育む者 : 020
甘い、辛い、苦い、渋い、酸っぱい
(ああもう、美味しい……っ!本当に美味しいよぉ……っ!)いつもよりかなり早めの朝ご飯を食べながら、ファイツは心の中で最早何度目になるか分からない叫び声を上げた。最初はちゃんと口に出して美味しさを伝えていたのだけれど、他でもないラクツ本人に「騒がしい」と言われてしまったので泣く泣く我慢することにしたのだ。もぐもぐと咀嚼しながら、何度も何度も美味しいと声に出さずに連呼する。分かっていたことだけどラクツの手料理は美味しい。本当に本当に美味しい。
(ラクツくんって、何でこんなに料理上手なんだろう……?ラクツくんの手料理なら、いくらでも食べられちゃうよ……!)
そんなことを思いながら、口の中の物をごくんと飲み込む。今さっき胃の中に送った食べ物は鮮やかな黄色のだし巻き卵だ。後の楽しみに取っておいたおかげで冷めてしまっているけれど、それでもふわふわの舌触りだった。おまけに、噛んだ瞬間に出汁が口の中で溢れ出すような美味しい美味しい卵焼きだった。あまりの美味しさで、唇からは自然と溜息が漏れる。甘い卵焼きしか作ったことのないファイツにとって、だし巻き卵の美味しさはまさに衝撃的だったのだ。
もちろん、美味しいのはだし巻き卵だけではなかった。2回目にしてラクツの手料理に胃袋をがっちりと掴まれていたファイツは、目の前に並べられた料理に箸を伸ばした。だって、本当に本当に美味しいのだ。そして同時に不思議でならなかった、どうしてこんなにも美味しい料理を、あれ程手際良く作れるのだろう?ラクツくんは本当にすごいと改めて思いながら、美味しい物を食べられる幸せを噛み締める。にんじんの煮物はあっという間に完成したのに味がしっかりと染み込んでいて柔らかいし、野菜たっぷりの味噌汁も出汁が効いていて深みのある美味しさだった。そして、何と言ってもお米だ。芯が残っていたはずのお米は艶々と輝いていて、一粒一粒が信じられないくらい甘くて、一度は失敗したことがまるで嘘のように美味しかった。
(ダケちゃんも、マフォクシーさんも、アギルダーさんも……。皆、夢中で食べてるなあ……)
一緒に暮らしているポケモン達が無我夢中でご飯を食べている光景がふと目に留まって、ファイツの笑みは自然と深くなった。きっと、いい匂いに釣られたのだろう。普段より早い時間にも関わらず、実にいい食べっぷりをしている。お箸を持った右手が思わず止まってしまうような、本当にいい食べっぷりだ。皆が皆していつもよりずっと食いつきが良かったのだけれど、ファイツの心には一点の曇りもなかった。ファイツは元々、ポケモン達が喜ぶ姿を見るのが大好きなのだ。それが一緒に住んでいるポケモン達なら尚更だ。だから微笑ましいとか良かったねという気持ちにはなっても、ラクツに対する妬みや僻みが生まれるはずもなかった。
(だって、こんなに美味しいご飯なんだもん。当たり前だよね)
ファイツはうんうんと何度も頷いて、視線を真正面へと戻した。自分達とは対照的に、ラクツもフタチマルも黙々と食べている。昨日も、そして今も、ラクツはフタチマル以外のポケモンを頑なに出さなかった。つまり今現在のラクツの手持ちポケモンはフタチマルだけなのだろう。他のポケモンはどうしたんだろうと思いながら、ファイツはラクツの隣に座っている水色のポケモンをじっと眺めてみた。”おや”であるラクツに似たのかそれとも元々そういう性格だったのか、背筋をびしっと伸ばして食べている姿がやけに印象的だった。
(フタチマルさんって、ラクツくんが作ったご飯をいつも食べてるのかな……?あんなに美味しいご飯が毎日食べられるなんて、いいなあ……)
3時のおやつはいつも通り自分が作る予定なのだが、上手く作れたとしても果たしてこの子が食べてくれるかどうか。ちょっと不安になったファイツがなおも見つめ続けていると、フタチマルと目が合った。そのつぶらな瞳が唯一手を付けていない物へと移ったから、にっこりと笑いかけたファイツは慌てて目を逸らした。後でまとめて食べようと思って放置している、辛うじて魚の形を保っている物体だ。黒焦げになっているとはいえ食べ物を粗末にするわけにはいかないし、皆に嫌な思いをさせたくなかったファイツは全部自分1人で食べると決めているのだけれど、苦いと分かり切っているものを一気に食べるのかと思うだけで何とも憂鬱な気分になる。
(ああもう、恥ずかしいよう……っ!ラクツくんなら絶対に焦がさないんだろうなあ……)
彼と自分の比べ物にならない料理スキルの差をまざまざと突き付けられたような気がして、ファイツははあっと溜息をついた。この際黒焦げの物体のことは忘れよう。そう何度も自分に言い聞かせて、長いこと空中で止まっていたままだった手をやっとのことで動かした。
(う~ん……。次はどれにしよう……?)
