育む者 : 030
ボクはここにいる
”もしかしたら、この娘は死んでいるのではないだろうか”。フローリングの床に力なく横たわっている彼女を視界に捉えた瞬間に、その考えが脳裏を過ぎったことは確かだ。とにもかくにもあの娘に会いたい。あの娘がどうしているのかをこの目で確かめたい。そう思ったからこそここまで来たラクツは、しかしその願いが成就した瞬間に言いしれぬ何かに襲われた。何があったのかは分からない、けれど床に倒れているファイツを見て嫌だと思った。どうしてか上手く働かない頭で、もっと早くここに来れば良かったとも思った。”テレポート”を使える国際警察所属のポケモンに頼るのを忘れていたことに気付いたのは、本部を発ってからしばらく経った後だった。そのミスを帳消しにするかの如く、走れるところは常に走った。まさに全速力だった。しかし、その結果がこれでは何の意味もない。”一刻も早くファイツくんに会いたい”、その一心で幾度となく息を切らして走った。警察官としての信念を捻じ曲げてまで自分の意志を貫き通したというのに、最早全てが手遅れだったのだろうか。最悪の考えに脳内を支配された結果、否が応でも心臓はどくどくと高鳴った。身体がひとりでに震えた。肌という肌が粟立った。気付けば大いに口渇感を覚えていた。目の前が真っ暗になる感覚を抱きながら、それでもラクツは唇を開いた。間違っていて欲しいと心の底から願いながら、震え声で「ファイツくん」と呼んだ。その直後に死の疑念を彼女自身で否定したファイツは今、ソファーの上ですうすうと寝息を立てている……。
(……酷くやつれたものだな)
深く寝入っている娘を見下ろして、ラクツもまた深く息を吐いた。間違いなく生きてはいるものの、彼女の健康状態はどう解釈しても悪いとしか言えなかった。ただでさえ隈と血色不良が目立つ顔は、それ以上に頬のへこみが目に付いた。少なくとも栄養失調と睡眠不足であることは確実だ。唇のかさつきと手入れが行き届いていて艶があったはずの髪の毛から潤いが失われていることからして、程度はどうあれ脱水症に陥っていることも否めない。それに、体重が著しく減少していることも気にかかった。床に倒れていた彼女を横抱きにした際、その軽さに驚愕したことは記憶に新しい。1人の人間を抱えているとは思えない程軽かったのだ。ちょっとダイエットにのめり込みました、では済まない程の減少振りだ。
この娘の家を後にしてから2週間と経っていないが、その短期間でファイツは別人かと見間違う程の顕著な変貌を遂げていた。自分がいない間にいったい何があったのだろうか。そう思いながら、ラクツはリビングを見回してみた。窓という窓がカーテンで覆われているおかげで、当たり前だがリビングはそれはそれは暗かった。辛うじて隙間からある程度の光が差し込んでいるとはいえ、現在の時間帯を夜だと錯覚しかけた程だ。彼女の変貌振りももちろんそうだが、何故リビング中のカーテンを閉め切っているのかが分からないラクツは、とりあえず日光を入れるべくファイツの傍を離れた。夜目が効くからこのままでも問題ないことは確かなのだが、無駄な労力を使わないに越したことはない。それに少しばかり物音を立てたところで、気絶したかのように眠りに落ちているあの娘が目を覚ますとは到底思えなかったのだ。
「…………」
こうして家主に無断でカーテンを開け始めたラクツだったが、すぐに眉間に皺を寄せる羽目になった。何せ、カーテンを開ける度に埃と塵が舞うのだ。別に潔癖症ではないが、それでも気分のいいものでは決してない。ラクツはまたしてもリビングを見回してみた。思った通り、窓際だけでなくテレビや床にも埃が積もっているではないか。それどころかどこもかしこも埃だらけだ。何にせよこうも埃だらけという環境は自分にも、そして何よりあの娘の健康上良くない。窓を開けて勝手に換気をし出したラクツは首を傾げた。窓に設置されている鍵にも埃が積もっていたのだ。それはつまり、彼女が掃除と換気をしていない証拠に他ならないわけで。
(……妙だな。あの娘は掃除嫌いではないと踏んでいたんだが)
そう、ファイツは掃除嫌いではなかったはずだ。鼻歌を歌いながら掃除をしていた節もあるくらいで、むしろ掃除好きなのだという印象を抱いていた程だ。自分のその見立てが間違っていたのだろうか。それとも掃除をしたくても出来なかったのだろうか。例えば急な体調不良に襲われた結果として、この2週間をずっと寝込んでいたのかもしれない。それならばこの現状も納得だと、ラクツは1人頷いた。
「いやああああああっ!」
「……!?」
体調不良だったというなら尚更病院に連れて行くべきだろうかと思案した瞬間だった。突如として絹を裂くような悲鳴が聞こえたことで、ラクツの意識は一瞬で現実へと引き戻された。まさかと思いながら振り返ると、そこにはソファーに身を預けた状態でこちらを凝視している娘がいた。言うまでもなくそれは、深く眠っていたはずのファイツだった。彼女は呆然としたように大きな目を見開いて、こちらをじっと見つめている……。
