。本人を前にしてそんな想像さえ抱いたラクツの目の前で、石のように硬直していた娘の指が微かに動く。

「……ファイツくん!」

6回目の呼びかけは、彼女の顔が上がるのと同時だった。意識があることを確認したというのにどうしてわざわざ叫んだのかは、自分でもよく分からなかった。”良かった”、それだけを思いながらラクツはぼんやりとした眼で虚空を見つめる娘をじっと見つめ続けていた。

「……ラクツ、くん?」

目の焦点がようやく合ったらしいファイツが、震える声で言葉を紡ぐ。無言で頷いて、ついでに身を屈めてやると、自分のそれに両手をそっと重ねられた。女性特有の小さな手だ。途端に心臓がまたもや跳ねたが、今感じている鼓動は先程までのものとは種類が違うとラクツは根拠もなくそう思った。

「本当に、ラクツくんなの?……本当に?」
「あ、ああ……」

脳内に鳴り響く心臓の鼓動を聞きながらそう返すと、どこか虚ろだったファイツの瞳には光が灯った。2、3回こちらの手を握った娘の口角は上がっているように見えたが、ラクツは眉をひそめた。

「…………」

声にこそ出さなかったが、見たいのはそれじゃないと思った。彼女が顔に浮かべているのは確かに笑顔であるわけだが、上手く笑えていないと思った。笑っているのに泣いているような、そんな笑顔だ。いや、よくよく見れば両の頬に涙の跡があるような気もする……。

「本物のラクツくんだ、夢じゃないんだ……。やっと帰って来てくれたんだ……」
「…………」

その言葉を耳にした瞬間に合点がいったラクツは、そういうことかと内心で舌打ちした。自分が出かけている間中、この娘は孤独への不安に苛まれていたのだろう。ゆっくりと重ねていた手を放したファイツが気まずそうに唇を開いた。

「ごめんね、ラクツくんのことを疑っちゃって……。てっきり、あたし……」
「ボクの方こそすまなかったな、色々と予定が押して帰宅が遅れたんだ。共に暮らすと決めた以上、この家を無断で出て行ったりはしない」
「……うん、うん……っ。……お帰りなさい、ラクツくん。帰って来てくれて、ありがとう……っ」
「……ああ。ただいま、ファイツくん」

目を細めて、口角も上げて。柔らかい声色になるように意識しながらそう返すと、ファイツはにっこりと微笑んだ。路地裏で再会した時に見せたような綺麗な笑みだ。その事実を認識した瞬間に心臓が懲りずに跳ねたが、ラクツは例によって無視を決め込んだ。本当にこれだけが困りものだ。現実から逃げるようにラクツは彼女から1歩も2歩も離れると、散乱した紙類に目をやった。

「……ところで、いったい何があったんだ?ケーキ箱やら紙類が散乱しているが」
「あの、ケーキはハンサムさんに買ってもらったの!病院の前で偶然会って、ケーキを食べるのをつき合って欲しいって言われたから、お土産に……」
「ハンサムが?……なるほど、彼からの着信はその件だろうか」

歳上の部下の顔を思い浮かべたラクツは息を吐いた。至極どうでもいいことで時々連絡して来る為に今回も敢えて出なかったのだが、やはり出なくて正解だったと心の底から思った。

「それで、カタログやチラシはどうしたんだ?」
「ラクツくんに欲しい物を選んでもらおうと思って、とりあえずもらって来たの。散らかしちゃったのは、その……。えっと、パニックになっちゃって……」
「ああ。その部分は説明しなくても大丈夫だ。しかし、何でまたボクの欲しい物などと言ったんだ?」
「だって、明日は5月4日でしょう?ハンサムさんが言ってたんだけど、ラクツくんの誕生日って聞いたから!」
「それはそうだが……。まったく、彼もどうでもいいことを憶えているものだな」
「どうでもいいことなんかじゃないよ!!だって、ラクツくんが産まれた日なんだよ!?祝わなきゃ絶対ダメだよ!!」

珍しいことに大声を出したファイツを呆気に取られて見つめる。両手を強く握り締めたところを見ると、彼女にとっては譲れない部分であるらしい。

「それに、ポケモンさん達が……。っていうよりダケちゃんがなんだけど、ラクツくんのケーキまで食べちゃったみたいだから……。だからやっぱり、欲しい物を選んで欲しいな」
「……分かった」
「良かった!あたしが買える物なら何でもいいよ?」
「しかし、急に言われてもな……。ボールも道具も補充したところだったし、寝具も一式購入したから今は別に……。……ああ、強いて言えばキミの連絡先だろうか。これでいいか?」
「……そ、それはプレゼントにならないよ!交換するけど、それじゃダメ!」
「ダメか?」
「ダメだよ!」

ダメ出しをされたラクツは苦笑した。元々自分は物欲が薄いという自覚はある。それに加えて必要な物を購入した今、欲しい物など特にない。しかし、それでは彼女が納得しないであろうことも分かっている。

「……では、保留にさせてもらってもいいだろうか。後々欲しい物が出来たら、キミにちゃんと告げるから」
「うん!」

ファイツはこくんと頷いてソファーから立ち上がると、散乱したチラシ類を片付け始めた。そんな彼女を手伝ってやろうとしたらこれまた制止されたラクツは、片付けに勤しむ彼女の後ろ姿を何気なく見つめた。身を焦がす程に欲しい物が出来ることを、そしてそれがファイツであることを、この時のラクツは知る由もなかった。……そう、今はまだ。