育む者 : 022
育まれない者
「……はあ」ビルの屋上に備え付けられている手すりにもたれかかったハンサムは、深く息を吐くと双眼鏡を片手に空を仰ぎ見た。広大な空はぶ厚い雲で覆われている。今にも雨が降りそうな、生憎の曇り空だ。憂鬱さからか、それとも気が緩んでいたのか。双眼鏡を取り落としそうになって、慌てて受け止める。
(むむ、いかんいかん!気合を入れ直さねば……!)
自慢ではないが、ハンサムは自分の懐具合が寒いことを自覚している。余計な出費は増やしたくなかったし、何よりこちらが覗いていることを相手に気付かれでもしたら、これまでの苦労が水の泡になる。それだけは避けねばなるまいと、気合も新たに落とす寸前だった双眼鏡をしっかりと握り直した。またしても盛大な溜息を吐いたところで、ハンサムは辺りを注意深く見回した。もしかしたら今の溜息で気付かれたのではないだろうか。もしかしたら、今にも攻撃されるのではないだろうか。そんな考えが脳裏に浮かんで、自然と口渇感が生まれて来る。何せ相手は耳が非常にいいのだ、その事実は身を持って理解している。いくら離れたところから見ているといっても、絶対に気付かれないとは言い切れない。
(……いや、大丈夫か。とりあえずは気付かれていないようだな……。よしよし……)
双眼鏡を手にしながらこんなことを心の中で呟いたハンサムだけれど、そして今映ったのは歳頃の女の子なのだけれど、断じて、決して、誓って犯罪目的で使っていたわけではなかった。何を隠そう、ハンサムは国際警察官なのだ。コードネーム・ハンサム。階級は警部だ。つまりこれは、歴とした任務だ。その内容は至極単純で、とある人物を見張っていろというものだった。平たく言えば監視だ。
(しかし、何とも憂鬱なものだ。……いつものことだが)
ハンサムはまたしても空を見上げた。やはり雲に覆われていて、晴れる気配は微塵も感じられなかった。せめて日が差してくれれば少しは気分も晴れるだろうにと、考えても仕方のないことを思う。今日に限ったことではないのだけれど、どうにも憂鬱でならなかった。その所為なのか知らず知らずのうちに俯いていたハンサムは、我に返ると両頬を叩いた。暗い気分でいるのは精神衛生上良くない。
「よし、ドグロック。今のところ動きはないし、昼食にするか!」
ミニサイズの双眼鏡を首からぶら下げていた相棒に向けて努めて明るい口調でそう言ったハンサムは、懐から菓子パンを取り出した。監視をしている以上は腰を据えて食事をするわけにもいかない。任務遂行中のお供になりつつあるセール品のあんぱんをちびちび食べながら、ドグロックと共に束の間の休息を味わう。もう立派なおじさんと言える歳なのだが、ハンサムは甘い物が好きなのだ。特にあんぱんには目がなかった。今朝買って来たばかりのあんぱんを小さな紙パックに入った牛乳で一気に胃の中へと流し込んだハンサムは、最早何度目になるか分からない溜息をついた。大好きなあんぱんでさえも、憂鬱な気分を完全に吹き飛ばすまでには至らなかった。どうしてかなんて、わざわざ考えるまでもなかった。その理由は他でもない自分が一番よく知っている。
「…………やるせないものだ」
この任務を拝命してからというもの、こう思うことが増えた気がする。いや、絶対に気の所為ではなかった。何が悲しくて、犯罪者でもない人物の監視をしなくてはいけないのだろうか。しかも、監視対象は同じ国際警察官なのだ。おまけにその国際警察官は自分の元上司で、ついでに言うなら自分より遥かに歳下なのだ。いくら任務だとはいえ、二回りは歳が離れている相手を監視するというのはどうにも割り切れなかった。更にはこの任務の結果次第で彼の処遇が決定するという事実も、憂鬱さに拍車をかけていた。
(任務の期限までは残りわずか、か……。……警視どのは、どうされるつもりなのだろうか。やはり、いつまでもあのままなのだろうか……)
ハンサムは、元上司である青年の顔を思い浮かべた。コードネーム・黒の2号。本名も出身地すらも血液型すら不明なその人物は、国際警察内部ではちょっとした有名人だった。何でも嬰児の頃に犯罪現場で捨てられていたところを国際警察の長官に拾われ、国際警察官になるべく徹底した英才教育を受けて育ったのだとか。努力が実ったのか、出会った時には階級は自分より上の警視で。ポケモンバトルはもちろんのこと、捕獲や育成の腕も超S級。警察官としての身のこなしも素晴らしいし、犯罪者を捕らえた回数は数知れず。特殊な体術や国際警察官が使用する道具の使い方も完璧に会得しており、屈強な男から果ては女性の扱いに至るまで。何もかもが優れていることから”ミスター・パーフェクト”という異名が付けられたのだが、その二つ名に異論を唱える者はいないだろう。
しかし、そのミスター・パーフェクトには致命的な欠点が存在した。元々の気質か厳しい訓練漬けの環境がそうさせたのか、彼には普通の人間にはあるであろう倫理観がまるでなかったのだ。そう、あれは確か3年前の夏のことだった。まだコンビを組んでいた頃、彼自身の口から「極一部以外の感情が理解出来ない」と真面目な表情で告げられた時は、冗談を言っているのではないかと一瞬疑ったくらいだった。優秀なのにどこか危なっかしい部分があるとは思っていたが、それは彼がまだ成長途中の子供だからなのだろう。勝手にそう思い込んでいたハンサムは、それから月日が経った後で彼が仕出かした事柄に思わず愕然とした。何でも単身でとある地方での潜入任務に臨ませてみたところ、民間人が大勢いるにも関わらず群衆の中に身を潜めた犯罪者を捕らえる目的でフタチマルに攻撃を命じたらしい。不幸中の幸いで怪我人こそ出なかったものの、一歩間違えれば最悪の結果になりかねないところだった。もちろん事後処理には幾人もの警察官が駆り出されたし、彼はしばらくの間謹慎処分を受けることとなった。
