育む者 : 032

放っておけないから
当たり前だが警察官である自分は専門的な医療知識など有してはいないわけで。真にこの娘の為を思うならば、入院させるのが多分正しい選択肢なのだろう。しかし、ラクツはそうしなかった。処分が未だになされないのをいいことに、当の本人が入院することに難色を示したのをいいことに、そして彼女が嫌がらなかったのをいいことに、ファイツの世話役を買って出たのだ。看病など碌にしたことがないにも関わらず、他でもない自分がこの娘の面倒を見る必要があるのだとも思った。どうしてそう思ったのかは自分でもよく分からなかった。ちなみに、本当は睡眠薬ではなく媚薬を盛られるところだったということは訂正しないことに決めた。世の中には知らない方がいいこともあるのだ。誰だか知らないが、ファイツに事の顛末を説明した警部が真実を伝えなかったのもその辺りを加味してのものだろう。

「出来たぞ、ファイツくん」

そんなわけで今日も今日とて食事作りを終えたラクツは、背後にいるであろう娘に声をかけた。この家に再び足を踏み入れてから今日で7回目の夜になるが、本当にあっという間だった。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。味噌汁をお玉で混ぜながら、ラクツは胸中でそう呟いた。ちなみに今晩のメニューはいつも通りの粥と味噌汁だ。実に代わり映えしないメニューだが、彼女の胃を思えばこそだ。

「……ファイツくん?」

声をかけたにも関わらず、返事がないことに眉をひそめる。いつもなら、間髪入れずに彼女の「ありがとう」が聞こえるはずなのだ。席を外していたことに気付かなかったのだろうかと、手を止めて振り返ったラクツは苦笑した。ファイツは確かにそこにいた、しかしこくりこくりと舟を漕いでいたのだ。華奢な両肩を規則正しく上下させた状態で、キッチンとリビングの境目に置いた椅子に座っている娘を見つめたまま、どうしたものかと逡巡する。

「…………」

この状況で寝るということは、つまりあの娘の身体が睡眠を欲しているということなのだ。食事なら後で摂れば済む話だし、寝たいのなら寝かせてやればいい。とりあえずソファーに移動させようと足を踏み出したラクツは、しかしすぐにその足を止めた。俯いていたファイツの指がぴくりと動いたのが見えたのだ。ゆっくりと顔を上げた彼女はまだ夢の中にいるらしく、その目線は虚空を彷徨っているように思えた。

「あ、れ……?」

起き抜けの彼女を下手に刺激しない方がいい。これまでの経験からそう判断したラクツは、距離を置いたところから寝ぼけ眼のファイツをまっすぐに見つめた。そんな彼女をしばらく見据えていると、彷徨っていた青い瞳の焦点が合った。

「……ラクツくん?」

小首を傾げたファイツは相変わらず眠そうにしていたが、確かに自分の名を呼んだのだ。これならもう大丈夫だと、ラクツは閉じていた唇を開いた。出来る限り穏やかな口調で、瞳をとろんとさせている彼女に話しかける。

「おはよう、ファイツくん」
「ご……。ごめんなさい……っ!」

その一言で眠気が吹き飛んだのか、ファイツは両手を合わせて必死な程に繰り返し頭を下げた。突如として平謝りされたラクツは呆気に取られた。まさか、おはようの返しに”ごめんなさい”と謝られるとは思わなかったのだ。

「何故謝るんだ?キミはボクに何か悪事を働いただろうか」
「だって、だって……!あたしったらのんきに寝ちゃって……っ!ラクツくんがせっかくご飯を作ってくれてるのに、本当最低だよ……っ」

ファイツはまたしても最低と言い放つと、この世の終わりだと言いたげに顔を覆った。大袈裟にも程がある反応を見せた彼女に、ラクツは喉を鳴らして笑った。

「……ふふ、まったく……。キミは相変わらず顕著な反応を見せる娘だな」
「あ、あたしは真面目に言ってるんだよ!ラクツくんだって、嫌な子だなって思うでしょう!?」
「いや、別に?ボクはそうは思わないが」
「……ど、どうして?」
「何故って……。多少なりともボクがファイツくんからの信頼を勝ち取った証だとも言えるからな」

