育む者 : 029
春の幻
「…………」リビングに置いてあるソファーの上で、ファイツはぼんやりと仰向けになっていた。こうして何もない真っ白な天井をただただ見つめてから、いったいどれくらいの時間が経ったことだろう。お腹も空いた、喉も渇いた。何でもいいから口に入れたい。それに、ものすごく眠い……。人間としての本能が何度も何度も自分にそう語りかけて来るのだけれど、それでもファイツは動かなかった。意地を張っているわけではなくて、単に動く気にならなかっただけだ。何をするにも億劫で億劫で仕方がなかった。それに、食べたところで身体が受け付けてくれないことはもう分かり切っている。食べても食べなくても結局は同じなのだ。それならば、泥棒の襲来に備えた方がずっといいではないか。もちろんぐっすりと寝たい気持ちには全力で抵抗した。最早何度目になるか分からない眠気の襲来に、ファイツは頬をつねることで抗った。
(今日って、何日なんだろう……)
頬がじんじんと痛む感覚をどこか遠くで感じながら、ファイツはそんなことを思った。4月だということは分かるが、今日が何日ということまでは分からない。おまけに曜日も分からなかった。一度心に浮かんだ所為なのだろうか、今日の日付が気になって気になって仕方なくて、ファイツは首をわずかに右へ傾けた。視線の先にあるのは埃が目立つテレビとそのリモコンだ。
「…………」
今日の日付と曜日が気になることは確かなのだけれど、ファイツは息を吐くと目線を真上に戻した。わずか3mも歩けばテレビのリモコンに手が届くのだけれど、そのわずかな距離でさえ今の自分にはあまりにも遠い道のりだったのだ。
(あたしもマフォクシーさんみたいに超能力が使えたら良かったのに……)
何の特殊能力も持たない一般市民でしかないファイツは、やっぱり何もない天井を見つめながら心の中でそう呟いた。超能力が使えるマフォクシーを呼ぼうとは欠片も思わなかった。”人間に捨てられたあの子の力になってあげたい”。そう思ったからこそ一緒にいるのであって、断じて使いっ走りをさせる為に引き取ったわけではない。もちろんそれはマフォクシーに限ったことではなかった。ポケモンは人間にとって都合のいい便利屋さんではないのだ。
(でも……)
だけど、とファイツは思った。”ポケモンさん達の力になりたい”という気持ちは今だって薄れることはないのだけれど、ここ最近は力になるどころか迷惑をかけているだけのような気がする。いや、決して気の所為ではない。事実として迷惑をかけているからこそ、大勢のポケモン達が自分を見限って出て行ってしまったのだから。
もちろん、いなくなってしまったポケモン達を責める気は更々なかった。その資格があるとも思っていなかった。責められるべきなのは、他でもない自分だ。ポケモン達を引き取っておきながら、まともにお世話が出来ない自分だ。そう、全ては自分が悪いのだ。こうなったのも自業自得でしかない。相対的に広くなったリビングを虚ろな目で見つめながら、ファイツは1人後悔と自己嫌悪の念に沈んでいた。
「…………?」
だらりと力なく伸ばした右手に何かが当たる感触を覚えて、目線だけを右に向ける。白い羽に水色の丸っこい形をした愛らしいポケモンが、白いくちばしでつんつんと右手を何度もつついていた。わたどりポケモンのチルットだ。
(チルットさんだ……)
ダケちゃんに負けず劣らずのつぶらな瞳をしたこのチルットは、そのおくびょうな性格が災いしたのか、かわいそうなことに親からも群れからも見放されてしまったらしい。そんなチルットをファイツは呆然と見つめた。近寄っても基本的には逃げてしまうこの子が自分から寄って来てくれるだなんて、初めてのことではないだろうか?
