育む者 : 028

春の訪れ
「……長官。彼は行きましたか?」

国際警察本部の一室で、ハンサムは椅子に座っている長官にそう問いかけた。歳下の上司が退室したことをちゃんと確認した後で入室したから、彼には柱の陰にいた自分の存在を気付かれていないと思いたい。それでも”もしかしたら”と思ってしまうのが彼の怖いところ、いやすごいところなのだが。

「行ったとも。見てみるかね?」

長官に促されて窓下に近寄ったハンサムは思わず「おお!」と歓声を上げた。遠目にしか見えなかったが、確かに誰かが駆けて行くのが見えたのだ。あの後ろ姿は間違いなく彼だ。

「……実を言うとね、ハンサム。キミの報告はまるで信じていなかったのだよ。そそっかしいキミのことだから、また見間違いか勘違いでもしたのだろう……とね」

こちらに向き直った長官の口から放たれたその言葉には苦笑するしかなかった。そそっかしいと言われたが、色々と心当たりがある。いやあり過ぎる。

「それに、どうもキミは黒の2号に肩入れしているようだからね。黒の2号に変化の兆しが見られたとキミは言ったが、彼を庇って虚偽の報告をした可能性も視野に入れていた」
「はっ……。きょ、虚偽ですと!?そのようなことは決して……!」
「ああ、分かっているよ。だからこそ彼を行かせたのだからね。……それにしても、あの黒の2号が任務より私情を優先するとは……。実に驚くべきことだと思わないかね、ハンサム」
「ええ、まあ……。ですが、彼に必要なのは我々ではなくあの少女なのだと私は思っています」
「例の元・プラズマ団の少女か……。うむ、一理あるな。というより、核心を突いていると言い換えるべきか」

そう言うと、長官は腕組みをして息を吐いた。眉根を寄せて考え事をしているその姿が、歳下の上司にそっくりだとハンサムは思った。いや、むしろ彼が長官に似たのかもしれないが。

「どうやら黒の2号は、件の少女に想いを寄せているようだ」
「お……。想いを寄せている、ですと!?」
「ああ。懸想、恋慕、恋情……。言い方は多々あるが、とにかくそういう類の情を向けているのだよ。あの黒の2号にとって、まさに一番必要なものではないかね?」
「…………」

ハンサムは長官の言葉に答えるどころではなかった。あんぐりと大口を開けたままのポーズで、石のように固まるだけだった。そんなハンサムの視界に、桜の枝がちらりと映った。桜は春の象徴だ。

「ちょ、長官……。お言葉ですが、その認識は少しばかり飛躍しているのでは……?」

やっとのことで硬直から回復したハンサムはしどろもどろに言葉を紡いだ。彼があの子に心を開いていることは察していたが、恋心を抱いているとまでは流石に思っていなかった。恋というよりかは友情に近しいものだと捉えていたのだ。……いや、将来的にはそれに発展するかもしれないけれど。

「あの場に居合わせていなかったキミが異を唱えるのは分かるが、私は的外れではないと確信している。黒の2号が”テレポート”を使えるポケモンに頼らなかったことがその証拠だと思うがね。合理的な彼には珍しいミスだが、つまりは一刻も早く少女の元に向かいたかった証だとも言えるだろう?」
「そ、そういえば……!」

ハンサムはまたしてもポカンと大口を開けた。”テレポート”というわざは、その名の通り対象を瞬間移動させることが出来るのだ。行先は使用するポケモンが知っている場所に限定される上にあまりにも長距離の瞬間移動は不可能だとはいえ、それでも走るよりは瞬間移動した方がずっと早い。ヒオウギシティのポケモンセンターにテレポートするのは無理だとしても、それこそここから一番近いポケモンセンターにワープするだけでも大幅な時間短縮になるわけで。そう、急いでいるなら尚更使わないはずがないのだ。”その考えが頭に思い浮かばない程彼はあの子を想っている”。つまりはそういうことなのかもしれない。

「”彼女の元に行かせて欲しい”。私にそう願い出た際の黒の2号の顔を、キミにも見せたかったよ。まさにあの姿は、想い人に懸想する普通の青年そのものだった。……もっとも、声は聞かせられるがね」

