育む者 : 023

クッキング・レクチャー〜L to W〜
得意とするレシピを互いに教え合うと決めてから早くも数日が経っていたが、待てども待てども自称訪問販売員が訪ねて来る気配は一向になかった。更には次の任務の辞令が下されないこともあり、ラクツは今日も今日とてファイツに料理を教えていた。今晩のメニューはだし巻き卵に魚の煮付け、ご飯にほうれん草のお浸しに味噌汁という典型的な和食だ。飽きずにリクエストするところからして、どうやらファイツはかなりの和食好きらしい。自分とてアップルパイ作りを何度か教わっているのだが、彼女が作るアップルパイの味を完璧に再現出来ているとはとても言えなかった。料理というものは案外難しいものであるらしい。すっかり改まったその認識は、ラクツの中にしっかりと刻まれていた。

(それにしても、今回でちょうど1週間か。……早いものだな)

卵の殻を割っている娘の横顔を見つめながら胸中で呟く。精々1日限りのつき合いで終わるはずだったのに、気付けば彼女と再会してから1週間が経過していた。お人好しの娘の家で、特に何事もなく日々を過ごしている。少し前まで任務に忙殺されていたことが信じられない程の平和な日々だ。警戒しつつも事務仕事に集中出来たおかげで、溜まりに溜まっていた報告書の作成が捗ったことは正直ありがたかった。ここ2、3日は少々暇を持て余しているような気もするが、たまにはこういう日々も悪くない。自分でも驚くべきことに、この1週間でラクツはこう思えるようになっていた。二度目の解雇の危機に瀕していることも、幾人もの同僚からの監視を受けていることも。それらの2つの事実を知る由もないラクツは、実に穏やかで平和な日々を過ごしていた。

「ラクツくん!卵、かき混ぜ終わったよ!……ね、どうかなあ?」

菜箸を片手に先程から卵と格闘していたファイツが言い放った声で、思考が途切れる。彼女の求めに応じてボウルの中身を覗き込んだラクツは思わず苦笑した。どこか得意そうな表情を浮かべているこの娘には悪いが、これは明らかに混ぜ過ぎだ。卵液は泡まみれだし、何よりファイツが身に着けている白いエプロンにはところどころに黄色の染みが出来ている。

「うう……。やっぱり、やり過ぎだよね?普通はこんなに飛び散ったりしないもんね……。ラクツくんみたいに、黒いエプロンにすれば良かったなあ……」

長きに渡る沈黙していることでこちらが言いたいことを悟ったらしいファイツが、肩を落としながらそう零した。否定する意味もないので頷いたら、はああっと盛大な溜息をつかれた。得意げだったはずの表情は今や見る影もない。

(今に始まったことではないが、実に表情豊かな娘だな)

おそらくは黄色い染みが目立つことを気にしているのだろう。「次に買う時は絶対白じゃない色にする」と宣言するように言い切ったファイツは、指先で摘まんでいたエプロンの裾を放すとぐっと拳を握った。記念すべき10回目のだし巻き卵作りに挑む彼女は随分と気合が入っているように思えてならなくて、だからラクツはまたしても苦笑した。気合を入れるのは結構だが、おっちょこちょいなこの娘のことだ。その気合が空回りしないとは言えない。

「ファイツくん。卵を焼く前に、何度か深呼吸してみたまえ。肩に余計な力が入り過ぎている」
「う、うん!」

そう告げたら、ファイツは胸に手を当ててすうはあと深呼吸をし始めた。アドバイスを一も二もなく実行したこの娘は本当に素直な性格をしている。”捻くれた自分とはまるで正反対だ”。ラクツはそんなことを思いながら、素直で表情豊かな彼女を斜め上から見下ろしていた。気が済んだのか、ファイツはどこか晴れ晴れとした顔付きをしている。

「うん……。何か、リラックス出来た気がする!」
「そうか。では、焼いてみたまえ。巻く際は手首を意識するといい」
「うん!頑張るね!」
「ああ」

頷いたラクツはいつも通りキッチンの入口に移動して、だし巻き卵作りに挑む彼女をフタチマルと共に遠巻きから見守った。最初は近くで逐一指示を出していたのだが、それが却ってプレッシャーを与えるようで、見るも無残なぼろぼろの卵焼きが幾度となく生成された。だからここ最近はあれこれ口出しすることを止めて、彼女のペースに合わせるようにしているのだ。
なるほど「おっちょこちょいだよ」と自分で言っていただけのことはあり、ファイツは簡単な料理でもやたらとミスを犯した。本人のやる気とは裏腹に、味付けやら見た目やらが明らかにおかしい料理が不思議と2日に1回のペースで出来上がるのだ。ちなみに彼女曰く”大失敗作”は、その全てがフタチマルの胃の中へと消えていた。彼女が抜けていることは承知の上だし、何よりフタチマル自らの意思でしていることだからとラクツは静観を決め込んでいるのだが、ファイツはそうもいかないのか「ごめんね」を繰り返すばかりで。はっきり言ってしまえば不出来な料理の後始末を進んで引き受けているフタチマルに、彼女としても多大なる恩を感じているのだろう。フタチマルの分の食事だけ量が妙に多いのは、きっとあの娘なりの感謝の現れだ。しかしそれを良く思わない存在も、中にはいるわけで……。

