育む者 : 037

春はあけぼの
目を覚ましたファイツは、ベッドに横たえていた身をゆっくりと起こした。気を抜くとくっつきそうになる目をごしごしと擦って、まだ寝たいと叫ぶ身体に喝を入れるかのようにぐぐっと伸びをする。心機一転、今日こそは早起きをすると決めたのだ。ここで二度寝をするわけにはいかない。

「……だって、今日こそはご飯を作るって決めたんだもんね!」

大きめの独り言を口にしながら足を下ろす。手早く着替えを済ませて、ちょっぴり寝癖が付いた髪を手櫛で整えた。身だしなみを整えてうんと頷いた瞬間に、それはそれは勢いよく振り返る。この部屋にいるのは自分だけではないことを思い出したのだ。

「…………」

何やってるのと自分を叱りつけながら、今の今まで横たえていたベッドをおそるおそる見据えたファイツははあっと吐息を漏らした。それは、友達が起きなかったことに対しての安堵の溜息だった。

「良かった、よく寝てる……」

現在進行系で夢の中にいるダケちゃんを認めて、ファイツは良かったと微笑んだ。大きな独り言を口にしたにも関わらず、鼻から提灯を器用に膨らませているダケちゃんは起きる気配すら感じられなかった。そんな友達をまじまじと見つめて、そっと息を吐く。今度は極小さな吐息だ。

「………………」

一度は、もうダメかと思った。ダケちゃんが自分の傍にいてくれる未来なんて、もう二度と訪れないのではないかと覚悟した。けれど、心に渦巻いていた嫌な予感はあくまでも予感でしかなかったらしい。数日前から本格的に同居し始めた彼の存在が強い支えになったのか、突如として悲鳴を上げる症状は治まっていた。きっと、そのおかげなのだろう。こんな自分を赦してくれたのか、はたまた情けをかけてくれたのか、とにかくダケちゃんは昨日から一緒に寝てくれるようになったのだ。
あの一件でダケちゃんが自分にとってかけがえのない存在なのだと改めて思い知らされたファイツは、友達の姿を飽きもせずに見つめた。大切なポケモンが自分の傍にいてくれる。自分の傍で、寛いだ姿を見せてくれている。そんな何でもないことが愛おしくて堪らなくて、ファイツは人差し指で目尻をそっと拭った。他の3匹は相変わらず自分を避けているけれど、だからといってあの子達を責めるわけにもいかない。最早地に落ちているであろう信頼は、ファイツ自身がどうにかして取り戻すしかないわけで。

(頑張らなきゃね。……よし!今日も元気にふぁいとふぁいと、ファイツ!)

改めて気合を入れるべく、ファイツは心の中で声高に叫んだ。自分を奮い立たせる魔法の呪文だ。この呪文を最後に口にしたのはいつだったっけ、そんなことを思いながらドアをそっと開ける。何と言ってもまだ早朝なのだ、大きな音を立てるのは流石に気が引けた。そうはいっても今更なのだけれど。

「う〜……。寒い……」

5月に入ったとはいえ、朝の5時前ともなれば流石にかなり冷える。部屋を一歩出た瞬間に、全身を寒さが襲った。それでも寝入っているダケちゃんのことを思うと、厚着をする為に部屋に戻る気にもなれなくて。そんなわけでぶるりと肩を震わせながら、ファイツは暗い廊下を抜き足差し足で歩いた。正直言ってものすごく寒いのだけれど、朝ご飯の準備をしているうちに身体も温まるだろう。もう少しの辛抱だ。

「……でも、ラクツくんって何が好きなんだろう?」

口をついて出たのは、今更にも程がある疑問だった。お世話になりっぱなしのお礼と罪滅ぼしも兼ねて豪華な朝ご飯を作ろうと決めたはいいのだが、いったい彼は何が好きなのだろうか?いや、そもそも好き嫌いがあるのだろうか。今更だけど、彼についてはまったくもって知らないことだらけだ……。

「…………」

はたと立ち止まったファイツははあっと溜息をついた。ラクツと再会してから1ヶ月も経つ上に今は一緒に暮らしているというのに、彼の好みが何一つ分からないことを情けないにも程があると思ったのだ。

(確かにワイちゃんの言う通りだよね……。あたし、ラクツくんのことを全然知らないんだもんね……)

