育む者 : 024

紙一重の攻防
(まずはご飯と味噌汁に……。だし巻き卵に魚の煮付けと、最後にほうれん草のお浸しっと……)

ふかふかのソファーに身を預けたファイツは、今日も今日とて食べたばかりのメニューを脳内に思い描いていた。うっかり忘れてしまう前に、ボールペンをメモ帳の上でさらさらと走らせる。ほんの2日前に買ったばかりの、可愛いボールペンとメモ帳だ。

(えっと……。今日は割と上手く出来てた、よね……?味付けも失敗しなかったし、何も焦がさなかったし、出汁だってちゃんと取れてたし……。それに、初めてちゃんとしただし巻き卵が作れたような気もするし!)

心の中で、後半部分を高らかに叫ぶ。ちなみにファイツが行っているのは1人反省会だ。料理が得意な彼に和食作りを教わるようになってからというもの、手料理の出来栄えを毎回振り返るようになっていたのだ。

(……うん、今日のご飯作りは合格!)

ボールペンの芯を引っ込めてメモ帳をパタンと閉じたファイツは、早くもお気に入りとなった文房具達をソファーの上にそっと置いた。その代わりに丸いクッションを引き寄せて、ぎゅうっと両手で抱き締めながらえへへと笑う。今日の夜ご飯は失敗した部分が特に思い当たらなかった。それに何より今までで一番綺麗に卵を巻けたのだ。それが嬉しくて嬉しくて、ファイツの顔は自然とにやけた。成功どころか大成功と言ってもいいだろう。何なら花丸合格でもいいかもしれない。自画自賛だとも思うけれど、事実なのだから仕方ない。

(ラクツくんがあたしに料理を教えてくれたおかげなんだよね……。ありがとう、ラクツくん……)

本当にちょっとずつだけど、確実に料理の腕はレベルアップしているように思う。それもこれも、彼が丁寧に教えてくれたおかげなのだ。自分の代わりに食器洗いをしてくれているラクツにお礼を言ったファイツは、にやけ顔を思う存分晒していた。誰にも見られていないからこそ出来ることだ。クッションを更にぎゅうっと抱き締めたファイツは、”そうだ”と唐突に思った。確か、明日は晴れると天気予報で言っていたはずだ。降水確率0%だ。

(よし、明日は皆でお出かけしよう!)

うんうん悩んだ末に、どうせ出かけるならピクニックがいいなとファイツは思った。今の時期なら綺麗な花も咲いているだろうし、暖かい日差しの下で食べるお弁当の味はきっと格別だ。何より基本的に家にこもっているラクツとフタチマルのいい気分転換にもなる。明日はうんと早起きしてお弁当を作って、ラクツに「本当にありがとう」と改めてお礼を言うのだ。フタチマルを含めたポケモン達には花冠を作ってあげよう。考えただけでわくわくするような計画ではないか。素敵な計画を閃いたファイツの顔は更ににやけた。自然豊かなホワイトフォレストで産まれた所為なのか、ファイツはピクニックをするのが好きなのだ。

「随分と嬉しそうな顔をしているな。何かあったのか?」
「きゃあ!」

食器洗いがちょうど終わったところだったのだろう。黒いエプロンを外しながらリビングに入って来たラクツの声で反射的に悲鳴を上げたファイツは、口を半開きにしたまま固まった。誰にも見られていなかったわけではなかったのだ。

「…………」

間が悪かっただけであって誰の所為でもないことはもちろん理解している。だけどラクツに、男の人に、人前でするのは憚られるにやけ顔をばっちりしっかり見られてしまった。おまけにフタチマルも一緒だった。その事実を乙女としてはとても受け入れられなくて、ファイツはクッションにぼふんと顔を埋めた。もう恥ずかしくて堪らなかった。言うまでもなく胸はどきどきと強く高鳴ったし、何なら顔どころか耳まで赤くなる始末だ。

「何をしているんだ、キミは」
「だ……。だって、すっごく恥ずかしいんだもん……。お願いラクツくん、今見たものは忘れて!お願いだから!」
「そう乞われても無理だ。正直、ボクでなくとも記憶から消去するのは難航すると思うぞ。あれは中々に強いインパクトを残す顔だった」
「いやあああっ!」

