育む者 : 026
解放する者は戦慄する
「……っ!!」声にならない叫び声を上げたファイツは、ソファーに預けていた身体をさっと起こした。暗いリビングをきょろきょろと見回して、独りでに震え出した二の腕をぎゅうっと抱き締める。背筋がぞくりと震えた。まだお昼前なのに、寒くて仕方がなかった。気付けばまるで全力疾走したかのように、胸がどきどきどきと高鳴っている……。
(どうしよう、どうしよう……っ!)
恐れていたことがとうとう起こったのではないだろうか。そんな思いで人の出入り場所である玄関や窓に視線を走らせたが、何度見回しても誰かがリビングの中に入って来ることはなかった。思わずふうっと息を吐き出したファイツは、だけどぶんぶんと首を横に振った。人の影が確認出来ないからといって安心するわけにはいかない。だって、こうしている今にも誰かがリビングに押し入って来るかもしれないのだ。お願いします神様。どうか、どうかあたしの気の所為でありますように。そう願いながら、ファイツはおそるおそる耳を澄ませてみた。
「…………」
耳を澄ませてからどれくらいの時間が経ったことだろうか。何度確認しても、自分の耳にはひっきりなしに風が吹く音しか聞こえなかった。そういえば今日の天気は荒れ模様になるでしょうと、お天気お姉さんが言っていたような気がする……。今の自分が唯一見れるテレビ番組だ。
(よ……。良かった、本当に良かった……っ)
ああ良かった、とファイツは思った。心の底からホッとした。やっぱり今回も気の所為だったのだ。思い過ごしか考え過ぎなのかは分からないけれど、とにかく最悪の未来は避けられたことは確かだ。「本当にありがとうございます」と神様にしっかりお礼を言った後で、ファイツはソファーに崩れ落ちるようにして座った。張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたのだ。
「ひっ……!」
ようやく安心したのも束の間、ファイツは悲鳴を上げてソファーに預けたばかりの身体を勢いよく跳ね上げた。あまりにも勢いをつけた所為で空気中に塵が舞ったが、そんな小さなことは気にしてなんていられなかった。だって、今度こそ物音が聞こえたのだ。がたがたと何かを叩くあの音は、絶対に気の所為なんかじゃない。
「い……。行かなきゃ……っ。確かめなきゃ……っ!」
からからに渇いた口を動かして、途切れ途切れの言葉を発する。それでもしばらく震えていたファイツは、意を決して立ち上がった。怖くないと言えば真っ赤な嘘になる。だけど、ポケモン達を護れるのは自分しかいないではないか。胸をどきどきさせながら、音がした方向へと1歩1歩進んで行く。
「……か、風が窓を叩く音だったんだ……」
鍵を開けておそるおそる庭へと出たファイツは、掠れ声でそう呟いた。確かに音はした、がたがたという音だ。だけど何のことはない、あれはきっと強く吹き付ける風が窓を叩く音だったのだろう。風に煽られてはためいている洗濯物を見つめながら、ファイツはそう思った。庭に生えている雑草が目に見えて伸びていたものの、それ以外は目立った変化はない。プランターに植えた花が踏み荒らされた形跡もないし、足跡だってどこにもないではないか。ファイツは今度こそホッと胸を撫で下ろした。
”本当に、本当に良かった。泥棒が来たわけじゃなかったんだ”。3回はその言葉を繰り返した後で、元いたソファーに倒れ込むようにして腰を下ろす。このソファーはお気に入りを通り越して、今や自分の定位置となっていたのだ。そのソファーの上で、ファイツはクッションを抱えて座った。柔らかいクッションを抱き締めていると、ほんの少しではあるが安心出来るような気がするのだ。
(喉、渇いたな……)
