育む者 : 025
せいぎのこころ
「……このような経緯を経て現行犯逮捕に至りました。罪状は公務執行妨害と法に触れる薬物所持ですが、未遂含めた余罪は複数あると思われます。なお、民間人及び建物への被害は今のところ発生しておりません。報告は以上です、長官」最新式のライブキャスターを使えばリモートで報告することも容易いのだが、国際警察本部に用があったこともまた事実なのだ。そんなわけで上司への報告を対面にて行った黒の2号は、そこで言葉を切ると国際警察長官の顔をまっすぐに見据えた。報告はし終えた、しかし姿勢を崩していいとは告げられていない。長官は自分にとっては父親代わりでもあるが、歴とした上司なのだ。部下としては無礼な態度を取るわけにはいかない。絶対的な縦社会である警察組織なら尚更だ。
「うむ。犯罪の気配を察知し、卑劣な犯行を未然に防いだと聞いている。事後処理も含めて相変わらずの見事な働き振りだ。流石はミスター・パーフェクトと謳われる黒の2号だな」
「…………いえ」
返事をするまでに数秒かかったのは、ラクツではなく”黒の2号”と呼ばれたことで違和感を抱いたからだ。物心ついた頃からそう呼称されている自分にとって、その音は耳に馴染んだ響きのはずだった。到底数え切れない程に黒の2号と呼ばれているはずなのに、今は違和感を覚えて仕方ない。いつまでも耳に残る音に、こんなことは初めてだと眉をひそめる。
「どうかしたのかね?」
「いえ。何も……」
今度の「いえ」はするりと口をついて出たが、それでも違和感は拭えぬままだった。どの辺りが”何も”なのだろうか。そう思いつつも半ば無理やり意識を切り替えた黒の2号は、「警察官として当然のことをしたまでです」と言葉を続けた。そう言った後で自分が取ってつけたような物言いをしたことに気付いたが、長官からのお咎めはなかった。特に気分を害した様子もなく、むしろどこか機嫌が良さそうにすら見える。長官にしては珍しい表情をするものだと黒の2号は思った。卑劣な悪事を働いた犯罪者を逮捕したからなのだろうか?
「そう謙遜せずともいい。……ああ。言い忘れていたが、楽にしたまえ」
「はっ」
思考の海に沈みかけていた黒の2号の意識は、その声で一気に浮上した。口頭で命ぜられたのなら話は別だと組んでいた後ろ手を解く。それでも緊張を緩める気分にはとてもなれず、直立不動で長官の話を聞く姿勢を取った。
「しかし、卑劣な犯罪というものはいつの時代にも蔓延るものだ。そうは思わないかね、黒の2号」
「まったくもって同感ですね。だからこそ我々警察官が存在するわけですが」
上司兼父親だからという理由で肯定したのではなかった。単純に、長官の言葉は的を射ていると自分でも思ったからこそ同意したのだ。結論から言えば、訪問販売員を騙っていたあの男は卑劣な犯罪者以外の何者でもなかった。あの男が所持していたジュースは速やかに証拠品として科学捜査室に送られたのだが、その全てに違法な薬物が大量に混入していたことは既に把握している。そして悪人の魔の手から間一髪で逃れた娘が飲むはずだったそれには、やはり媚薬がこれでもかという程混じっていたらしい。何でも強力な上に即効性の媚薬で、使用したらすぐにでも効果が表れる優れものなのだとか。独特の甘い匂いからしてまあそうだろうとは思っていたが、そこまで強力な効果の媚薬だとは思わなかった。
あの男は”美味しいジュース”だの何だのとほざいていたが、美味しいが聞いて呆れると黒の2号は内心で嘆息した。睡眠薬ではなく媚薬を選んだ辺りにあの男の歪んだ情と狡猾さが透けて見えて、眉間に刻まれた皺が自然と深くなる。心ゆくまであの娘と楽しんだ後は金目の物をいただいて逃走する腹づもりでいたようで、鞄の中に様々な道具を隠し持ってしたらしい。そんな男の主な罪状は薬物所持、公務執行妨害、窃盗、そして婦女暴行の4つだ。後者の2つは未遂で終わったが、罪状の多さと内容からしても当分の刑務所暮らしは避けられないだろう。何にせよ、犯罪者には似合いの末路ではないか。
(あの男が見下げ果てた人間であることは言うまでもないが……。あの娘もあの娘だ、まったく)
まったくもって素直というか、純真無垢というか、無頓着にも程があるというか。とにかく度を超して無防備な娘の顔が勝手に浮かび上がる。”ラクツ”に対して見せていたガードの固さはどこに行ってしまったのだろうかと、黒の2号は内心で首を傾げた。
(何にせよ、ファイツくんの家に1週間滞在しただけの成果は得られたわけだ。1つだけとはいえ違法薬物の販売ルートを確実に潰せるだけでも良しとするか)
