育む者 : 034

色濃い、誤解
リビングへと戻って来たラクツは、しかし呆気に取られていた。ファイツの為に淹れたココアと、自分が飲む為のココアと。後者であるそれに口を付けようとしたら、他ならない彼女が先に飲み始めたからだ。来客用のマグカップに目を落とした後で、ラクツはいい飲みっぷりを晒している娘を眺めていた。虚を突かれたとはまさにこのことだ。本当にあっという間で、口を挟む間もなかった。

「…………」

熱いはずのココアを勢いよく胃の中に流し込んでいるファイツを見つめて眉間を寄せる。それ程までに寒かったのだろうか、むせはしないか、いやそれ以前に毒見をしなくてもいいのだろうか。様々な思考が脳内を駆け巡る。最も引っかかったのは最後に思い浮かべた思考だ。もちろん何も盛ってなどいないが、こちらが口を付けて無害であることを証明してから彼女が飲食するのが恒例だったはずなのに。

(多少ではなく、この娘の信頼を真に勝ち取ったと考えてもいいのだろうか……?)

こちらが行動を起こす前に飲食物を口にしたということは、多分そういうことなのだろう。しかしラクツはどこか釈然としなかった。実際のところは無理をしているのではないだろうか、こちらに気を遣って真意とは真逆の行動を取ったのだろうか。根拠はないが、何故だかそんな気がしてならなかった。もしかしたら自分は余計なことを告げてしまったのかもしれないなと、内心で息を吐く。

「……大丈夫か?」

頃合いを見計らって、二重の意味を込めて問いかける。海を思わせるかのような青い瞳にはどことなく涙が滲んでいるように見えたが、何事もなくココアを飲み終えたファイツはこくこくと頷くばかりだった。止せばいいのに一息で飲んだ所為で、唇の端がココア色に染まっている。

「う、うん。ちょっとだけ喉がひりひりするけど、すっごく美味しいココアだったよ!」
「……それは大丈夫とは言わないぞ。早く水を飲んだ方がいい」
「うん、そうする……っ」

元々が素直な性格をしているファイツだ。反論することなくキッチンへ向かった娘の背中を眺めて、ラクツは息を吐き出した。その足取りがかなり早いように見えたのは、果たして見間違いなのだろうか?

(少し火傷しただけだと思っていたが、そこまで酷く傷むのだろうか……) 

間違いなく水を飲みに行ったであろうファイツへ思いを馳せる。幸い、火傷による痛みなら手の施しようはいくらでもあるだろう。程度によるが、充分な水分補給をした上で安静にしてもらうのが一番だ。あまりにも長引くようなら、それこそ明日の診察でついでに診てもらえばいいのだし。
とりあえず念の為にあれでも渡しておくかと、ラクツは薬箱が置かれている棚に近付いた。目当ての物へと手を伸ばしたところで、手の動きがぴたりと止まる。もう1つの可能性に突如として思い至ったのだ。それは即ち、ファイツが自分から距離を置きたがっているという可能性だった。その考えに至った瞬間、心臓がどくりと嫌な音を立てた。

「…………」

身体的な痛みと精神的な痛みならば、後者の方が遥かに厄介だと理解しているラクツは凍り付いたように硬直していた。火傷の痛みを少しでも緩和する目的で足早に去ったのならまだいい。だがもしも自分から逃げる目的でそうしたというのなら、最早こちらにはどうすることも出来ないではないか。むしろ自分の存在が逆に彼女を追い詰めているだけだ。かつて面と向かって告げられた言葉が、脳裏に蘇る。

(”怖いのはあなた”、か……)

あれから6年以上が経過している上に、どちらかと言えば向こうから話しかけられることが多いから。だからその考えに今の今まで至らなかったのだが、そういえば自分はファイツに怖がられていたことをラクツは今になって思い出した。彼女の今の心境はどうなのだろう?表面上は普通に接してくれる彼女は、内心では自分のことを恐れているのではないだろうか。自分はまだ、あの娘に怖いと思われているのだろうか。そのことが、気になって気になって仕方がなかった。

「………………」

よくよく思い返してみれば二度目の再会を果たしてからの彼女は碌に笑っていないし、特にここ最近は物言いたげな顔をしている頻度が高いような気もする。ファイツの手助けをしているつもりで、実際には傷付けているのだろうか。”やっぱりこの家から出て行って欲しい”、その一言を心の中では何度も繰り返し発していたりするのだろうか。唐突に生まれたその疑念が消えない、どうしても消えてくれない……。

「ひ……っ!!」

思考の海に深く沈んでいたラクツは、その声ではっと我に返った。振り返ると、自分の脳内を占めていた張本人であるファイツがリビングとキッチンとの境目で全身を小刻みに震わせながら立っているのが見えた。いつの間に戻って来たのだろう、全然気付かなかった。

「ど、どうしたのラクツくん!どこか具合でも悪いの!?大丈夫!?」

矢継ぎ早に言葉を発する彼女を、またしても呆然と見つめる。”大丈夫”、はこちらの台詞だ。内心でそう呟きながら、ラクツは引き結んでいた唇をゆっくりと開いた。

「……いや。キミこそ……」
「も、もしかして風邪引いちゃった!?やだ、どうしよう……っ!」
「…………」

何とも的外れなことを考えている彼女に思わず苦笑が漏れる。こちらの声が耳に入っていないことは明白だったが、不思議なことに不快だとは微塵も思わなかった。

「落ち着いてくれ、ファイツくん。ボクは別に体調を崩しているわけではないぞ」
「でも、だって……っ!だったら、どうして薬なんて探してるの……!?それに、そんな顔色で……っ!」
「……どんな顔色だ?」
「今のラクツくん、真っ青だよ……っ!お願いだから、ちゃんと休んで!!」