喉がからからに渇いていることには気付いていたけれど、水分を取りに行こうとは思わなかった。この程度ならまだ我慢出来る。何かを口に入れるという行為は、今の自分にとってはありったけの勇気を振り絞らないと出来ないことなのだ。代わりに唾をごくんと飲み込むことで、身体が発する訴えをどうにかごまかした。
「………………」
ファイツはあの日の出来事を虚ろな目で思い返していた。忘れもしない、忘れたくても忘れられない、”この家に泥棒がやって来た日”だ。にこやかに笑っていた訪問販売員は、真面目そうに見えた訪問販売員は、しかし実際には盗みを働く目的でこの家に来たのだと聞いている。そして、あの美味しそうなジュースには何と”睡眠薬”が入っていたのだとか。次の日にやって来た警察官だと主張するおじさんに、ファイツは改めてそう説明されたのだ。その事実を知った瞬間のことは今でもよく憶えている。怖くて怖くて仕方がなかった。背筋がぞくぞくと震えたし、目の前が真っ暗になった。
ハンサムと名乗ったその警察官に「私のことを憶えているかい」とどこか遠慮がちに声をかけられたのだけれど、目の前に差し出された警察手帳とその人の顔を見比べて首を傾げたことは記憶に新しい。自分を護る意味でそう言ったわけではなくて、本当に見覚えがなかったのだ。ただ、その直後に「大変だったな」と言いながらケーキを差し入れられた時は、全力で逃げた。玄関のドアをぴしゃりと閉めて鍵までかけた後で、ごめんなさいときっぱりしっかり断ったのだ。警察手帳を見せられたからといってこの人が本当に警察官かどうかは分からないし、何より食べ物を差し入れられたという事実が恐ろしくて仕方がなかったのだ。苺が乗った傍目には美味しそうなケーキだったが、それこそ中には睡眠薬が入っているかもしれない。差し出されたケーキを食べたら最後、次に目を覚ました時には家の中が無残にも荒らされているかもしれない。そうはいっても金品など置いていないから、もしかしたら値打ちの物が見つからなかった腹いせにポケモンに危害を加えられているかもしれない。そう思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。背中がぞくぞくと粟立った。毛穴という毛穴から汗が噴き出る感覚を抱いた。結局その日は、1日を震えて過ごした。もちろん、一睡も出来なかった。
次の日から、ファイツは恐怖に支配される日々を過ごすようになった。まず、家の中に閉じこもるようになった。何をするにも誰かの視線を感じるような気がして、カーテンを開けられなくなった。それに、物音に過剰に反応するようになった。戸締まりがちゃんと出来ているかを、何度も何度も確かめるようになった。昼夜問わずぐっすり眠れなくなった。泥棒が来てもすぐにでも気付けるようにと1日の大半をソファーに座って過ごすようになったし、やっぱり泥棒が来てもすぐに気付けるように必要最低限のテレビ番組しか見なくなった。具体的にはニュースだけだ、それも天気予報のところだけを。それに何より、飲食物をほとんど受け付けなくなってしまった。何も入っていないと分かっている手料理だけは何とか食べられるのだが、それだってほんの少ししか食べられなかった。水もお茶も必要最低限しか飲めなくなった。もちろんジュースを飲むだなんてもってのほかだ。他にも何に対しても億劫になったり、今のようにただの物音を泥棒が来たと勘違いして事ある毎に悲鳴を上げたりと、それこそ挙げればきりがなかった。依然と変わらず出来ることといえば入浴と歯磨き、そしてポケモンのお世話をすることくらいだ。毎日欠かさずしていた掃除や洗濯だって、頻度が激減してしまった。