”任務遂行の為には民間人の人権を侵害しても構わないと教わった”。これが、彼の言い分だった。確かに手っ取り早い方法ではあるだろうが、普通の人間ならまず選ばない手段だ。非情としか言えない手段を迷いなく実行した彼の噂は瞬く間に広まっていき、それから1ヶ月も経つ頃には国際警察内部で完全に浮いた存在になっていた。”1人の警察官としては他に類を見ない程に優秀だが、1人の人間としては大いに問題がある”。これが、国際警察内部でのミスター・パーフェクトに対する見解だった。それでも警察官としての功績が素晴らしかったおかげなのか、彼がすぐに解雇されることはなかった。時間が解決してくれるかもしれないし、今は教育をしつつ様子見するしかない。上層部がそう話しているのを偶然耳にしたのは、確か去年の秋頃だったか。もちろん、色々と手は打ったことだろう。しかしいつまで経っても彼の倫理観が育まれることはなかったし、いつまで経っても彼の人間性が変わることはなかった。
任務遂行の為に手段を選ばない彼の姿勢は、改められることはなさそうだと判断されたのだろう。いつまで経っても相変わらずのミスター・パーフェクトの言動を重く見た長官は、とうとう彼を監視する任務を同じ国際警察官達に言い渡したのだ。”期限は半年間。気付かれずに監視すること。これでも変化が見られなければ、彼を解雇せざるを得ない”。こんな文言で言い渡された任務の最後の担当に自分が選ばれたのは偶然か、はたまた長官の差し金か。しかしハンサムにはどちらなのか判断が付かなかった。今分かっているのは、ミスター・パーフェクトが警察官であり続けることを多分望んでいるのだということと、任務報告をする時が刻一刻と近付いているということだけだ。そして、分からないことといえばもう1つ……。
「……ううむ……」
彼の行く末ももちろん気になるのだけれど、ハンサムには他にも気にかかることがあった。思案しながら、無精髭が生えた顎に手をやった。ミスター・パーフェクトの監視を始めてから5日程が経過しているわけだが、彼の仮住まいの場所がホテルではないことがどうにも気になって仕方なかったのだ。女の子の家に、それもほとんど外出することなく泊まり込んでいるとなればその驚きはひとしおだ。2人が顔見知りであることはもちろん理解しているし、何よりあの彼が何の理由もなく異性の家に泊まるとはとても思えなかった。絶対に何か深い理由があるに違いないはずだが、いったいどんな理由があるというのだろう?
「ややっ!?とうとう動きがあったか!」
首を捻った瞬間に、彼が泊まっている家のドアが開いた。歳頃の女の子の家を四六時中見張っているのは流石に気が引けたハンサムは、普段は意図的に低くしている双眼鏡の倍率を大慌てで変えた。玄関のドアが開いたということは、つまり家の中にいる人間が出て来るということだ。この数日間レンズに映らなかった彼の姿が、ようやく見られるかもしれない。少しでもいい、彼の顔が見たかった。彼の表情を確認したかった。そしてあわよくば、彼が変わる兆候がわずかでも見えれば……。
「…………」
藁にも縋る気持ちで双眼鏡を覗いたハンサムは、固唾を飲んで見守った。最初に出て来たのは特徴的な髪型をした女の子だった。ハンサムにも見覚えがある女の子だ。買い物にでも出かけるつもりなのか、水色の袋を手にぶら下げて何やら楽しそうに口ずさんでいる。そして、その瞬間は唐突に訪れた。監視対象である彼の姿を数日振りに捉えたと同時に、ハンサムは言葉を失った。手がひとりでにぶるぶると震えた。あまりにも震わせた所為で、監視任務の要である双眼鏡がコンクリートの床に激突した。レンズが割れた音が耳にはっきりと届いたが、だけどハンサムはそんなことはどうでもいいと思った。双眼鏡はまた買えばいい、それより今はあの光景のことだ。一瞬しか見えなかったが、それで充分だった。今しがた見えたものを目に焼き付けたハンサムの心には、熱い何かが湧き上がった。両目から、何か熱いものが滝のように流れ落ちた。
わずかでも見えればなんてとんでもない、想像以上の収穫だった。あの子に何やら告げていた彼は、驚くべきことにとても穏やかな顔付きをしていたのだ。いつか見たそれとは比べ物にならない程の穏やかな顔付きだ。あんなにも穏やかな表情を浮かべた彼を、少なくとも自分は見たことがない。あれは絶対に見間違えでも演技でもないと、自分の直感が言っていた。つまり冷酷だの非情だの何だのと後ろ指を指されていたミスター・パーフェクトは、あの子に心を開いているということで……。
(……ああ、あの子だ。今の警視どのに必要なのは、我々の監視の目ではなくあの女の子だったのだ……)
あの子のことは知っている。ファイツという名の元プラズマ団員だ。しかし、何の犯罪も犯していない女の子だ。あの彼が心を開くくらいなのだから、彼女はいい子に違いないとハンサムは思った。この任務が終わったら、ケーキを片手に彼女の家に挨拶に行こう。警視殿どのとの縁を切らないようにして欲しいと、切にお願いしてみよう。そして叶うなら、ふと思い浮かんだこの考えを長官に進言してみよう。どんよりとした天気も何のその、一気に清々しい気分になったハンサムは、とりあえずはいい報告が出来そうだと大袈裟な程のガッツポーズをした。