どうあってもこちらを体調不良であることにしたいらしいファイツは、最早涙目で「休んでよ」とまくし立てた。現在進行形で何やら誤解をしている彼女をラクツはどうしたものかと見つめる。彼女の様子からしても、多分その言葉に嘘はないのだろう。そして同時に、それは1つの事実を明確に指し示していた。この娘に怖がられているのかもしれないと思考するだけで青褪めるくらいなのだから、つまり自分の中でファイツは軽視出来ない存在になっているということで……。

(……いや、まあ……。それはそうなのだろうが……)

そもそも、任務遂行が最優先という己の信条を捻じ曲げてまでこの家に来訪したところからしてまずおかしいのだ。かつての自分なら、絶対にあり得なかった行動だ。警察官として活動するうちに自然と培われた自分の核が、自分の中の何かが、この娘と接したことで変わってしまった。そう、間違いなく変わってしまったのだ。その事実を今更再認識したラクツはしばし愕然としたが、ノートパソコンに送られて来た辞令とメールの文面が脳裏に蘇ったことではっと我に返った。後者の後半部分にもはっきりと記載されていたではないか。”心境の変化は別に悪いことではない。特に、黒の2号には”と。

「…………」

しかしラクツは、上司兼父親からその言葉を受け取ってもなお迷っていた。胃の中に収めた言葉をこの娘に告げていいものかどうか、判断が付かなかった。出来ることなら誰かに道を指し示して欲しいとすら思った。”あれ”が任務だというのなら個人的には異論はない。確かに異例中の異例だが、それでも正式な任務である以上従うのが正解なのだとは思う。しかし、自分は良くても彼女が困るのではないだろうか……。

「や、やっぱりそうなんだ……っ!!」
「……ファイツくん?」

ファイツの涙声でラクツは三度我に返った。こんな時に深く思考した所為で、余計な誤解を招いたらしい。

「あ、あたし……。役に立たないかもしれないけど、ラクツくんを精一杯看病するからね!それで、朝一番に病院に……っ!!」

体調不良を通り越して病人認定されたラクツは、堪え切れずに忍び笑いを漏らした。これだからこの娘は興味深いというか、一緒にいて退屈しないのだ。本当にこちらの想像を絶する言動をする娘だと、強く思う。いや、彼女からすれば笑い事ではないのだけれど。

「……その必要はない。まったくの無意味だと思うぞ」

具合が悪いのだと本気で思い込んでいる彼女の提案は即座に却下だ。体調不良などではないことは他でもない自分が一番よく知っている。少々素っ気ない言い方をしたことに気付いたのは言葉を発した後だったが、ファイツは特に気にする様子もなく「ダメだよ」なんて言っている……。

「でも、もしかしたら重い病気かもしれないし……っ。…………って、何でそんなに笑ってるの!?」
「……ふふ、今更気付いたのか……。いいか、ファイツくん。重ねて言うが、ボクは断じて体調不良などではないぞ。少々考え事をしていただけだ。……探していたのも、これだ」
「…………はえ?」

随分と時間がかかった。そう思いながら、ラクツはやっとのことで薬箱に腕を突っ込んだ。数ある中から桃味のそれを意図的に選び抜いて、ファイツの右手にそれを落とす。

「……ほら。薬ではないだろう?」
「のど飴……?」
「ああ。確かキミは桃味を好んでいたはずだったな。喉の痛みが気になるなら、それでも舐めるといい」
「…………」

ファイツはまだ状況が飲み込めないのか、ポカンと口を半開きにしていた。その顔色が青から赤に瞬く間に変わって行く様子を黙って眺めていたラクツは、彼女の唇が閉じると同時に自分の耳を塞いだ。

「ご、ごめんなさいいいいっ!あたしったら、変な勘違いしちゃって……!!」
「ああ、それはもう分かっている。とにかく、声量を抑えてくれないか」
「あ、うん……。その、ごめんね……。……うう、恥ずかしいよう……」

言葉通り相当恥ずかしがっているのか、ファイツは左手で口を覆った。言うまでもなくその顔は真っ赤に染まっている。

「しかし、何でまたそのような誤解をしたんだ?」
「だ、だって……。ラクツくん、髪の毛濡れてたもん……。だから、てっきり身体が冷えちゃったのかなって……」
「ああ、なるほど。それは単に、メールの返信を優先しただけだ。溜め込むと後が面倒だし、何より相手が長官だからな」
「……え……」
「……ファイツくん?どうした?」
「ちょ、長官って……。ラクツくんの上司の……?」
「ああ」

頷いた途端、ファイツの顔色は目に見えて悪くなった。そう、顔面蒼白と言ってもいい程に。

「ファイツくん!?」
「やだあ……っ!」

彼女の華奢な身体が、ぐらりと崩れ落ちる。床に当たる寸前で抱き留めたラクツは何事かとファイツの顔を見た。赤かったはずの顔は今や血の気が引いている。顔色が悪いのはキミの方だろうと言いかけるべく唇を開いたラクツは、しかしその言葉を告げることはなかった。何のことはない、ファイツに思いきり抱き付かれた為に言えなかったのだ。

「やだ、やだよお……っ!どこにも行かないで、ラクツくん……っ!」

「嫌だ」と「行かないで」を何度も繰り返すファイツの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。全身が急速に熱を持つ感覚を抱いたラクツは、甘い匂いを漂わせている娘に抱き付かれたまま石のように硬直するばかりだった。