出来ることなら聞きたくなかった言葉をばっちりしっかり聞いてしまったファイツは、よく考えもせずに手に持っている物を放り投げた。あ、と思った時には既に手遅れだった。力を入れ過ぎた所為で形がちょっとだけ歪んだクッションが、彼目がけてまっすぐに飛んで行く。

「おっと。……急に何をする」
「だ、だって!ラクツくんがあんなこと言うんだもん!それに、ラクツくんなら普通に受け止められるでしょう!?」

そうじゃないかとは思っていたけれど、やっぱりその通りだった。自分ならきっと避けられなかったであろうそれを、だけどラクツは難なくキャッチしていたのだ。クッションを片手に持ったまま涼しい顔で「当然だ」なんて言う彼が、ちょっとだけ憎らしかった。

(分かってたけど、ラクツくんってば本当に意地悪!!嘘でも忘れたって言ってくれてもいいのに……)

彼への感謝の気持ちはどこへやらで、ファイツはぶつくさと文句を言った。声に出さなかったのは、絶対に言い負かされると分かっていたからだ。口で自分が彼に適うはずがないことはとっくの昔に理解している。「ごめんね」も言わずに彼のことを睨み続けていると、リビングにいたポケモン達がぞろぞろと連れ立って消えて行くのが視界の端に映った。ここ最近は特にそうなのだけれど、ポケモン達は食後ののんびりとしたひと時をリビングではなく狭い部屋で過ごすことが増えたような気がしてならない。それが不思議で仕方なくて、ファイツは何でだろうと小首を傾げた。もっとも今に限っては口喧嘩に巻き込まれたくないから移動しただけだと分かっているし、そもそも口喧嘩に発展する前にラクツに論破されて終わるだけだと思うのだけれど。それが何だか悔しくて、ファイツは引き結んでいた唇を開いた。

「もうっ!あっちに行ってよ、ラクツくん!」
「……では、望み通り席を外そうか。ボクは2階にいるから、何かあったら呼びたまえ」
「えっ?……えっと、うん……」

そう叫ぶが早いが、ラクツは側にあった椅子の上にクッションを置いた。そして、フタチマルを伴ってリビングから出て行ってしまった。フタチマルはこちらをちらちらと振り返ってくれたけれど、彼はこちらを一度だって振り返りはしなかった。そんな彼の後ろ姿を、ファイツは呆然として見送った。

「…………」

ぽつんと1人取り残されたファイツは、静かになったリビングではあっと深く溜息をついた。自分以外は誰もいない所為で、溜息の音がやけに大きく聞こえた。俯きながら「何であんなこと言っちゃったんだろう」と呟く。”あっちに行ってよ”と言ったのは紛れもなく自分なのだが、いざそうされると途端に淋しさに襲われた。自分勝手にも程があるけれど、心の底からそうして欲しかったわけではなかったのだ。

「……皆でピクニックに行こうよって、言いたかったのになあ……」

唇から、弱々しい言葉が零れ落ちる。ちょうどその時リビングの壁に貼っているカレンダーが視界に映って、ファイツはまたしても溜息をついた。ラクツと再会してから今日でちょうど1週間になる。この1週間で少しは彼と仲良くなれたかなと思っていたのだが、それは大きな勘違いだったらしい。ラクツと自分との距離は未だに開いているし、彼のことはほとんど知らないままなのだ。精々国際警察官の警視で、料理が上手くて、演技も出来て、手先が器用で、大人びていて意地悪な人だという印象しかない。意地悪なラクツの言動に神経を逆撫でされたことは事実だが、自分の言動も褒められたものではないことも心の底ではちゃんと分かっていた。だけどそれでも彼の後を追いかけて、ごめんなさいと素直に謝ることも今は出来そうになくて。だからファイツはのろのろと立ち上がって、静まり返った廊下を音を立てないように歩いて、そっと玄関のドアを押し開いた。冷たい夜風に無性に当たりたくなったのだ。