胸中で呟いた黒の2号の脳裏に次に蘇ったのは3日前の出来事だ。やけに大きな鞄を携えて、辺りを警戒するように幾度も見回しながら家に近付いて来る不審人物の姿は、月が出ていることを差し引いても実によく目立っていた。張り巡らせていた警戒網にようやく引っかかってくれたらしい。近い将来犯罪を犯すであろう男の存在を2階から確認した黒の2号は、階下に降りるべく借りている部屋のドアを開けたのだ。しかし部屋の外へと足を踏み出した次の瞬間には、見えている景色がものの見事に変わっていた。例によって思考を読まれでもしたのか、マフォクシーによって家の外へと飛ばされたのだと察するまでには5秒程時間がかかった。短距離の移動だったとはいえ本来ならば覚えない”テレポート”を難なく使用していたのは、つまりマフォクシーが非常に高い実力を有していることの証左なのだろう。決定的な証拠を掴むまでは自分の存在を隠しておきたかった黒の2号にとって、物理的な壁をすり抜けて外に出られたのは実にありがたいことだった。敵意を抱いていたはずのマフォクシーが急に協力的になった理由は1つだ。つまりはファイツに危険が迫っているからこそ、わざわざ送り届けてくれたに違いない。
こうして自称訪問販売員を観察するのに最適なポジションを労せず確保した黒の2号は、とりあえずは玄関からは死角となる場所に身を隠して介入の機会をじっと窺うことにしたのだ。現時点では観察対象である男にはもちろん、護るべき対象である娘にも自分の存在を気付かれるわけにはいかなかった。素直なあの娘のことだ、腹芸など到底不可能だろう。マフォクシーの好意も”おや”を護りたい気持ちも無碍には出来ない、それに万が一あの男を取り逃がしでもしたら面倒なことになる。そういうわけで黒の2号はいつも以上に気を引き締めていたのだが、当のファイツの反応はというと実に能天気なものだった。今は1人なのかと問われれば素直にそうだと答え、目的を達成しやすくする為に吐いたであろう歯の浮くような台詞を真に受けて顔を赤くさせるだけでなく、あまつさえ手渡されたジュースを無警戒にもその場で飲もうとする始末だった。あのジュースを口にした者の末路は誰の目にも明らかだ。それこそ時間帯も場所も関係なく、薬の効力が切れるまで本能が囁くままに自らの意思であの男を求め続けたことだろう。
警察官としてそんな未来は実現させるわけにはいかない。その一心で飛び出して毒牙にかかる寸前だったあの娘を抱き寄せたら、当の本人は目を丸くするばかりだった。あの男もあの男で、第三者である自分の乱入に酷く驚いた様子だった。冷や汗を垂らしつつも爽やかな笑みを浮かべていた訪問販売員の化けの皮が剥がれるのは案外早かった。何をどう解釈したのか突如として殴りかかって来たので、これ幸いとこの身1つで取り押さえたのだ。当然自分もあの娘も掠り傷1つ負わなかった。振り返ってみれば、何とも呆気ない終わりだった。あの犯罪者だけは地元警察に引き渡す際「お前の所為だ」と捨て台詞を吐いていたが、そんなことは知ったことではない。自分はただ、警察官として職務を全うしただけに過ぎないのだ。
「…………」
諦めが悪かったあの男はどうやら観念したようで、今のところは取り調べに素直に応じているらしい。引き渡したことが影響しているのか、この件に関しては情報がいち早く届くのだ。”あの子を何としても自分のものにしたかった”というのが媚薬を使った動機らしいが、その心情が自分にはまるで理解出来なかった。性欲を発散したいなら然るべき場所にでも行くか女でも買えばいいものを、どうして安易に犯罪に手を染めるのだろうか。
(……理解出来ないな)
胸中で吐き捨てた言葉通り、本当に理解出来なかった。理解したいとも思わなかった。そして心の底から分からないと思ったのはもう1つ、あの男があの娘を「愛している」と取り調べで明言していたことだ。直接目にしてこそいないが、高らかに宣言した時の男はそれは狂気を孕んだ目をしていたらしい。それにいつまで経っても”美味しいジュース”を飲もうとしない訪問販売員の目は、呆然としている娘の肢体を舐めるように見つめる時以外は確かに暗く淀んでいたから、多分間違いない情報なのだろう。
人間の心の機微については元から理解が薄いのだが、こと恋愛感情に関しては輪をかけて分からなかった。元々は至極真面目に訪問販売員をしていたあの男は、ファイツに一目惚れした結果あのような凶行に走ったと聞いている。あの男のようにそれこそ全てを投げ捨てて一心不乱に恋をすれば、身を焦がすような想いを抱けば、そういう感情を理解出来るようになるのだろうか……。
(……ボクには関係ないことか)
