育む者 : 036
もえあがるいかり
”ラクツくんがすぐにでもこの家を出て行くかもしれない”。その恐怖感と不安感は、思った以上に影響を与えていたらしい。少なくともこれから先しばらくは傍にいてくれることが分かった今、ファイツは自分でも驚く程の回復を遂げていた。3日と経たないうちにこけていた頬の輪郭はふっくらと丸みを帯び、顔色は目に見えて明るくなり、パサパサだった髪の色艶もある程度は元通りになり、更には2階の自分の部屋で寝られるようになって。衝撃的な事件からやっとのことで立ち直りつつあるファイツはと言うと、ライブキャスターに向かってぺこぺこと頭を下げていた。それはもう、必死な程に。「……それでね、ワイちゃんに連絡出来なかったの……。本当にごめんね、何回もかけてくれたのに……っ!」
『だからかけてもかけても繋がらなかったんだ……。どうしたんだろうってずっと心配してたのよ?アタシじゃ頼りにならないかもしれないけどさ、相談してくれれば何日でも泊まり込んだのに!』
「……ごめんね。ワイちゃんを巻き込みたくなくて、だからあたし……」
『…………』
俯きながら、ファイツはごめんなさいと謝った。画面に映るワイちゃんの沈黙が怖いと思いながら、何度も何度も謝った。涙を零しそうになった弱虫の自分に、泣いちゃダメと何度も強く言い聞かせる。
(……絶交だって言われても、仕方ない……よね……)
何でもっと早くかけなかったんだろうと、ファイツは連絡を返さなかった自らの行いを悔やんだ。いつまでもこのままじゃいけない。勇気を振り絞って久し振りに足を踏み入れた自分の部屋は、当たり前だが埃まみれになっていた。今日になるまで部屋掃除に奮闘していたと言えば聞こえはいいが、ライブキャスターのことをすっかり忘れていたことには変わりない。とっくの昔に電池切れになっていたライブキャスターの充電を終わらせたファイツの目に飛び込んで来たのは、溜まりに溜まっていたワイからの着信履歴で。通話ボタンを押すや否や画面に映った親友に、ファイツは冷や汗を垂らしながらおずおずと口火を切ったのだ。
「…………」
『…………』
親友からの呼び出しに出られなかった理由をようやく説明し終えたファイツは、唇を噛み締めた。親友を無視したつもりはないけれど、結果的にはそうなってしまった。絶交だと言われても仕方ないことは分かっているけれど、もし本当にそうなったらどうしよう……。
「ワイちゃん……。怒ってる、よね?」
『当たり前よ。怒ってるに決まってるじゃない!』
「うん……。あたしが早くかけ直さなかったから……」
『違うわよ!ファイツじゃなくて泥棒に怒ってるの!しかもファイツの優しさにつけ込んで薬を盛ってたなんて最っ低よ!ああもう、アタシがその場にいたら殴ってやったのに!』
親友が自分の為に怒ってくれている、ファイツはその事実だけで救われる気がした。いや、実際に救われているのだ。大好きな親友と話していると思うだけで、心には熱い何かが広がったのだから。
『これ以上謝るのは禁止だからね!いつまでも謝られたらアタシの方が困っちゃうしさ。ファイツは可愛いんだから、ほら笑顔笑顔!』
「……うん……。ありがとう、ワイちゃん……」
可愛いと言われるのはどうにも気恥ずかしいのだけれど、それでもファイツはにっこりと微笑んでみせた。こんな自分を気遣ってくれている親友の気持ちが嬉しかったのだ。それに、ラクツにも泣くより笑っていた方がいいと言われたばかりではないか。そうだ、暗くてうじうじした自分とは今日限りで別れるのだ。決意も新たに笑みを深めると、ワイは満足そうにうんうんと頷いた。
『よしよし、その調子!……でも、本当に1人で大丈夫なの?今すぐにでもそっちに行こうか?』
「そんな、いいよ!ワイちゃんとエックスくんに悪いし、その気持ちだけで充分過ぎるくらいだもん!」
慌ててファイツはぶんぶんと首を横に振った。好きな人と結ばれて、同棲までしている親友の幸せに水は差せない。確かにワイが来てくれれば楽しいし心強くもあるだろうが、それ以上に親友の邪魔をしたくないという気持ちの方が大きかった。
「……それに、1人じゃないよ。ポケモンさん達も一緒だし、何よりラクツくんがいてくれるから、あたしはもう大丈夫!」
『ラクツ、くん?……ファイツ、ラクツくんって誰なの?』