「……あれ?あなたは……」

自業自得とはいえものの見事に沈んでいたファイツは、見覚えのある男の人が玄関先に立っていたことに気付いて声を上げた。先日来たばかりの訪問販売員だ。まさにチャイムを押すところだったのだろうか、どこか気まずそうにこちらに笑いかけた彼の白い歯が、薄暗い中できらりと輝いた。

「こんばんは。今はおひとりですか?」
「あ、はい!……1人、です……」

そう言ってしまってから、ファイツは自分が言い間違いをしたことに気が付いた。今はラクツが泊まっているから厳密には1人ではないことに遅れて気付いたのだ。違いますと言おうと唇を開いて、声を出す寸前で口を噤む。あくまで彼は泊まっているだけであって、一緒に暮らしているわけではないのだ。ラクツの言う”気になること”が解決すれば、すぐにでもこの家を出て行くに違いない。そう思うと、ファイツの胸はどきんと高鳴った。淋しさの所為かずきんと痛み始めた胸を片手で押さえながら、そっと目を伏せる。

「あの……。どうかされましたか?」
「あ、いいえ!何でもないんです……。それより、この前は本当にごめんなさい!あたしのポケモンさんが酷いことしちゃって……。大丈夫でしたか?怪我とかしてませんか?あたし、ずっと気にしてて……」

目を伏せたまま、ファイツはおずおずと尋ねた。マフォクシーがこの人の思考を勝手に読み取った上、無理やり家から追い出したのは記憶に新しい。それこそ、忘れようにも忘れられない記憶だった。

「いえいえ、大丈夫です。ポケモンのしたことですから。……それにしても、ずっと気にされていたなんて……。あなたはとても優しい人なんですね」
「そんな、優しいだなんて……っ」

目を伏せていてもにっこりと笑いかけられたことが分かって、ファイツの顔は思わず赤くなった。はにかみながら、やっぱりこの人は優しい人だとファイツは思った。マフォクシーが無礼を働いたことなど全然気にしていない口調だったし、声色だって優しかった。”ラクツくんとは大違いだ”。無意識にそんなことを考えてしまい、慌ててぶんぶんと首を横に振る。不思議そうに目を瞬いたこの優しい人に、ごまかすようにえへへと笑ってみせた。

「あの……。それで、今日は……?」
「ああ、そうそう。申し遅れましたが、私は食品の訪問販売をしていまして。試供品として、ジュースを無料で配らせていただいているんですよ」
「わあっ……!」

優しい訪問販売員の鞄を覗き込んだファイツは、さっきとは違う意味で声を上げた。色とりどりの美味しそうなジュースが入った瓶が何本も並んでいる。その”優しい男の人”の視線が自身の顔ではなく身体を、もっとはっきり言ってしまえば胸の辺りを注視していることにファイツは微塵も気付かなかった。

「う~ん……。どれも美味しそうで、すっごく迷っちゃいます……」
「ありがたいことに、そう言ってくださるお客様もたくさんいらっしゃいます。それではせっかくですので、ジュースを丸々1瓶差し上げましょう」
「いいんですか?」
「ええ。もちろん代金は頂きませんよ、試供品ですから。……ですが、出来ることなら一番人気のジュースをこの場で試飲していただきたいのです。私としても、お客様の正直な反応が知りたいものでして……。それでもよろしいでしょうか?」
「はい!」

甘い物が大好きなファイツは二つ返事で頷いた。美味しそうなジュースがただで飲めるなんてラッキーだ。ついさっきまでは沈んだ気持ちになっていたことも忘れて、ファイツは訪問販売員ににっこりと微笑みかけた。

「…………」
「えっと、どうしたんですか?」
「ああ、いえ……。優しいだけではなくて、笑顔まで可愛らしい人なんだなあと思いましたもので……」
「え……っ」

男の人に面と向かって”可愛らしい”なんて言われてしまったことで、ファイツの顔はますます赤くなった。その事実を隠すかのように地面に目線を落とした瞬間、最早懐かしい彼の顔が強烈に頭の中に浮かび上がった。女の子という女の子に声をかけまくっていた、言いようのない苦手意識を抱いていた、”ラクツ”の顔だ……。

(変なこと考えちゃダメ!この人は、ラクツくんとは違うんだから!)

