育む者 : 021

契約
元々あの娘をやけに気にかけているな、とは思っていた。しかし、まさかそこまで気にかけているとは流石に思わなかった。黒焦げの物体をファイツの代わりに平らげたことで一時は苦悶の表情を浮かべていたフタチマルは、丸薬を与えたおかげで今やすっかり普段通りの調子を取り戻していた。もっともそれは表情に限定してのことであって、フタチマルの目線はやたらと彼女に向けられるようになっていたし、どこか落ち着きがないように思えてならなかった。単に彼女が気になるのか、もしくはキッチンから漂って来る甘い匂いに釣られでもしたのか。最早何度目になるか分からない相棒の視線の揺らぎを見て取れたラクツは、引き結んでいた唇を開いた。

「ボクに構わなくていい。ファイツくんの傍に行きたいならそうしたらいい」

訪問販売員を名乗る犯罪者がいつ来ても対応出来るようにとリビングにいさせてもらっているわけだが、生憎来る気配は微塵も感じられなかった。今なら構わないだろうと判断したラクツがそう告げるや否や、ソファーに並んで腰かけていたフタチマルはぴょんと飛び降りた。その必要もないのにキッチン目指して駆けた事実からして、どうやらそうしたいのを相当我慢していたらしい。

(……あの娘に懐いていると考えていいのだろうか。実に珍しいことだな)

苦い物を特に好むわけでもないフタチマルがわざわざ黒焦げの何かを平らげたのは、ファイツを慮った故だろう。ちなみにフタチマルが懐いた対象である娘は、おやつのアップルパイを焼く為にキッチンにこもっているところだ。何でもポケモン達が昼寝をしている最中におやつを作るのが日課なのだとか。いつも焼いているから大丈夫だなんて言っていたが、今度も黒焦げにするのではないだろうか。ふとそんな気がしてならなかったから、ラクツは嘆息した後で腰を浮かした。フタチマルの様子を確かめる意味も込めて、キッチンへと歩を進める。マフォクシーやダケちゃんがいない今だからこそ出来ることだ。

「……あれ?ラクツくん?」

好き嫌いがないはずのフタチマルは、稼働している真っ最中のオーブンを熱心に覗き込んでいた。そして白いエプロンを身に着けたファイツの方はどうやら洗い物が一段落したようで、小さなタオルで濡れた手を拭いているところだった。こちらの存在に気付いたのか「どうしたの?」と尋ねた彼女は、瞳を細めてにっこりと微笑んだ。

「…………」

その瞬間に例によって心臓が早鐘を打ったことで、ラクツは眉間に皺を刻んだ。思考を重ねた甲斐あって、”これ”が何を指しているかはおおよその見当がついていた。つまり、自分はこの娘の笑顔にまだ慣れていないだけのことなのだろう。考えてみれば、昨日の今日だ。ファイツと再会してから24時間と2時間程度しか経っていない計算になる。それにトレーナーズスクールでの彼女は基本的に怯えるか逃げるか、笑うにしても引き攣った笑みしか見せなかったわけで。その印象が未だに色濃く残っている以上はこの娘が自分に笑いかけることによって驚いたとしても無理もないか、と胸中で呟く。それにしては反応が少々過剰な気もするけれど、きっと時間が解決してくれるだろう。とにもかくにも早く慣れて欲しいものだ。どこか他人事のようにそう思いながらファイツを見つめていると、その彼女が困ったように眉根を寄せた。

「……ラクツくん、昨日から思ってたんだけど」
「何だ?」
「そんなに眉間を寄せてて、疲れないの?」
「別に。いつものことだ」
「やっぱり……。それ、もう癖になってるでしょう?直した方がいいと思うよ。あたしも昨日試してみたけど、ちょっとやってみただけなのにすっごく疲れたもん。絶対、ラクツくんに良くないよ」

ファイツは宣言するようにそう言い切った。何を根拠にそう言い切れるのだろうかとラクツは思った。わざわざ言わないけれど。

「そう言われても困る。そもそも、この場でとってつけたような笑顔を作ること自体が無意味だろう。潜入捜査をしているならば話は別だがな」
「そうかなあ……。笑うのって、すっごくいいことだと思うんだけど」
「……ボクからすれば、表情を目まぐるしく変えるキミの方が疲れないのかと疑問に思うが」
「え。あたし、そんなにころころ変えてる?」

「別に普通だと思うんだけど」という言葉で会話を打ち切ったファイツは、納得がいかないのかうんうんと頭を悩ませた。しばらくそうしていたかと思えば我に返ったように目を見開くと慌てて腰を屈めてオーブンを覗き込み、目に見えて分かる程にホッと胸を撫で下ろす始末だ。アップルパイが黒焦げになっていないことに心底安堵したらしい彼女を、”それが目まぐるしく変えているんだ”と思いながら眺める。誰が何と言おうが、ファイツという名のこの娘は実に表情豊かな人間だ。

「うん、いい感じ!これまで焦がしちゃったら、一生立ち直れないところだったよ……。あんなこと言っておいてなんだけど、結構不安だったの」
「相変わらず大袈裟だな。どの道盛大に焦がしている以上、今更だろう。堂々と構えていればいいと思うが」
「もうっ!ラクツくんこそ、相変わらず意地悪なんだから!」