「ファイツくん!」
絶対に起きるはずがないと思っていたのに、早くも目を覚ましたというのか。驚きつつも、ラクツは予想を裏切った彼女の元に駆け寄った。床に片膝を付いて、血の気が引いたような顔色が印象的なファイツと至近距離で目線を合わせる。しかし、奇妙なことに彼女の青い瞳の焦点はものの見事に自分から外れていた。自分を通して別の誰かを見ているような気がする。そんな印象を受けたが、それは決して思い違いでも勘違いでもないだろう。
「…………」
起き抜けで頭が働いていない所為で自分の存在を認識出来ないのだろうか。そう思考して、すぐに違うと思い直す。上手く言葉に出来ないが、もっと別の理由であるような気がしてならなかったのだ。それに何より、彼女はどうして悲鳴を上げたのだろうか。そう思った瞬間に、ファイツの乾き切った唇が小刻みに震えた。
「……ど、ど、泥棒……っ!!」
「い……。いや、ボクは……っ」
言葉に詰まったのは、自分がこの娘の家に無断で入ったことは事実でしかないと思ったからだ。泥棒目的では決してないにせよ、確かにラクツはチャイムを鳴らさずにリビングへと足を踏み入れていた。それも、玄関を介することなく。それ自体は十中八九マフォクシーの”テレポート”であろうことは予想がついたし、何よりもファイツの変貌に気を取られていてそれどころではなかった。平たく言えば指摘されるまですっかり忘れていたが、振り返ってみれば自分の行為は違法行為の何物でもない。彼女が望めば住居不法侵入罪で訴えることも可能なのだ。
「いや、来ないで!」
「ファイツくん、落ち着け!」
「いや、いやあ……っ!」
自分の声が届いているかどうかも怪しいファイツは、幼子のように首を横に振るばかりだった。手を伸ばせばその度に振り払われる始末だ。どう見ても完全に錯乱している。不思議なことにダケちゃんやマフォクシーを始めとしたポケモンは姿を見せなかったが、仮に彼らをこの場に呼びつけたとしても分からないのではないかと思わざるを得ない程の錯乱振りだ。
「…………」
こんな時だというのに、ラクツの脳裏には数年前の出来事が蘇った。まだこの娘がこちらの正体を知らなかった頃の記憶だ。程度は比べ物にならないが、あからさまに拒絶する態度があの頃の彼女と重なったからだろうか。そのファイツが最終的に自分を訴えるというならそれでもいい。しかし、まずは彼女を正気に戻すことが最優先事項だ。これではまともに会話すら出来ないではないか。
「ファイツくん、ボクが分かるか?……ラクツだ」
仮初の名を口にした瞬間、振り払うばかりだったこの娘の手の動きが止まった。少なくとも、これで一歩前進したとラクツは思った。
「ボクはキミに…………。キミに会う為にここに来た。どうか、落ち着いて欲しい」
「…………」
頬がこけてしまったファイツの顔をまっすぐに見つめて、その細い両肩に手を添えて、気持ちを絞り出すようにして言葉を紡ぐ。”ファイツくんに会いたかった”とは言えなかった。その一心だけでここに来たというのに、長官にもそうはっきりと告げたのに、いざ本人を前にするとどうしてもその言葉が出て来なかったのだ。代わりに出た音は本音からは少々ずれていたが、それとて嘘ではないのだから問題はないだろう。自分にそう言い聞かせたラクツは、ファイツの唇が動くのをただ待った。無理やり意識を向けさせるより、彼女の方から気付いてもらう方が絶対にいいような気がしたのだ。
「……あ、れ……?」
まっすぐに見つめてからどれくらいの時間が経ったことだろう。何の前触れもなく、頑なに合わなかったこの娘の目の焦点が合った。この娘は確かに自分の存在を認識したに違いない。ラクツはそう確信した。
「ラクツ、くん……?」
「……ああ。ボクだ」
その予想は今度こそ違えることはなかった。名前を呼んでくれた娘に向けて、深く息を吐いてから頷く。言うまでもなくそれは、呆れではなく安堵の溜息だった。まずは落ち着いてくれて本当に良かった。それと、今更だがこの娘が生きていたことも。
「……本、当に……。ラクツくん、なの……?……幻じゃ、ないの?」
しかし対するファイツは、未だに身体を震わせていた。瞳を揺らめかせてじっとこちらを見つめて来たから、ラクツは細い両肩に添えていた手を放した。ファイツの小さなそれを自分の手でそっと包み込む。その手は確かに温かかった。彼女がこの世にいる証だ。
「幻なものか。……ほら、ボクはちゃんとここにいるだろう?」
「……うん」
体調を崩していることは誰の目にも明らかだったが、それでも彼女は生きていてくれた。そう思いながら重ねて「ボクはここにいる」と告げると、ファイツはこくんと頷いた。大きな青い瞳から大粒の涙をぽろぽろと零しながら、何度も何度も頷いた。