そこまで考えたところで、黒の2号は思考を止めた。無意味なことを考えてしまった自分が我ながら愚かしいと、自然と口角が上がった。犯罪者の気持ちを知りたいと考えるなんてらしくない。いったい何を考えているんだと叱咤したところで、重々しい声が鼓膜を震わせた。黒の2号と呼ぶその声は、どう考えても椅子にかけている長官から発せられたもので……。
「何でしょうか?」
「いやいや、それはこちらの台詞だ。幾度となく名を呼んだのにも関わらず無反応とは、まったくもってキミらしくないな。考え事に没頭していたようだね」
「……申し訳ありません」
隠しても無意味なので、黒の2号は深々と頭を下げた。間を置かずに「頭を上げたまえ」と告げた長官の声は、相変わらずどこか上機嫌であるように聞こえてならない。妙だ、と黒の2号は思った。普通に考えれば、苦言の1つや2つ飛んで来てもおかしくないのだが。
「キミも疲れたことだろう、今日はもう下がってよろしい。次の任務については追って指示する」
「いえ、すぐにでも動けます」
「キミのような優秀な警察官に動いてもらいたいのは山々だが、こちらにも事情があるのだよ。辞令が下るまでは国際警察本部で待機したまえ」
「……承知しました」
矛を収めた黒の2号は一礼をした。繰り返すが、警察は絶対的な縦社会なのだ。上司命令に背くことは許されていない。「失礼します」と踵を返したところで、しかし黒の2号は足を止めた。長官に呼び止められたのだ。
「ああ、黒の2号。そういえば、間一髪で難を逃れた人物のことだが」
「……はい」
「キミと過去に関わった、あのプラズマ団の少女だと聞いている。見知った人物とこういう形で交わるとは、不思議な縁もあるものだな」
「その縁は、もう切れたと解釈していますが」
「本当にそう思うかね?」
「ええ」
黒の2号は淡々と返した。意地を張っているのではなく、本当にそう思っているのだ。まったくの偶然となりゆきで紡がれたファイツとの細い縁は、犯罪者を捕らえた瞬間に断ち切れた。互いに得意とする料理を教え合って、互いが作った料理を口にする。あの穏やかで平和な、しかしどこか賑やかだったあの家での日々は、3日前に終わりを迎えたのだ。
「そうか。キミはそう思うのか。……いや、呼び止めてすまなかった。今度こそ下がってよろしい」
「失礼します」
黒の2号はまたしても深々と礼をして、今度こそ部屋を後にした。行き先は、国際警察本部に併設されている宿泊施設だ。国際警察に所属しているポケモンが待機している訓練場に赴く気には何故だかなれなかった。どの道預けているポケモン達の顔を見に行くだけなのだし、向かうのは明日でも構わないだろう。誰にともなくそう言い訳をして、黒の2号は1歩1歩廊下を進んだ。どういうわけか、足がやたらと重かった。
「……ファイツくんには、別れの言葉でもかけてやるべきだっただろうか」
無意識に目を伏せた黒の2号は胸中で呟いた。警察官としての職務を優先していたこともあって、何も言わずにファイツの家を後にしたという事実に今更気付いたのだ。「さようなら」も、「世話になった」も告げなかった。もちろん連絡先の情報も渡さなかった。そういえば、終始呆然としていたあの娘は何かを言いかけてはいなかっただろうか。そのことを唐突に思い出して、しかし黒の2号は今更だなと頭を振った。自分がここにいる以上、ファイツとの縁は今度こそ切れているのだ。そう、完全に。
「……!?」
不意に感じた胸の痛みと脳裏に浮かんだ光景に、思わず黒の2号は足を止めた。どういうわけか、ファイツの姿が浮かんだのだ。脳内のあの娘は、自分のことを黒の2号くんではなくラクツくんと呼ぶ娘は、瞳から止めどなく涙を零して地べたにへたり込んでいる……。
(……本当にボクらしくないな)
大粒の涙をぽろぽろと零していたファイツの姿は、程なくして掻き消えた。当然だ、彼女がここにいるわけがないではないか。ファイツの姿が消えたという事実をいいことに、黒の2号は止めていた歩みを再開させた。今しがた脳内に浮かび上がった光景に深い意味はないに決まっている。長官に話題を振られたからつい思い浮かべてしまっただけのことだ。この胸の痛みだって、きっと一過性のものに違いない。そうに決まっているはずなのだ。勝手に浮かんで来た彼女が泣き顔を晒していたことは、深く考えないように努めた。
「………………」
ファイツとの縁は切れたと主張したのは、他でもない自分自身だ。上司である長官にもそう告げたばかりだ。それなのにいつまでもあの娘のことを考えている自分自身が分からなくて、黒の2号は眉間にそれは深い皺を刻んだ。