脳裏に蘇ったのは、こんな自分を心配してくれる親友が発した言葉達だった。危ないとか狙われてるだとか、悪いことは言わないから同居なんて止めた方がいいだとか。最終的に納得こそしてくれたものの、ワイに散々忠告されたことは記憶に新しい。けれど、それでもファイツはラクツとの同居を解消する気にはなれなかった。彼には申し訳ないけれど、それだけはどうしても困るのだ。

「本当、あたしって自分勝手だよね……」

一気に沈んだ気持ちになったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。とぼとぼと歩き出したファイツは、リビングのドアをそっと開けたところでものの見事に固まった。驚くべきことにリビングの電気が点いていて、寝ているに違いないと思っていたはずの人がいたのだ。背を向けていた彼が、ゆっくりと振り返る。

「ラ、ラクツくん!?」
「……おはよう。随分早起きだな。まだ朝の5時前だぞ」
「早起きって、ラクツくんこそ……。……あ!お、おはよう……っ」
「キミは……。……ああ、分かった。分かったから、執拗につつくのは止めてくれ」

苦笑した彼が、優しい声で傍らにいた何かを宥め出した。いったいどうしたのかと思ったファイツが彼の手元を覗き込むと、可愛らしいポケモンがひょっこりと顔を覗かせた。おくびょうな性格の鳥ポケモンだ。

「チルットさん……?」
「うん、どうやらチルットくんはボクの手料理を非常に気に入ったらしくてな。数日前から、毎朝こうして秘密裏にねだるようになったんだ。……だからチルットくん。そう執拗にねだられても、ないものはあげられないぞ」
「……ラクツくんって、やっぱりすごいね。チルットさんにそんなに懐かれてるなんて……。あたしが近寄っても逃げちゃうのに……」
「懐かれているというより、食事目当てなだけだと思うがな。それより、キミはまだ寝ていた方がいいのではないか?」
「ううん、起きてる!ラクツくんこそ寝てていいよ。今日は何か用事でもあるの?」
「いや。キミの家に住まわせてもらってからは、だいたいこの時間帯に起きているぞ」
「そ、そうなの?」
「ああ。眠りが浅い所為か、自然と目が覚めるんだ」
「…………」

ファイツは眉根を寄せて黙り込んだ。もしかしたら使っている部屋の居心地が悪いのかもしれないし、何か心配事でもあるのかもしれない。それに何より彼が早起きしていたということを今の今まで知らなかったことがショックで、何も言えなくなってしまったのだ。ラクツのことが知れたという喜びよりも、そんなことすら知らなかったという事実が重くのしかかる。それに、チルットが毎朝ご飯をねだっていることも知らなかった。知らないことだらけで、唇からは無意識に溜息が零れ落ちる。

「ファイツくん、どうした?」
「うん、あのね……。あたし……、ラクツくんのことを知りたいとか言っておいて、実際には何も知らないんだなあって思って……」
「……焦らずとも、時間はあるんだ。これから知っていけばいいだけのことだろう。ボクだって、キミについて知らないことの方が多いと思うぞ」
「そう、かなあ……?」
「ボクはそうだと思っているがな。……さあ、チルットくんの催促も激しくなって来たことだし、少し早いが朝食作りに取りかかるとしようか」

ラクツが身体の向きを変えたことで、ファイツは我に返った。このまま流されてはいけないのだ。彼の背中に向けて、待って欲しいという言葉を投げかける。

「……ファイツくん?」
「今日はあたしが作るから、ラクツくんはゆっくりしてて!いつまでもラクツくんに頼ってちゃ悪いもん……っ」
「いや、キミこそ寛いでいていいぞ。ここはボクが……」
「ううん、今日こそはあたしが……!」
「まったく、このままでは平行線だな。……うん、それでは一緒に作ろうか。それならお互い文句も出ないだろう?」
「はえっ?……う、うん……」

ラクツからの提案に思わず頷いたファイツは、彼に続いてゆっくりと歩き出した。まさか一緒に作ろうと言われるなんて思わなかったと、声に出さずに心の中で繰り返す。そんなファイツは目の端で捉えた光をぼんやりと見つめた。どういうわけかどきんどきんと胸が高鳴る中で、いつの間にか明るくなっていたとある日の春の空を、ただただ綺麗だとファイツは思った。