”おや”の自分がそんな有様だからなのだろう、一緒に住んでいたポケモン達の大多数はこの家から逃げ出してしまった。残っているのはダケちゃんとマフォクシー、そしてアギルダーとチルットだけだ。その4匹だって、近い将来自分を見限るかもしれない。現に、基本的には2階の部屋に身を寄せ合っていて、食事以外では自分がいるリビングに決して寄り付かないのだ。ダケちゃんでさえそうだった。もしかしたら、明日にでも皆揃ってこの家から出て行くつもりでいるのかもしれない。そうなっても仕方ないとは思う、何せ今の自分はそれはそれは酷い”おや”なのだから。ポケモントレーナー失格だ。だけど、その場面を想像するだけで怖かった。この家に1人ぼっちで取り残されるのかもしれないと思うだけで、怖くて堪らなくなった。
(誰か……。誰か、助けて……)
誰でもいいから助けて欲しいとファイツは思った。絶対に泥棒でないと分かる誰かに傍にいて欲しかった。がらっと変わってしまった暗い日常から抜け出せずにいる自分を、元の明るい日常へと導いて欲しかった。だけど、誰に助けを求めればいいのか分からなかった。
「…………」
まず思い浮かんだのは大親友のワイの顔だった。だけど、ファイツはすぐにその案を却下した。ワイは遠く離れたカロス地方にいる上、つい最近エックスとめでたく想いを通わせたと聞いている。ライブキャスターで話をすれば少しは気が紛れるかもしれないけれど、今の自分が酷い顔をしていることは分かっている。優しい彼女のことだ。それこそこんな自分を心配して、何ならこの家まで乗り込んで来るかもしれない。もしもそうなってくれたらどれ程心強いことだろう。だけど、幸せ絶頂にいる親友をこんなことに巻き込めないよとファイツは呟いた。ワイだけでなくエックスにも申し訳ない……。
次に浮かんだのは先輩であるホワイトの顔だった。ホワイトさんならとファイツは思って、すぐにやっぱりダメだと思い直した。彼女が頼りないわけでは決してない、むしろしっかり者で素敵な先輩以外の何者でもない。だけどそのホワイトは、ばりばりのキャリアウーマンでもあるのだ。最近は特に仕事が忙しいのよと随分前に零していたし、何なら職場に泊まり込むこともあると苦笑いしていた。それに何よりホワイトは女の人なのだ。万が一男の泥棒に押し入られでもしたら、自分含めてひとたまりもないだろう。同じ理由でユキ・マユ・ユウコの3人娘もダメだ。
女の人がダメなら男の人に助けを求めるしかない。そう思ったファイツの頭にはNの顔が浮かんだ。プラズマ団の元・王様である彼は、自分にとっては憧れの人なのだ。人々からポケモンを”解放”した自分の罪を償う為に、彼と2人旅をしていた時期もある。”優しいN様ならきっとあたしを助けてくれる”。そう考えたファイツの心に自然と宿った希望の灯りは、だけど次の瞬間にふっと掻き消えた。今の彼は、傷付いたポケモンを救うために各地を旅しているのだ。もしかしたら彼は、この惑星の反対側にいるのかもしれない。肝心の居場所が分からないのでは助けを求めようがない……。
(……そうだ、ヒュウくんやペタシくんならあたしを助けてくれるかも……!)
イッシュ地方に住んでいると間違いなく分かっている、頼れる2人の男友達の顔を思い浮かべた瞬間、ファイツの背筋はぞくりと震えた。自分でもよく分からないのだけれど、ヒュウやペタシが自分の傍にいる場面を想像するだけで、どういうわけか怖くて堪らなくなってしまったのだ。彼らがこのソファーに並んで座っている場面を想像したら、何故だか吐き気が込み上げて来る始末だった。自己嫌悪に打ちのめされたファイツは、口元を押さえながらごめんなさいと繰り返し呟いた。誰でもいいから助けて欲しいなんて思っておきながら、実際には激しく選り好みをしている。それに何よりヒュウとペタシにも申し訳なくてならなかった。あの2人は揃いも揃って優しい性格をしているのに、こんなことを思う自分が嫌で仕方なかった。”訪問販売員改め泥棒”が、割と若い男の人だった所為なのだろうか?
