育む者 : 033
彼への気持ち〜spring〜
「……?」どこか遠くで、微かな物音が聞こえる。規則正しいその音に導かれるようにして目を開けたファイツは、ソファーに横になった状態でぱちぱちと目を瞬いた。警察官であるラクツがこの家にいてくれるおかげなのか、恐怖と絶望に苛まれていた心は随分と楽になったように思う。とはいえ2階にある自分の部屋で寝るのはまだ怖くて、これまで通りソファーをベッド代わりにしているのだ。いったい何の物音なんだろう。そんなことをぼんやりと思いながら、ソファーに横たえていた身体をゆっくりと起こしてみる。
(……あ、ラクツくんだ)
テーブルがある方向に目線を向けたファイツはなんだ、と小さな息を吐いた。そう、椅子に腰かけたラクツがノートパソコンと向かい合っているのが見えたのだ。起きる寸前に聞こえたあれは、キーボードが叩かれる音だったのだろう。お風呂上がりなのか、タオルを首にかけたままの彼の髪の毛は少し濡れているように見えた。
(髪の毛も乾かさないで何やってるんだろう……。……やっぱり、お仕事なのかなあ……)
距離があるからはっきりとしたことは言えないのだけれど、パソコンの画面を見つめる彼の横顔は何となく憂いを帯びているように思えてならない。物音の正体が分かって納得した側から、だけどファイツの心には強烈な不安が渦巻いた。
「…………」
仕事の為にパソコンを使っているならいいが、もし悪い報せをちょうど受け取ったところだったとしたら?その悪い報せが、例えば”解雇”だったとしたらどうしよう。心の中でそう呟いたファイツの身体はかたかたと震えだした。一度は鮮明になったはずの視界がまたしてもぼやけた。今度のそれは、もちろん寝起きによる目の乾燥ではなく涙の滲みによるものだ。
「…………っ」
忙しいはずのラクツが、他でもないファイツ自身の為にここに留まってくれていることは知っている。ご飯だって毎食作ってくれるし、通院にも付き添ってくれる上に掃除まで引き受けてくれるのだ。洗濯だけは頼むと言っていたけれど、それだって自分を気遣ってくれたが故の提案だろう。どうしてここまでしてくれるのかと訊いたら、放っておけないからだと告げられたことは記憶に新しい。仮に逆の立場に置かれたとしたら、ファイツだって同じ答を返したことだろう。だけど彼とまったく同じことを出来るかと問われたら、きっと自分は首を横に振ると思う。助けたい気持ちはあれど、泊まり込みで細やかなお世話をするなんて芸当は、自分にはとても出来そうにない。
ファイツには、訊きたいと思いつつも訊けないことがあった。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼は、傍目には警察官としての仕事をしていないようにしか見えなかったのだ。”ラクツくん、警察官の仕事は大丈夫なの”?その一言が口に出せないままとうとう1週間が過ぎてしまったが、本当にどうなっているのだろう?自分に会う為にわざわざ休みを取ってくれたというならまだいいかもしれないが、それでも申し訳ないことに変わりはない。ファイツが恐れているのは、”こんな自分の面倒を長々と見る羽目になった所為で、ついに解雇されてしまいました”。この考えが現実になることだった。もしもそうなっていたとしたら、いったいどう責任を取ればいいのだろうか……。
警察官という職業を一度は解雇された彼が後に復職したことは知っているが、今回もそうなる保証はないのだ。自分の所為で彼が犠牲になるだなんて、とても耐えられない。だけど、あたしにはもう構わなくていいよと言うことも出来そうにない。何せラクツがいなくなったらと思うだけで、ファイツの心は絶望に支配される始末なのだ。仮に今出ていかれたら、あっという間にあの暗い生活に逆戻りすることは目に見えている。あんな日々にはもう戻りたくない、だけどそれ以上にラクツの実情を知るのが怖い。自分の所為で解雇されたのか、はたまたそうではないのか。それが怖くて、ファイツは一番訊きたい一言を口に出せずにずるずると日々を過ごしているのだ。
(本当、自分勝手……)
ぐっと奥歯を噛んだファイツは、ラクツの横顔を見つめ続けた。彼がどうして憂いを帯びた表情をしているのかが気になる、だけどとても声をかけられそうにない……。
「すまない、騒がしかったか?極力音を立てないようにしていたつもりだったんだが」
「ふええっ!?」
罪悪感と恐怖に囚われていたことも忘れて、ファイツはびくんと肩を跳ね上げさせた。パソコンに向かい合っているものだとばかり思っていた。まさか、起きたことに気付かれているとは夢にも思わなかったのだ。いつの間にやらパソコンから目を離していたラクツはそれはおかしそうに忍び笑いを漏らしていたから、ファイツは涙目になった。お腹が鳴ったことといい今といい、どうして恥ずかしいところばかりを見られてしまうのだろうか。
「……そ、そんなに笑わなくてもいいじゃない……っ!」
ラクツへの感謝の気持ちはある、それこそ言葉では言い表せないくらいにある。そして、それと同じくらいの申し訳ないという気持ちもある。だけど、いくら何でもこれは笑い過ぎではないだろうか。半泣きで文句をつけつつ彼の顔を睨むように見つめていると、ラクツが困ったような顔で眉尻を下げた。