「…………」

ファイツの様子を眺めていたラクツの唇からは溜息が零れ落ちた。その”良く思わない存在”の筆頭であるポケモンからの攻撃が唐突に始まったことに気付いたのだ。ぷにぷにとした柔らかい身体で懸命に”たいあたり”をしているのは、やはりダケちゃんだった。いや、最早一択なのだけれど。

(……嫌われたものだな)

自分がダケちゃんに嫌われていることにはとうに気付いていた。このポケモンの命を救ったのは他でもない自分だが、どうやらファイツの家に案内した時点でその借りは返したとダケちゃんは認識しているようで、事ある毎に攻撃を繰り出して来るのだ。恩を着せたくて喉につかえたクリームパンを吐き出させたわけではないし、何よりも超能力を使うマフォクシーに比べたら遥かに脅威度が低いので、ダケちゃんの好きにさせているのだ。ついでに言うと、警戒対象の筆頭であるマフォクシーはあれから特に何をすることもなかった。精々やたらと見つめられるだけだ。とはいえ、一度痛い目を見ている以上完全に気は抜けないのだが。

「ダケちゃん。今は止めた方がいいと思うぞ」

無意味な攻撃を懲りずにし続けているダケちゃんに、苦笑交じりに告げる。そもそも身体がぷにぷにとしているダケちゃんが”たいあたり”を選択すること自体がまず間違っていると思うのだが、わざわざそれを教えてやる義理はなかった。攻撃というよりかはむしろマッサージに近いそれをなおも繰り出すダケちゃんの軌道を先読みしたラクツは、利き手を伸ばしてみた。思った通り、次の瞬間には柔らかい何かが手の中に飛び込んで来る感触があった。

「捕まえたぞ。……こら、今は暴れないでくれ。ファイツくんに飛び火しかねない」

勝手に手の中に飛び込んで来たダケちゃんを力を入れずに拘束しつつ、努めて静かにそう言い放つ。それでもしばらくの間は脱出を試みていたダケちゃんだったが、ファイツの名前を出したことで我に返ったようで、程なくしておとなしくなった。その彼女は背後でひと悶着があったことなどまるで気付いていない様子で、一生懸命に手とフライパンを動かしている……。

「…………」

実に懸命に料理に取り組んでいるファイツを、華奢な後ろ姿を、無言で見つめる。1週間前の自分なら、たかがだし巻き卵作りで何をそこまで頑張るのだろうと盛大に呆れたことだろう。しかし、今は何故かそう思えなかった。ファイツが成功することを心の底から祈っていた。これでだし巻き卵の指南役から解放されるからという後ろ向きな理由ではなく、純粋に上手く焼けて欲しいと思っていた。傍らに佇んでいるフタチマルも、そして手の中にいるダケちゃんも、きっと自分と同じことを考えているに違いない。そんな折に、ファイツがきゃあっと歓声を上げた。どうやらだし巻き卵が完成したらしい。

「やった、やった!ちょっと不格好だけど、今までで一番綺麗に巻けたかも!……ほら、見て見てラクツくん!」

歓声を上げたファイツが、弾んだ声でそう言った。満面の笑みを浮かべながら身体の向きを変えた彼女の手にはまだ熱いフライパンがしっかりと握られている。そんな彼女から逃げるように、ラクツは一歩後退りした。フライパンを持ったままこちらに来るのではないかと懸念したのももちろんあるけれど、心臓がどくりと音を立てたという事実から目を背けたかったのだ。

「……あ、ごめんね!びっくりしちゃうよね!」

自分の行動をフライパンから逃げたくてしたものだと解釈したらしいファイツに、苦笑しつつも「別にいい」と返す。この娘のそそっかしさにはもう慣れた。ついでにこの娘の素直さにももう慣れた。だけど最早お決まりになっている”これ”には、やはり慣れない。もう1週間も経つというのに、この娘が笑うことに自分の心臓は未だに慣れてくれない。まったくもって、実に難儀な心臓だ。いつになったら自分は”これ”に慣れるのだろうか?フライパンの中の黄色い卵焼きをおずおずと指差しているファイツに「良かったな」と告げたラクツは、声に出さずに困ったものだなと呟いた。