育む者 : 031
意地悪だけど優しい人
「……どうだ、ファイツくん。少しは落ち着いたか?」頃合いを見計らってくれたのだろうか、ソファーに並んで座っていたラクツがおもむろにそう問いかけて来たから、ファイツは斜め上に視線を向けた。静かで淡々としていて、だけど同時にどこか穏やかさが感じられる声でそう尋ねた彼は、相変わらず眉間に皺を寄せている。
「うん……。ラクツくんのおかげで、だいぶ落ち着いたよ。……もう大丈夫」
右手を握ってくれているラクツの顔をまっすぐに見つめながら、ファイツは「本当に大丈夫だからね」と重ねて言った。彼を丸め込みたくて言い放ったのではない。ファイツ自身、もう大丈夫だと思ったからこそそう言ったのだ。”彼が傍にいてくれる”。”彼の手の温かさを確かに感じる”。そう思うだけで、あんなにも塞ぎ込んでいた気分が明るくなったのだから実に不思議だ。どこか他人事のようにそう思いながら、ファイツは彼の顔をなおもまっすぐに見つめ続けた。
「…………」
ラクツの顔を見つめてからどれくらいの時間が経ったことだろう。押し黙っている彼の眉間に刻まれた皺の本数がいつの間にか増えていることに気付いて、内心でそっと息を吐く。きっと、いや絶対に彼は自分の言葉を信じていないであろうことを悟ったのだ。本心からの言葉を信じてもらえないことは悲しい。だけど同時に、疑われても仕方ないとも思う。この子は今にも暴れるかもしれない。もしかしたら実に不名誉なことを思われているかもしれない……。
(うう……。だって、あんなに取り乱しちゃったんだもん……。そう思われても仕方ないよね……)
さっきまでの自分が完全に錯乱していたことは事実だが、それでも何をしたのかはぼんやりと憶えている。遠くで物音が聞こえる、そう思った時にはぱっちりと目が覚めていた。自分ではない人影を泥棒だと思い込んだ。悲鳴を上げて、やだやだと何度も言って、彼の手を何度も振り解いたはずだ。あまりにも醜い姿を見せてしまった。あまりにも酷い接し方をしてしまった。恥ずかしさと申し訳なさで、ファイツはさっきとは違う意味で泣きたくなった。
「ほ、本当に大丈夫だからね!あ、暴れたりしないから……っ!」
「そうか。ならいい」
告げた途端にそう言い放った彼の反応で、ファイツはがっくりと肩を落とした。情けないことに、やっぱり暴れるのではないかと思われていたらしい。しばらくの間項垂れていたファイツだったが、はっと我に返った。彼に謝っていないことを思い出したのだ。
「あの……。あのね、ラクツくん……っ」
正直、怖くて仕方がなかった。彼にまで拒絶されるかもしれない、そう思うと怖くて堪らなかった。だけど謝りもせずにいるだなんて、いくら何でも失礼だ。左手をぎゅうっと握り締めたファイツは、意を決して顔を上げた。またしても斜め上にある彼の横顔を見つめながら、おずおずと話を切り出した。
「……ん?」
「本当にごめんね、ラクツくん……。せっかく来てくれたのに、ラクツくんを泥棒扱いしちゃうなんて……」
「最低だよね」と言って、ファイツは自嘲する笑みを浮かべた。この瞬間でさえも手を握ってくれている彼を事もあろうに泥棒だと思い込んでしまうなんて、自分は何て酷い女なのだろう。最低にも程があると本当にそう思う、心の底からそう思う。罪悪感で、ファイツの胸はずきずきと痛んだ。
「まあ、状況が状況だからな。ファイツくんが誤解するのも無理はない」
自分は最低な女なのだから、罵られたとしても仕方ない。そう思っていたのに、彼は責めも罵りもしなかった。それどころか気遣わしげにこちらを見る始末だった。だけど今のファイツには、彼のその気遣いが却って辛かった。罵詈雑言を浴びせられた方がいいとさえ思った。
「で、でも……っ」
「……それより、ボクの方こそすまなかったな」
「ふえ……っ?…………な、何でラクツくんが謝るの?」
「決まっているだろう、キミの家に無断で入った。……いや、本当はチャイムを鳴らす気でいたんだが……。言い訳になるが、マフォクシーくんの超能力でチャイムを鳴らす間もなくリビングへと移動したんだ。ファイツくんが望めば、ボクを住居不法侵入罪で訴えても構わないぞ」
「…………」
ファイツはぽかんと口を半開きにした。彼の言葉の意味が分からなかったのだ。重苦しい雰囲気を和ませる為に、冗談を言っているのかと一瞬思ったくらいだ。だけどラクツが実に真面目な顔をしていたことで、ファイツは自分の考えが間違っていることをすぐに悟った。どうやら彼は心の底からそう思っているらしい。
「そ、そんな酷いこと出来ないよ!ラクツくんを訴えるなんて……っ!あ、あたしは全然気にしてないもん!だってラクツくんは泥棒じゃないでしょう、違う!?」
彼を泥棒だと思い込んでいたことは完全に棚に上げて、ファイツは必死に訴えた。ラクツが泥棒だなんてとんでもないことだった。むしろ彼は、泥棒を捕らえる立場の人間なのだ。その彼が、落ち着き払った表情で頷いた。
「ああ。断じて違うぞ」
「で、でしょう!だから、ラクツくんが気にすることないよ……っ!あたしがいいって言ってるんだもん!」
「そうか。では、キミももう気にするな」
「……それって、お互い様ってこと?」
「そうだ」
「……そっか。……うん、そうだね……」
ファイツはゆっくりと頷いて、ラクツの言葉を頭に刻み付けるかのように心の中で何度も何度も呟いた。心が温かくなる感覚を抱きながら、懲りもせずに彼の顔を見上げる。諭してくれた彼の物言いがとてつもなく大人っぽいと思ったのだ。自分が子供っぽいことを差し引いても、彼が大人びていることに変わりはない。