飛び出した音は彼女を言い包める為の言葉ではなかった。事実、ラクツは心からそう思っているのだ。彼女に少なからず信頼されているのだと思うと、不思議と悪い気はしなかった。

「…………」
「……ん?どうした?」
「あ、ううん!何でもないの……っ。……そ、それより!あの、えっと……。……だ、だからね!」

どうしてか腕をわたわたと動かして、盛大にどもりながら必死に言葉を紡ぎ出したファイツは、誰がどう見ても狼狽えている。はっきり言って訝しい以外の何物でもないのだが、それでもラクツは口を挟もうとは欠片も思わなかった。これもまた経験則なのだが、こういう時にこそおとなしく待った方がいいということを身に染みて理解していたのだ。

「うう……。……い、いい匂いだね……っ」

脈絡もなくそんな言葉を告げられたことで、またしても苦笑いが自然と浮かぶ。多分、彼女が本当に言いたかったことはそれではないのだろう。そう思ったものの、そこには触れずに「それは何よりだ」と返す。

「ちょうど出来たところだったんだ。すぐにでも食べられるが、どうする?もうひと眠りしてからにするか?」

言葉尻に被せるように聞こえて来たのはくうという小さな音で、ラクツは口を噤んだ。その出所はどう解釈しても彼女の腹部からで……。

「…………」
「…………」

どうやら居たたまれなさが限界に達したらしい。腹部から音を奏でた主であるファイツはさっと顔を動かしたが、その視線の矛先は何もない床だった。

「……訊くまでもなかったな」
「……う、うん……。あたし、もうお腹ぺこぺこで……っ」

当然ながらその表情は見えなかったが、耳が真っ赤に染まっていることから彼女が恥ずかしがっていることが窺い知れた。心の機微に疎い自分にだって、それくらいの知識はあるのだ。

「そうか。では、向こうで待っていてくれ。すぐに用意するから」
「……うん。……ありがとう」

ラクツは鍋が置いてあるコンロに向き直ったが、空腹を覚えているはずのファイツは何故かその場から動こうとはしなかった。物音がしない以前の問題で、背中に突き刺さる視線が彼女が背後に存在していることを雄弁に物語っていた。物言いたげな視線をその身に浴びながら、ラクツはどうしてなのだろうと思考した。こうも見つめられる理由がてんで思い浮かばなかったのだ。

(……ああ。ボク自身というより、ボクの身体で遮られているものが見たかったのか)

その考えに思い至れば、凝視されている理由にも納得がいくというものだ。つまり、彼女は今晩のメニューを気にしているのだろう。食べる度に美味しい美味しいとファイツは言うが、7日間連続で粥と味噌汁が続けば飽きても何らおかしくはない。

「すまないが、今晩も粥と味噌汁だ。とはいえ明日の検査次第では、明晩から米に移行することを考えてもいいと思うぞ」
「うん……」

温かい粥を茶椀によそいながら、穏やかに告げる。しかしラクツは、「うん」と返したファイツの態度にまたしても眉をひそめた。明らかに生返事だ。彼女の性格からして「やった」と言っても良さそうなのに、どうも反応が薄いことが気になった。

「どうして……?」

彼女の様子が気になるというのが本音だが、今は食事が先決だろう。風が吹けば消え入りそうな声が鼓膜を震わせたのは、自分の分を椀によそい終えた折だった。

「……ファイツくん?」

振り返ると、椅子に座ったままのファイツと目が合った。こちらをじっと見つめる彼女は、今にも泣きそうな顔をしている。

「どうして?どうしてあたしにそこまでしてくれるの……?あたし、ラクツくんに迷惑ばっかりかけてるのに……。ねえ、どうして……?」

ファイツは震える声で言い連ねたが、その内容には首を傾げざるを得なかった。”そこまで”というのはいまいちよく分からないし、”迷惑をかけてばかり”というのも見当違いだ。迷惑どころか、むしろやりがいがあるとすら思っているくらいなのだ。それなのに、どうしてこの娘はこんなことを言うのだろうか。いくつもの疑問符が脳内を埋め尽くしたが、ラクツは思考するより先に唇を開いた。そして瞳を揺らめかせている娘に向けて、「キミが放っておけないからだ」と告げた。