散々迷惑をかけているのにも関わらず、こんな自分をまだ見限らないでいてくれた。おくびょうな子なのに、散々悲鳴を上げた自分の傍に来てくれた。実際に涙こそ出なかったけれど、その事実は涙が出る程嬉しかった。ファイツはかさかさに乾いていた唇を開けた。どうしてもお礼が言いたかったのだ。
「チ、ル……」
”チルットさん、ありがとう”。弱々しいながらもちゃんと続けるはずだった言葉は、だけど最後まで発せられることはなかった。この子の頭を撫でようとした瞬間に、あからさまに避けられたことが分かったからだ。今現在空中にいるチルットはつぶらな瞳を三角の形にして、おまけにくちばしまで鳴らしている。どう解釈しても威嚇されている以外の何ものでもない……。
(そう、だよね……。こんなあたしの傍にいてくれるポケモンさんなんて、いるわけないよね……)
そう思った瞬間にまたあの”泥棒”の顔が浮かんで来たから、ファイツは堪らずに引き攣った悲鳴を上げた。後悔した時にはもう遅かった。チルットはわたのような羽をばさばさと動かして、2階へと逃げてしまったのだ。
「…………」
再び1人になったファイツは、ぐっと奥歯を噛んだ。元々おくびょうなあの子を更に怖がらせてしまった。だけど、あの子を責められるはずもなかった。あるのは自分への情けなさと怒りだ。またしても、自分の所為でポケモンに不快感を抱かせてしまった。
(どうして……。どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)
もう数え切れない程に問いかけた疑問を、心の中で口にする。だけど何度繰り返しても、その答が変わることはなかった。”全ては自分が悪い”。今回も結局その一言で終わらせたファイツは、虚ろな目で静かなリビングのとある一点を見つめた。ぶ厚い埃もそうだけれど、床に落ちていた桃色の花びらに目が吸い寄せられたのだ。多分、空を散歩するのが日課であるチルットの羽にくっついていた花びらが落ちたのだろう。
(桜の、花びら……)
ファイツは桜が好きだった。好きを飛び越えて大好きだと言っても過言ではない。だからなのだろうか、気付けばファイツはその花びらに向けて目いっぱい手を伸ばしていた。
(あ……っ)
”落ちる”、そう思った時には手遅れだった。ものの見事にソファーから落ちたファイツは、だけどそのままのポーズで冷たいフローリングの床に横たわっていた。戻らなくちゃと頭では思うのに、定位置であるはずのソファーの上に戻る気力がどうしても湧かなかったのだ。
「…………」
身体には衝撃を受けたが、手を伸ばした甲斐はあった。手の中にある桜の花びらを焦点の合わない瞳で見つめながら、ファイツは遠い出来事を思い返していた。いつかの日に出かけたピクニックで、ダケちゃんに桜の花びらで作った花冠をプレゼントしたこと。マフォクシーにも贈ってみたら、そっぽを向いて拒否されたこと。塩漬けの状態で売られていた桜の花びらを使ってお菓子を作ってみたら、あまりの美味しさに感動したこと。そして、大通りを彩る桜並木をここにはいない彼と一緒に見たこと……。桜にまつわる色鮮やかな思い出は、どれも楽しいものばかりだ。
(…………何考えてるの、ファイツ。ラクツくんは……。ううん、”警視さん”はここには来ないって分かってるでしょう?)
心の中で、ファイツは警察官である彼に懲りずに助けを求めた自分を激しく非難した。本当は声に出したかったのだけれど、何故だか声が出なかった。その代わりに重い腕で自分の頭を何度も叩いた。彼がここに来るはずがない。こんな自分を助けに来てくれるはずがない。ここで過ごした日々など最初から存在しなかったかのように、颯爽と行ってしまった。
「…………」
彼は、ラクツという名前を捨てたと言っていた。その彼を”ラクツくん”と呼び続けていたのは自分のわがままでしかないのだ。もう二度と”ラクツくん”とは呼べないのだろうか。もう二度と彼と会うことはないのだろうか。そう思うと、ものすごく淋しかった。
「…………?」
言いようのない淋しさに襲われていたファイツは、ふと目を瞬いた。聞こえるはずのない声が、だけど同時に聞き覚えのある声がしたのだ。まさかとは思いつつも、ファイツは首に力を込めた。そして、目線をゆっくりと上げてみる。
「…………!」
視線の先にいたのは背の高い男の人だった。だけど、自分の心を蝕んだあの人ではなかった。彼は桜の花びらを髪にも服にも付けたまま、息を乱して立っていた。心なしか呆然としているように見える彼は、ファイツが来ないと何度も言い聞かせたラクツその人だ……。
(ラクツ、くんだ……)
もう二度と呼べないのかもしれない。そう思ったばかりの名前を唇だけで呼ぶと、立ち尽くしていた彼の足が動いた。その途端に桜の花びらがはらりと数枚舞い落ちた。桃色のそれが落ちる様を、そして彼が1歩1歩近付く様をぼんやりと眺めながら、ファイツは上手く働かない頭をうんうんと悩ませていた。だってだって、彼は警察官なのだ。忘れ物だって多分していないはずだ。知る限りでは何の物音もしなかった。それなのに、どうして彼がここにいるのだろう?
(ああ、そっか……。これは、幻なんだ……)
彼が自分を助けてくれる。暗い日々から明るい日の下へと自分を導いてくれる。そんな考えは全て自分の幻想だ。だから、そう。今この瞬間に見えている光景も、きっと自分の願望が見せた都合のいい幻なのだろう。言わば春の幻だ。自分の名前を何度も呼ぶ彼の声をどこか遠くで聞きながら、ファイツは口元に笑みを浮かべた。もちろんこれが幻だということは分かっている。だけど彼に会えたことが、そして彼の声が聞けたことが無性に嬉しかったのだ。どうしてか視界が急速に暗くなっていくことを内心で不思議に思いつつも、ファイツは意識を失う瞬間まで彼のことを見つめ続けていた。