「何か、ラクツくんって本当に……。……あ!」
「……どうした?何か気にかかることでもあるのか?」
「う、うん……。……今更だけど、ラクツくんって呼んでもいいのかなあって……。えっと、ほら!その名前は捨てたって、前に言ってたでしょう?」
”ボクはもう、ラクツという名を捨てた身だ”。記憶が正しければ、彼はまさにそう言っていたはずだ。本当に今更だけれど、彼をそう呼んでいいのだろうか。小首を傾げつつもやっぱり彼を見つめていたら、その大人びた彼が息を吐き出した。深い深い溜息だった。
「……まったく。何を言うのかと思えばそんなことか。別に今まで通りの呼び方で構わないぞ」
「そっか……。じゃあ、これからもラクツくんって呼ぶね!」
「ああ」
本人に正式な許可をもらったことで、ファイツはホッと胸を撫で下ろした。自分から言い出しておいて何だけれど、別の名前で呼んで欲しいと告げられたらどうしようと思っていたのだ。この真面目な警視さん=”ラクツくん”、自分の中ではこの方程式が完璧に成り立っていたのだ。
「……しかし、キミも妙なことを気にかけるものだな」
「だ、だって……っ!」
「呼び方など何でもいいだろうとボクは思うが」
呆れたように盛大な溜息をついた彼は、しかし口元に笑みを浮かべた。どこか穏やかな笑みだとファイツは思った。それは確かに、苦笑いとはちょっと違う感じの笑い方だった。
「どうしたの?」
「……いや。以前、似たようなことを歳上の部下に言われてな。そのことを思い出していただけだ。なるほど、今なら彼の心情も理解出来る」
「歳上の……。そっか、ラクツくんは警視さんなんだもんね……。ね、その人ってどんな感じの人なの?」
「端的に言い表すなら、かなりそそっかしい男だな。……そうだな、そういう意味ではキミとよく似ているとも言えるだろうか」
「……ひ、酷いよラクツくん!!」
好奇心で尋ねたら、返って来たのはそんな言葉で。だから、心外だとばかりにファイツは涙目になった。”ラクツくんは相変わらず意地悪だ”、何を言われたのかを理解した瞬間にそう思ったことは否めない。だけどファイツは、その言葉を口にしようとはもう思わなかった。彼は確かに意地悪だ、そして同時に優しい人でもあるのだ。その事実をファイツは素直に受け入れた。意地悪なだけの人間がずっと手を握ってくれるはずがない。そんな彼を意地悪だなんて、どの口が言えるのか。
「ボクのことより、ファイツくん。キミ自身のことを心配したらどうだ。その様子では碌に寝ていないんだろう?」
「う、うん……。えっと、物音に変に敏感になっちゃって……」
彼を泥棒だと勘違いしたことは記憶に新しい。出来れば言いたくなかったのだけれど、そうも言っていられないことは理解している。ファイツはおずおずと頷いた。
「……やはりな。飲食物も摂れていない、そうだな?」
「……うん。どうしても睡眠薬が入ってるような気がして、ほんのちょっとしか食べられなくなっちゃって……。どっちもあたしの被害妄想でしかないんだって、頭では分かってるんだけど……」
ファイツは涙を零しそうになった自分に「泣いちゃダメ」と何度も言い聞かせた。こんな事態を招いたのは自分の所為なのだ。彼の前で散々泣いておいて今更なのだが、これ以上泣くわけにはいかない。
「……睡眠薬?」
「あ、うん。次の日に家に来た警部さんがあたしに教えてくれたの。あのジュースには睡眠薬が入ってたんでしょう?それで、この家に泥棒に入るつもりだったって……」
「…………」
叶うなら、あの日のことは全て忘れてしまいたかった。だけどそう簡単にはいかなくて、ファイツはそっと息を吐いた。何せ事ある毎に勝手に蘇って来るのだから、忘れようにも忘れられるはずがない。
(本当、どうしたらいいんだろう……)
忘れたい記憶が忘れられないのも苦痛だった。それに加えて、実際に被害を受けたわけでもないのにいつまでもうじうじと気に病んでいる自分のことも、嫌で嫌で堪らなかった。”彼だって、呆れ果てているに違いない”。だけどその予想はすぐに裏切られることとなった。相変わらず眉間に皺を寄せている彼は何かを考え込んでいる様子で、とても呆れているようには見えなかったのだ。
「…………」
「ラクツくん……?」
「ああ、いや。何でもない。……しかし、そうなると事態は深刻だな。空腹感自体はあるのか?」
「うん……」
「そうか。……では、キッチンを使わせてもらおう。キミも一緒に来て欲しい」
「それはもちろんいいけど……。あたしは何をすればいいの?」
今の自分が手伝いに行ったところで、何の役にも立たないのではないか。むしろ、迷惑をかけるだけなのではないか。ファイツは卑屈な思いで言葉を発した。何だか涙が出そうだった。
「特に何もしなくていい。椅子に座って、ボクが調理する流れを見ているだけでいい」
そう言うと、ラクツはすっと立ち上がった。右手に残る彼の温もりが感じられなくなったことがちょっと淋しい。彼の手が放された瞬間に反射的にそう思いながら、ファイツは彼のまっすぐに伸びた背中を見つめた。ラクツはきっと自分を安心させる為に、目の前でご飯を作ってくれるつもりなのだろう。ちょっと意地悪だけど優しい彼の気遣いをはっきりと感じたことでとうとう耐え切れなくなったファイツは、瞳から涙を零しながら「ありがとう」と言った。