「うん、確かに笑い過ぎたような気がする。すまなかったな、ファイツくん」
「そんな、ラクツくんが謝ることないよ!」
文句をつけたのは他でもない自分なのだが、別に本気で反省してもらいたいわけではなかったファイツは大声を出した。あ、と思った時には既に遅かった。おそるおそる見てみれば、ラクツはものの見事に笑いを堪えているではないか。
「ファイツくん。ボクに謝って欲しいのかそうでないのか、いったいキミはどうして欲しいんだ?」
「……だ、だからねっ!……えっと、あれ……?」
拳をぎゅうっと握ったファイツはそのまま彼を見つめていたが、結局「わけ分かんなくなっちゃった」という言葉でいったん口を噤んだ。ちょっとだけ恨みがましい。彼へ抱いていたはずのそんな気持ちは、穏やかに笑い出したラクツの顔を見ていたらどうでも良くなってしまったのだ。
「ふふ、キミはつくづく不思議な娘だな……。目が離せないというか、一緒にいて退屈しないというか……。とにかく、興味深い」
流れるようにそう言葉を紡いだラクツは、そこで言葉を切るとこちらをまっすぐに見つめて来た。そのまま押し黙ってしまった彼は、それは真面目な表情をしている……。
「………………」
ラクツにじっと見つめられている。それも、トレードマークであるはずの眉間の皺が珍しくもない彼に。その事実だけで、ファイツの心臓は激しく音を立てた。どうしよう、すっごくどきどきする。そんな言葉を叫びながら心臓と戦っていたら、不意に名前を呼ばれた。どきどきどきと高鳴る心臓を必死に宥めながら、ファイツはやっとのことで唇を開いた。
「な、何……っ?」
「ああ……。……いや、何でもない。随分と顔色が良くなったものだと改めて思っただけだ。それに顔の輪郭も、かなり丸みを帯びて来たな」
「ラクツくんのおかげだよ。ラクツくんが作ってくれるご飯、すっごく美味しいもん……。ラクツくんが、いつもあたしを助けてくれるから……」
ファイツはそう答えたが、どこか釈然としない気持ちになった。何となくだけど、彼が本当に言いたかったことは他にあるような気がしてならなかったのだ。そう思うと、ファイツはまたしても恐怖に襲われた。”キミもある程度回復しているようだし、ボクはそろそろ失礼させてもらう”。その一言が告げられる瞬間が、とうとうやって来たのだろうか。
「…………」
途端に目の前が真っ暗になる感覚を覚えて、歯の根がひとりでにかちかちと音を立てる。ファイツにとって一番怖いのが彼の置かれた現状をはっきりと知らされることだったが、彼に出て行かれることだってとんでもなく怖いことなのだ。
(そんなのやだ……。まだここにいて欲しいよ……っ)
”ラクツくんにはまだこの家にいて欲しい”。心に浮かんだこの気持ちは、紛れもない本音だ。自分のことしか考えていないと分かってはいるけれど、それでもファイツは彼に出て行って欲しいとは微塵も思っていなかった。内心では彼に疎まれているかもしれない。表面上は見せないだけで、この家に戻って来たことを密かに後悔しているかもしれない。もしかしたら、実は自分の所為で解雇されているのかもしれない。それが事実だったとしたら本当に本当に申し訳ないのだけれど、それでもこの気持ちに嘘はつけなかった。信頼を勝ち取っていると改めて指摘されるまでもなく、彼のことはとうの昔に信頼していた。そう、自分は彼がいないとダメなのだ。”お願いだから、出て行くなんて言わないで”。縋るような思いでラクツを見つめていると、彼はぐぐっと眉根を寄せた。
「……良くなったと言っておいて何だが、顔色が急に悪くなったな。どうした、寒いのか?」
「う、うん……。ちょっとだけ……」
「……そうか。……そうだな、ココアでも淹れようか?」
「うん……」
「分かった。少し待っていてくれ」
唇から飛び出した言葉は真っ赤な嘘だった。寒いからではなく怖いからなのに、ファイツはそれを正直に言わなかった。ココアを淹れる時間の分だけラクツが傍にいてくれるから、だからファイツはあえて本当のことを言わなかったのだ。そんな自分を心の中で罵っていると、ココアが入った缶とマグカップを持ったラクツがリビングに戻って来た。自分の為に、目の前で淹れてくれるつもりなのだ。
(ごめんね。本当にごめんね、ラクツくん……)
本当に少しずつだけど、肉体的にも精神的にも日に日に良くなっていることはちゃんと分かっている。物音で目が覚めた時、”泥棒が来た”ではなく”何だろう”と思ったことからしてもそれは明らかだった。だけど、実際には彼の優しさに甘えているだけなのだ。ラクツに依存していると言い換えてもいい。とにかく彼に寄りかかってばかりの現状から抜け出さなければ、本当に良くなったとは言えないだろう。だけどそれが分かっていてもなお、ファイツは”ラクツくんに出て行かないで欲しい”と強く思った。自分にはまだ、彼がいないとダメなのだ。彼への感謝の気持ちはある、申し訳ないという気持ちもある。だけどそれ以上に彼に出て行かれたらという恐怖が消えなくて、ファイツの胸はどきどきどきと高鳴った。