一瞬だけとはいえ嫌な予感を覚えたファイツは、だけど頭を振り払ってその予感を強引に振り払った。この人は、ただ真面目に仕事をしているだけの善良な訪問販売員なのだ。それなのに何か裏があるのではないかと疑った自分のことが心の底から恥ずかしかった。罪悪感と先入観に完璧に囚われていたファイツは、今の動作で揺れた胸に欲情した訪問販売員がごくりと生唾を飲み込んだことにまたしても気付かなかった。

「ああ……。本当に可愛らしい人だ……」
「そ、そんなことないです……っ。その……。ただ、甘い物が大好きなだけで……っ」
「それは良かった。それでは多めに入れて差し上げましょう。お客様だけの特別なサービスということで、他の方にはどうか内密にお願いします」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「いえいえ、礼を言うのはこちらの方ですよ」

”訪問販売員”は恭しく頭を下げた後で、手にしていた道具で瓶を開けた。流れるような動作で桃色のジュースを紙コップに並々と注ぐ。途端に辺りにはいい匂いが漂った、ファイツ好みの甘い匂いだ。

「近くで見ると、ますます美味しそう……。……それに、すっごくいい匂い……」
「ええ。桃を中心とした、天然物のフルーツが色々と入っていまして。……さあ、どうぞお飲みください」
「……はい!」

ありがとうございます、いただきます。そう言ってファイツは桃色のジュースが入った紙コップに手を伸ばそうとした。そう、”しようとしたのだ”。実行しかけたそれが未遂で終わったのは、何のことはない。いつの間にやら背後に立っていたラクツに肩を引き寄せられて、なおかつ紙コップを奪われた為に飲めなかったのだ。

「…………」

ファイツはぱちぱちと目を瞬いた。ほとんど零れてしまったジュースのことも気になったが、それ以上に音もなく現れた男の人のことが気になった。彼は紛れもなくラクツその人だった。彼は2階にいたはずなのに、どうしてここにいるのだろう?自分が飲むはずだったジュースが入った紙コップを、どうして彼が持っているのだろう?そして何より、どうしてこんなにも険しい表情をしているのだろう?いくつもの”どうして”が、頭の中に湧き上がった。

「まったく、目を離した途端にこれか……。つくづく危なっかしいにも程がある娘だな、キミは……。”何かあったらボクを呼べ”と言っただろう」
「え?……え……?あの、ラクツくん……?」

ラクツは自分の声に答えてはくれなかった。相変わらずの鋭い目で、訪問販売員をまっすぐに見据えているだけだ。そんなラクツは、だけど突如として微笑んだ。口元だけを見ればちゃんと笑っているように見えるのに、目だけは笑っていないとファイツは思った。その瞬間、ぞくりと背筋が震えた。あの”ラクツ”そのものではないか。

「こんばんは。随分と美味しそうなジュースを販売しているんですね。……ああ、そうだ。どうせなら皆で一緒に飲みませんか?この娘が飲むはずだった分を零してしまった詫びも兼ねて、ボクが代金を支払いますから」
「い、いえ……。勤務中ですので、私が飲むわけには……。……そ、それにお恥ずかしい話ですが、この後も営業をしなければならないものでして……」
「なるほど、働き詰めですか。道理で顔色が悪いわけだ。ですが、それならば尚更飲んだ方がいいとボクは思いますが。疲労回復には甘い物が効果的だと言いますしね。せっかくですから、どうぞ飲んでください」
「え、いや……」

傍目には美味しそうな、けれど実際には強力な媚薬がたっぷり入ったジュースをひと口も飲まずに済んだファイツは、2人の男の人をわけも分からずに見つめていた。本当に分からない、何が何だかさっぱり分からない。急に狼狽え出した優しい男の人がいる。そしてその彼を冷ややかに見据える意地悪な男の人がいる。ラクツに抱き寄せられたまま、ファイツは何がどうしたんだろうと小首を傾げるばかりだった。