頬を膨らませたファイツが、オーブンのドアを開けた。もしかしたら途中で落とすのではないだろうか。そんな疑念を抱いた自分を他所に、彼女は特に問題を起こすことなくアップルパイを作業台の上へと置いた。閉ざされた空間から解放されたことでりんごとパイ生地の甘い匂いが本格的にキッチン中に広がる。甘い匂いに鼻腔をくすぐられながらラクツは意識を耳に集中させてみたが、犯罪者が訪ねて来る気配も昼寝をしているポケモン達が起きて来る気配も今のところ感じられなかった。前者はどうだか知らないが、後者は朝が早かったこともあってぐっすりと眠っているのだろう。

「あ、食べたいの?……いいよ、でも熱いから気を付けてね!」

その言葉で意識を切り替えると、当然ながら昼寝の習慣がないフタチマルが、ファイツが差し出したアップルパイの切れ端に手を伸ばしている光景が視界に映った。しかし触れるか触れないかのところで我に返ったのか、こちらをじっと見上げる彼の顔には、どう見ても食べたいという文字が書かれている……。

「……まあ、いいだろう。お前の好きにしろ」

自分の許可なしに他人から食べ物をもらうなと普段から言い付けているラクツは、警察官としての信念を捻じ曲げる言葉を言い放った。一応は知らない仲でもないし、見る限りは生焼けでもなさそうだったからだ。何よりこの娘が故意に危害を加えるとはとても思えなかったのだ。許可が下りたことで、フタチマルは意気揚々と焼き立てのアップルパイに手を伸ばした。まだ熱いだろうに意に介さずに大きめの切れ端を頬張る彼を目の当たりにして、ラクツはまたしても珍しいと思った。警戒心が強いフタチマルらしくない行動だ。彼はとっくに噛み砕いたであろうそれを、いつまでも咀嚼している。

(ファイツくんを無害な人間だと判断したのか、もしくはこのアップルパイを非常に気に入ったのか……。なるほど、いつも作っていると豪語するだけのことはある)

自分とて手作りの菓子を与えることはよくあるが、それでもここまで味わって食べることはそうそうないのだ。そうそうどころか史上初ではないだろうか。いったいどのような手順でアップルパイを作ったのかが不思議だ、是非とも今後の参考にしたいものだ。そう思いながらフタチマルを見守っているファイツの横顔を見つめる。ふと、脳裏にはとある記憶が蘇った。そういえば、彼女には苦言を呈されたばかりだった。ものは試しにその言葉を実践するのもいいかもしれない。

「ファイツちゃん。このアップルパイ、すっごく美味しそうだね!」
「……えっ!?」

微笑ましいと言わんばかりに目を細めていたファイツは、弾かれたようにこちらを見た。元から大きい瞳は更に大きく見開かれている。その青い瞳は、困惑で揺れていた。

「…………」
「…………」

まだ甘い匂いが立ち込めているキッチンに漂ったのは沈黙だ。”眉間を寄せるのは疲れる”なんて言ったファイツはぐぐぐっと眉根を寄せて、おまけに両手の指を触れ合わせる始末だった。

「ラ、ラクツくん……。その……。急にどうしちゃったの?」
「嫌だなあ。キミがそうしなよ、って言ったんじゃないか。眉間に皺を刻まないようにしなきゃって思うと、自然とこうなっちゃうんだよね」

嘘ではない、本当のことだった。子供らしい笑顔を振りまいて、女の子に親切で。懐かしき”ラクツ”の仮面を被ったラクツは、爽やかな笑みを貼り付けたまま言葉を紡ぐ。

「ボクは別に甘い物は好きでも嫌いでもないけど、本当に美味しそうに見えるなあ!ねえ、良かったらボクに……」
「えっと、ラクツくん……」
「何だい?」
「……やっぱり、いい。ごめんね、変なこと言っちゃって。いつも通りの、そのままのラクツくんでいて……?何か、その……。……すっごく変……」
「……だろう?」

”ラクツ”の仮面を瞬時に捨て去ったラクツは、”だから無意味だと言ったんだ”とばかりに溜息をついた。彼女も彼女で、はああっとこちらに負けず劣らずの深い息を吐き出した。

「もったいないよ、ラクツくん。コックさんだけじゃなくて、きっと俳優さんにもなれるよ!ラクツくんがどっちになっても、全力で応援するから!」
「その気持ちだけはもらうが、断固拒否させてもらう。ボクは警察官以外の道を歩むつもりはない」
「うう……。やっぱり?」
「ああ」
「そうだよね……。前にそう言ってたもんね……。……あれ?どうしたの、フタチマルさん」

ファイツの声に釣られて、ラクツもまた足元へと視線を落とす。流石にこれ以上ここで食べてはいけないと理解しているのか、彼がそれ以上アップルパイを食べたいとせがむことはなかった。しかしその代わりなのか、オーブンの中をじっと覗き込んでいる。フタチマルに倣ったファイツが、くすくすと笑い出した。