(じゃあ、あの人なら……)
何とか吐き気に打ち勝ったファイツは、ぜえはあと荒い息を吐きながらとある男の人を思い浮かべた。何もかもが変わった日の翌日に来た、箱に入ったケーキを手にした男の人だ。ところどころに無精髭が生えた自称警察官のおじさんは、確か警部だと言っていたように思う。その瞬間、ファイツはそうだと思った。「困ったことがあったら言いなさい」と、閉ざしたドア越しに言ってくれたことを思い出したのだ。連絡先が書かれたメモだってポストに投函してくれた。だけどファイツはソファーから浮かしかけた腰をぼすんと下ろした。あの人が本物の警部なのかどうかが判断がつかなかったのだ。それに何より、自分はあの人を半ば無理やり追い返した身だ。あんな酷い態度を取っておいて、あの人を散々疑っておいて。怖くて仕方ないからやっぱりあたしを護ってくださいなんて、そんな虫のいいことを言えるはずがない。
「…………」
あの人ならダメでも、別の警察官なら助けてくれるのではないか。あの事件が起こった時に駆けつけてくれた人の顔は朧げながら思い出せる。その人に繋いでもらって、泥棒の被害に遭いかけた被害者なのだと申し出れば、一晩だけでも傍にいてくれるのではないか。一瞬そう思ったファイツは、だけどソファーに腰を落ち着けたまま目を伏せた。実際には何一つとして盗られていない以上、そんなわがままが通るはずもないことに気付いたのだ。警察官はあくまで地域の平和を守る人達なのであって、便利屋さんではないのだ。
「………………」
警察官のことを思い浮かべていた所為なのだろうか。”無精髭の生えた警部さん”とは別のとある男の人の顔が浮かんで、ファイツは更に目を伏せた。1週間という時間を一緒に過ごした彼のことは知っているようでほとんど知らないままだったが、これだけは自身を持って言える。あの人は国際警察官の警視なのだ。
「ラクツくん……」
”間違いなく警察官だと分かっているラクツくんなら、きっとあたしを助けてくれる”。彼の名前をファイツはそう思ってしまって、すぐに独り善がりにも程があるその考えを改めた。彼がここにいない以上は願いが叶うことはないだろう。それに、とファイツは思った。そもそもラクツがここに滞在していたのは彼曰く気になることがあったからなのだ。それはきっと、あの訪問販売員が実は泥棒だったことを指しているのだろう。駆け付けた警察官に拘束した男の身柄を引き渡した後で、ラクツが風のようにこの家から去ってしまったことがその証拠だ。大人っぽくて意地悪で、水のように掴みどころがない人で。だけど実際には自分をずっと気にかけてくれていた彼に対して、ファイツは何も言えなかった。去っていく瞬間の彼と目が合ったことは事実だ、だけどファイツは何も言えなかった。「護ってくれてありがとう」も「迷惑かけてごめんね」も言えなかった。連絡先を知らない以前に、恩知らずの自分がそもそも彼に助けを求める資格はないとファイツは思った。
何も言えなかっただけではない。ファイツは何も知らなかった。美味しそうな”睡眠薬が入ったジュース”を飲もうとした自分を寸前で止めてくれた時でさえも、わけが分からずにただただ首を傾げていた自分は何て愚かなのだろう。本当に本当に愚かだと思う。何せ真面目そうな訪問販売員がラクツに襲いかかったことで、危険が迫っていると理解したくらいなのだ。自分の危機感のなさをその時になってようやく思い知るだなんて、のんきにも程がある。ファイツは無知で愚かしい自分を自嘲する笑みを浮かべた。蘇ったのはプラズマ団に所属していた頃の記憶だ。ポケモンを人の手から”解放”することはいいことなのだと心の底から信じ込んでいた。現実が見えていなかったあの頃からまるで成長していないではないか。
「いやあ……っ!」
無知な自分を嘲笑うかのようにがたがたという音が聞こえて来たから、ファイツは堪らずに耳を塞いだ。分かっている、あれはきっと風が窓を叩く音なのだ。鍵もかけているのだし、泥棒がこの家に押し入るわけがない。必死にそう言い聞かせた次の瞬間には、本当にそうなのだろうかという声がどこからか聞こえて来た。ファイツは目を瞑ったものの、そうするとすぐにとある男の人の顔が浮かんで来る。忘れもしない、忘れようにも忘れられない、訪問販売員を騙るあの男の顔だ……。
ファイツは虚ろな表情で目を開けた。きっと今日も、多分明日も。そして明後日も。きっと自分はこの場所で、すっかり当たり前になったこの日常を繰り返すのだろう。この先もずっとそうなるのだろうと思うだけで絶望感に襲われた。絶望感で身体から力が入らなくなったことで、クッションが音もなく床に落ちた。瞳から一筋の涙が流れ落ちたが、涙を拭う気にもクッションを拾う気にもなれなかった。今すぐにでも誰かに助けて欲しいとは思う、だけど同時に誰にも頼れないと思った。”こんなあたしを助けてくれる人なんているわけがない”。恐怖に慄くファイツは全身を震わせながら心の中でそう呟いた。恐怖と絶望感に包まれて真っ暗になった心で、何度も何度もそう思った。