育む者 : 038
encounter
(うう……。気まずかったよぉ……)病院から出るなり、ファイツははあっと溜息をついた。長く続いた通院がこの調子ならもうすぐ終わりそうだと知った時の喜びも、あっという間に萎んでしまった。その原因ははっきりしている。いつものように応対してくれた看護師さんから、”あの彼氏は今日は一緒じゃないの?”と帰り際に訊かれてしまったからだ。
(否定はしたけど、多分信じてもらえてないよね……。照れなくてもいいのにって笑いながら言われちゃったし……)
あの看護師さんに悪気がなかったことはちゃんと理解している。だけどただでさえ憂鬱な通院がもっと憂鬱になってしまったと、ファイツはまたしても深い溜息をついた。唯一の救いは看護師さんが担当制ではなかったことと、あの場にいたのが自分だけだったことだ。もし彼が隣にいる状況であんなことを訊かれていたらと思うと、自然と唇から息が漏れ出てしまう。
(う~……。どうしよう、どんな顔してラクツくんに会えばいいんだろう……)
”一緒にご飯を作るなんて何だか新婚夫婦みたい”。朝食を作っている最中に思い浮かんで仕方なかったその考えをやっとのことで頭から追い出したところだったのになと、ファイツは飽きずに深く深く息を吐き出した。当たり前だが、自分達は夫婦ではない。そして、そもそもつき合ってなどいない。彼が一緒に作ろうと言ってくれたことに深い意味などないことは分かっている。それなのにそんな浮ついたことを考えた自分が赦せなかった。出来ることなら自分を殴りたい、その考えは今でも変わっていない。
「……あ、大丈夫だよダケちゃん。大したことないから……」
こんな自分を心配してくれたのか、はたまたいちいち溜息をつくなと喝を入れてくれたのか。右頬をぺちぺちと叩いてくれた友達に、ファイツは曖昧に笑いかけてみせた。大したことはないだなんて真っ赤な嘘だったのだけれど、せっかく付いて来てくれたダケちゃんに余計な気を遣わせたくはなかったのだ。
「……痛っ!何するの、ダケちゃん!」
眉根を下げてダケちゃんを見つめていたら、強烈な”たいあたり”が飛んで来た。ぷにぷにと柔らかかったとはいえびっくりしたことに変わりはない。思わず酷いよと拳を振り上げて抗議をすると、ダケちゃんはしっかりと頷いた。そのつぶらな瞳が”それでいい、元気を出せよ”と言っているように思えてならないのは、都合のいい解釈をしているだけなのだろうか?
「うん……。そうだよね……。元気、出さなきゃね。溜息ばかりついてても何もならないもんね!」
本当は落ち込んでいるわけではなかったのだが、この際それはどうでも良かった。そう、それこそ大したことではないだろう。大事なのは、意識を切り替えることなのだ。今は買い物に行っているラクツにだって、「泣くより笑っていた方がいい」と告げられたではないか。大切なことを思い出させてくれたダケちゃんをお礼とばかりに優しく撫でると、ファイツは腕を振って歩き出した。いつまでもとぼとぼと歩くわけにはいかない。
「それにしても、いい天気だよね!……あ、そうだ!しばらくは晴れるって天気予報でも言ってたし、皆でピクニックにでも行こっか?もちろんラクツくんとフタチマルさんも一緒に!」
最後の言葉を付け加えた瞬間にダケちゃんは難しい表情をしたのだけれど、最終的にはピクニックに行ける喜びの方が勝ったらしい。ぴょんぴょんと飛び跳ねたおかげで勢い余って肩の上から転がり落ちたダケちゃんを、ファイツは慌てて掴んだ。間一髪、ギリギリだった。
「もう、ダケちゃん……。前から思ってたけど、ダケちゃんっておっちょこちょいだよね。……あたしも偉そうに言えないけど」
両手の上で恥ずかしそうにしている友達の姿で苦笑する。考えてみれば、ダケちゃんは自分の所為で家にずっとこもりきりだったのだ。久し振りに遊びに行けるとなれば、このはしゃぎ振りも頷ける。他ならない自分だって、あの事件が起こる前日にピクニックに行くつもりだった。思いきり楽しんだって罰は当たらないだろう。
「今度こそあたし1人でお弁当を作って、皆の好きなお菓子も買って……。帰ったらラクツくんの好きな物を訊かなくちゃ……。結局訊けないままだったもんね……」
「……イツ、ファイツ」
「後はフタチマルさんの好きなアップルパイも焼いて、それから……」
「ファイツ!」
「はえ?」
早くもピクニックに思いを馳せていたファイツは、背後から聞こえて来た声で我に返った。ゆっくりと振り返ると、背の高い男の人と目線がかち合った。無精髭を生やした中年のおじさんだ。
「大声を出してすまない。私を憶えているかな?以前、キミの家に行ったことがあるんだが……。その、キミが事件に巻き込まれた翌日のことなのだが」
「あ……。えっと……。もしかして、ケーキの警部さん……?」
彼の顔を憶えていなかったファイツは、小首を傾げながらおずおずと返した。その覚え方はどうなんだろうと自分でも思ったが、憶えていないものは仕方ない。
「ああ、そうだ。そのケーキの警部だ。コードネームはハンサム、ラクツと名乗っていた警視の部下だ。キミを見かけたから声をかけさせてもらったが、体調はどうだい?」
「…………」
失礼な物言いをしたにも関わらず、ケーキの警部さん……いやハンサムは特に気分を害した様子もなく朗らかな笑みを見せてくれた。対するファイツはいうと、何も言わずにハンサムの顔を見上げていた。彼の言葉を信用していいものかどうか迷っていたこともあるが、右腕に包帯を巻いているという事実に気を取られたのだ。背後から声をかけられたということは彼も病院から出て来たというわけで、つまりハンサムは怪我をしているというわけで……。
「だ、大丈夫ですか!?怪我は……!」
「ああ、大丈夫だ。全然大したことはない」
「ほ、本当に……?」
「いやいや、本当だよ。少しドジを踏んだだけだ。私はその……。情けないが、そそっかしい警察官だからね。まったく、警視どのとは大違いだ」
左頬を掻きながらそんなことを言ったハンサムの態度がおかしくて、ファイツはくすくすと笑った。今度のそれは心からの笑みだった。自然に笑えている、とファイツは思った。
「……そうだ、この後時間はあるかい?この近くに出来たばかりのケーキ屋があるんだよ。実は、私は甘い物に目がなくて……。いや、もちろんキミの家に以前押しかけたお詫びというのもあるんだが……」
「…………」
ファイツは何も言わなかった。だけど、気が付いたら頷いていた。頷いたと気付いたすぐ後で、「いいですよ」と言っていた。
「助かるよ、本当にありがたい!私1人では入り辛くて……」
ありがとうと満面の笑みを浮かべた後で歩き出した警部さんの後を、ファイツはゆっくりと追いかけた。まだ信用出来ていないこの人の言葉をどうして信じたのかは、自分でもよく分からなかった。