そう言うと、長官は懐から小型の機械を取り出した。差し出されたその白い機械には見覚えがあったが、ハンサムは問いかけずにはいられなかった。

「ま、まさかそれは……!」
「録音機だよ。黒の2号が変わったという証拠を国際警察上層部に提示出来るように、彼との会話を録音しておいたのだ。……聞いてみるかね?」
「…………いえ」

沈黙の後で、ハンサムは首を横に振った。気にならないと言えば噓になるが、自分が聞いてはいけないような気がしたのだ。もし黒の2号があの子に惚れているというなら尚更だ。

「……ところで。正式な承認こそまだ得られていないが、私は彼に精神性を育む任務という体で長期休暇を与えようと思っている。警察官としてではなく1人の人間として、出来るだけ件の少女の傍で日々を過ごすように……とね。過去に類を見ない任務内容であることは否めないが、録音されている彼の声を聞けば私以外の上層部もどうにか納得してくれるだろう」
「…………」
「ハンサム。彼だけを特別扱いしているとキミは判断するかね?」
「……いいえ」

ハンサムは、大真面目な顔で首を横に振った。自分が歳下の上司に少しばかり肩入れしていることは認めるが、それとは無関係に特別扱いではないと思ったからこそ否定したのだ。形がどうあれ任務の形式なら反対する者もいないはずだし、何よりこれは今の彼に本当に必要なことなのだ。その長期休暇だって黒の2号が溜めに溜め込んだ有給休暇を使うのだろう。何の問題もないはずだ。

「……しかし、彼をイッシュ地方に留まらせて本当によろしいのですか?彼の検挙率は群を抜いていると聞いていますが……」
「仕方あるまい。比類なき逸材、警察官としては最高傑作だと謳われた”ミスター・パーフェクト”たっての願いなのだからね。本人は無自覚なのだろうが、恋慕している少女が住む地に留まることに異論はあるまい。じきに黒の2号の元に正式な辞令が送られるはずだ」
「そうですか……。彼も喜ぶことでしょうな」
「喜び、か。その感情が理解出来るようになるかは彼次第だろう。無論、その可能性は高いと考えているがね」
「きっと、理解出来るようになると思います。……では、彼が受けるはずだった任務はどうされるのですか?」
「黒の2号が行くはずだったカントー地方には、別の者に行ってもらう。……この際、国際警察官になってまだ日が浅い者に経験を積ませるのも良さそうだ」

付け加えられた言葉は自分にとっては少しばかり残酷だった。世界中を駆ける国際警察官は必然的にまず体力が物を言う職業であることは言うまでもないし、更にはカントー地方はここからかなり離れているのだ。つまり、その任務にあてがわれるのは若者なのだろう。間違っても自分ではないことは確かだ。若者どころかむしろ白髪が気になり始めた年齢であるハンサムは内心で溜息をついた。

「……いや、気を悪くしないでくれたまえ。若者特有のパワーに少々感化されただけのことだ。それはさておき、これがキミの辞令だ。受け取りたまえ」
「は、拝見します!」

机の上に置いてあった封書を差し出されたハンサムは辞令に目を通した。今度は監視の任務ではなく、悪を捕らえる警察官らしい任務だった。彼の監視を解くべきだと進言した自分の意見を汲んでくれたのだろうか。ハンサムは目頭が熱くなるのを感じた。

「どうだね、ハンサム。引き受けてくれるかね?」
「はっ。コードネーム・ハンサム、この任務を拝命します」

長官の問いかけに、ハンサムは敬礼をしつつ応じた。楽でも苦しくても、任務は任務だ。拝命した以上は全力で全うするつもりだ。

「願わくば黒の2号の更なる精神的成長と、芽吹いた恋情が実ることを」
「……そうですな」

桜を見ながらしみじみと呟いた長官に、ハンサムは全力で同意した。想いを胸に秘めた歳下の上司は、今頃桜が舞う中を全力で走っているのだろう。恋をするのは素晴らしいことだ。そして彼の想いがあの子に届いたとしたら、素晴らしいにも程があるではないか。そういえば、差し入れたケーキを頑として食べなかったあの子は今頃どうしているのだろうか。赴任先は偶然にもイッシュ地方だし、可能なら彼女の様子を見に行ってみようか。そんなことを思いつつ、ハンサムは2人の未来に思いを馳せた。