「あ、言ってなかったっけ?さっきワイちゃんに説明した警視さんのことだよ。ラクツくんがこれから一緒に暮らしてくれるから……」
『ちょ、ちょっとファイツ!ストップストップ!』
「はえ?……どうしたの、ワイちゃん?」
『”どうしたの”、じゃないわよ!警視さんって言うからおじさんだと思ってたのに、もしかして歳が近いの!?しかも、”一緒に暮らす”ですって!?』
「う、うん……」
ライブキャスターの画面いっぱいにずいっと詰め寄った親友とは対照的に、ファイツは思いきり仰け反らせた。ワイの剣幕が怖くて、さっきとは違う意味でだらだらと冷や汗を垂らす。
「ラクツくんは国際警察官の警視さんで、あたしと同い歳なの。事件に巻き込まれたあたしを放っておけないって、すっごく心配してくれてて……。あたしが泥棒が来るかもしれないのが怖いって言ったら、この家に留まるって返してくれたの……」
『やだ、それって同棲じゃない!』
「ち、違うよっ!同棲じゃなくて同居だもん!ラクツくんにも事情があって、一緒に暮らすことになっただけで……っ!」
『そんなことより大丈夫なの!?ファイツ、変なことされてない!?お風呂とか覗かれてない!?』
「そ、そんなことされてないよっ!ラクツくんって、すっごく気を遣ってくれるんだよ!?それに、自分の洗濯物は自分で洗うことにしてるし……っ」
お風呂に入る時は脱衣所のドアを閉めること。そしてそうなっている間はお互いが決して脱衣所に立ち入らないこと。更には、個人の洗濯物は各々が洗うこと。このルールは、泥棒に入られる前に彼を泊めていた期間も含めて一度たりとも破られていないのだ。
『じゃあ、ボディタッチとかは?やたらとベタベタして来る人じゃない?大丈夫?』
「えっと……。何度か手は握られたけど……」
『何ですって!?やっぱりそいつってファイツ狙いなんじゃ……っ!』
「だ、だから違うってば!不安がってたあたしを落ち着かせる為にそうしてくれただけだもん!」
金切り声を上げたワイに、ファイツは力いっぱい首を横に振ってみせた。演技をしていたトレーナーズスクールでのラクツならともかく、今の彼は親切な人でしかないのだ。そのラクツが、親友に覗き魔だとか触り魔だと思われるのは絶対に避けたかった。
「あ、あたしだって別に嫌じゃなかったし……っ。だ、だからね!ワイちゃんが心配するようなことは絶対起こらないもん……っ」
『……どうかしら。話を聞いてると真面目な人ではあるみたいだけど、だからと言って油断しない方がいいわよ!何がどうなるかなんて誰にも分かんないんだから!”男は全員狼だから気を付けなよ”って、エックスも言ってたくらいだし……!』
「……そう、かなあ……。ラクツくんに限って、そんなことはないと思うけど……」
ファイツは首を傾げながらそう返した。あの彼が自分に……なんて、あるはずがない。それだけは、天地がひっくり返ってもないに違いない。うん、絶対にない。
『……ねえ、ファイツ。その人の番号を教えてくれない?アタシ、ちょっと彼と話してみたいんだけど』
「う……。その、実はあたしも知らないの。まだ交換してなくて……」
『え、まだ交換してないの?……じゃあその人の趣味は?他にも特技とか、好き嫌いとかは?』
「そ、その……。それも、よく知らなくて……。料理が上手くて仕事熱心な警視さんで、すっごく大人っぽい人ってことくらいしか……」
『はあ!?よく知らないのに一緒に暮らすって決めたの!?』
「う、うん……」
こくんと頷くと、盛大な溜息をつかれた。しかも、こめかみに手を当てるというおまけつきだ。親友が呆れ果てていることは明らかだ。
『ファイツ。悪いことは言わないからさ、その人と一緒に暮らすのは止めときなよ。絶対そのうちに後悔するって!やっぱりアタシが行ってあげるから。ついでにその人をファイツの家から叩き出してやるんだから!』
「ダ、ダメだってばあっ!そんなことしちゃダメ!!」
憤怒に燃えるワイに、ファイツは必死にダメだよと言った。上手く言えないけれど、ここで押し切られては絶対にいけない気がしたのだ。親友の気持ちは嬉しかったのだけれど、これだけはどうしてか譲れなかった。結局根負けしたワイが渋々ながら頷くまで、ファイツの幾度とない「ダメだからね」は続いた。