「ふふ……。それも食べたいの?焦げちゃってるけど、それでもいい?」

自分もまた腰を屈めたラクツは、彼女がおかしそうに笑うのも無理はないと思った。フタチマルはオーブンに残ったアップルパイの欠片を食べたいが為にオーブンを熱心に覗いていたらしい。余熱で行き過ぎた焼き目が付いていたが、それでも構わないと言いたげに彼はこくんと頷いた。やはり、アップルパイを相当気に入ったらしい。好きにしろと言外に告げながら頷いてやると、また忍び笑いを漏らしたファイツはオーブンを開けた。

「待っててね、あたしが……。……熱っ!」

声を上げたファイツは、伸ばしたばかりの右手を引っ込めた。目で確認せずに取ろうとした所為で熱い部分に触れでもしたのか、彼女が左手で押さえた部位は目に見えて赤くなっていた。流水で火傷した部位を冷やしながら、ファイツがはあっと溜息をつく。

「またやっちゃった……。よくやっちゃうんだよね……」
「こんな位置に置いているから火傷するんだ。もっと高い位置に変えればいいだろう」
「うん……。でも、ポケモンさん達が覗けるようにしたくて……。今日は来なかったけど、おやつが出来るのをここで待ってる子もいるんだよ。低い位置じゃないと皆が覗けないでしょう?」
「…………」

ファイツの返しで一瞬言葉を失ったラクツは、程なくして溜息を吐いた。そういえばそうだった。この娘はポケモンのことばかり気にする子だった。単なるお人好しではない、超が付く程のお人好しだ。

「……あ。そうだ、ラクツくん。さっき、何か言いかけてなかったっけ?ほら、”良かったら”……って」
「…………」
「ラクツくん?」
「あ、ああ……。……ファイツくん、ボクにアップルパイの作り方を教えてくれないだろうか。フタチマルの為に、今後の参考にしたくてな」
「……はえ?」

小首を傾げたファイツにまったく同じ文言を告げると、彼女は曖昧に頷いた。蛇口を捻って水を止めた彼女は、納得がいっていないのかどこか浮かない表情をしている。

「その、でも……。あたしが教えて、本当にいいの?あたし、おっちょこちょいだよ?アップルパイ作りだって、時々失敗しちゃうこともあるんだよ?」
「ファイツくんが抜けていることはとうに知っている。……しかし、それでもいい。フタチマルがこれ程までに食に執着したのは初めてのことなんだ。ファイツくんが作るアップルパイのレシピをそのまま再現すれば、これから先もあのような表情が見られるかもしれない」
「…………」

今この瞬間に眉間の皺が存在しないことに微塵も気付かないラクツは、ファイツがはっきりと頷いてくれることをただただ祈っていた。自分は警察官でもあるが、同時にポケモントレーナーでもあるのだ。大事な相棒の為に、出来ることは何でもしてやりたかった。

「ただでとは言わない。充分な謝礼は払うつもりだ。いくら払えばいい?」
「あ、お金はいいの!えっと、あのね……。その代わりに、なんだけど……」
「ああ」
「あのね……。ご、ご飯作りをあたしに教えてくれないかなあ……?出来れば和食がいいんだけど……っ」

金の代わりに何を言われるのかと思ったら、ファイツの口から飛び出したのはそんな言葉だった。少々呆気に取られたラクツは、目を瞬いた。正直言って、もっと違うものを所望されるのかと思っていたのだ。具体的にはダイヤモンドやパールなどの宝石類や、もしくは高価なブランド品辺りだ。

「……そんなことでいいのか?ボクは宝石類を望んでも構わないと思っているんだが」
「そんなことじゃないよ!すっごく美味しかったもん!それに、宝石なんてもらったら逆に困っちゃうよ……っ」
「しかし、ボクでいいのか?キミが許すなら、それこそ本業のコックをここに呼んでも……」
「ううん、いいの。あたしはご飯作りを教えてもらう方がいいの!他の誰かじゃなくて、ラクツくんに教えてもらいたいの!!」

はっきりくっきり言い切ったファイツは、いつの間にやらずいっとこちらに詰め寄っていた。そんな彼女に迫られたラクツは、無意識に後退した。ファイツは笑っていないにも関わらずどうしてか自分の心臓が早鐘を打っていることを自覚しつつ、その事実から目を背けるかのように嘆息する。釈然としない部分はあるが、彼女がそれを望むなら断る理由もないわけで。

「では、そうしようか。ボクはキミに和食作りを教える。キミはボクにアップルパイ作りを教える。それでいいか?」
「うん!」
「……もっとも、ボクはあくまで警察官であってコックではない。上達するという確約は出来ないがな」
「ううん、きっと上手く作れるようになると思う。ラクツくんだって、美味しいアップルパイを焼けるようになるよ」
「どうしてそう言い切れる?」
「何となく!」

根拠もなくそう言い切ったファイツが、「短い間だけどよろしくね」と言いながら手を差し出して来る。何にしても、これで契約成立だ。自分よりかなり小さな手をしっかりと握り返しながら「こちらこそよろしく頼む」と返したラクツの心臓は、やはり激しく音を立てていた。