贅沢な悩みでしかないのだけれど、どれもこれもあまりに美味しい所為で次に何を食べればいいのか迷ってしまうのが困りものだ。黒焦げの何かを意図的に避ける形でぐるぐると彷徨っていた視線が、鮮やかなオレンジ色で固定される。そうだ、次は煮物を食べよう。几帳面なことに面取りまでされていたにんじんを練習の末に上手く使えるようになった箸で掴んで、口の中に放り込む。途端に優しい甘さとほんの少しの辛さが口いっぱいに広がって、ファイツはまたしても溜息をついた。最初に感じた甘さはお米のそれとはまた違う甘さだ。それに、絶妙なピリ辛具合だった。全部食べるのがもったいない、誇張抜きにそう思いながら向かいの席に座るラクツへと思いを馳せる。大失敗した料理を美味しいものへと蘇らせてくれたのは、目の前の彼なのだ。お礼はもう告げたけれど、うるさいと言われそうだけど、何度だって「ありがとう」と声に出して言いたい……。
「……何だ?」
にこにこと微笑みながらラクツのことを見つめていたら、溜息混じりにそう告げられた。おまけにこれ見よがしに眉間に皺を刻まれたけれど、ファイツはめげなかった。彼が険しい表情をするのはいつものことなのだ。眉間に皺を寄せているからといって、別に怒っていたり不機嫌というわけでもないのだろう。多分だけど。
「……ねえ、ラクツくんって警視さんなんだよね?」
「ああ。そう言っているだろう」
「だよね……。……なんか、もったいないなあ……」
「もったいない?……何がだ?」
今度はその単語を口に出したファイツは「だって」と言って、そこではあっと息を吐き出した。彼が警察官であることはもちろん知っているのだけれど、それだけに留めるのは正直言ってかなり惜しい才能だと思う。
「何度も言うけど、ラクツくんのご飯って本当に美味しいんだもん……。コックさんに転職しても充分やっていけそうなのになあって……。ほら、皆喜んで食べてるよ?」
「皆が喜んで食べている、か。……しかし、そことそこに例外がいるようだが」
「ダ、ダケちゃん!何やってるの!?それにマフォクシーさんまで!」
確かにラクツの言う通りだった。ダケちゃんは彼を睨んでいるようにしか見えなかったし、マフォクシーもマフォクシーで不機嫌というかかなり険しい顔付きをしているように見えた。それぞれ完食していたものの、2匹共が”仕方ないから食べてやっている”と言わんばかりの瞳をしている……。
「ダケちゃん、ラクツくんに攻撃しちゃダメだからね!マフォクシーさんだって……っ!」
慌てて席を立った拍子に椅子が真後ろに倒れたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。今にもラクツに飛びかかりそうなダケちゃんをどうにか宥めたファイツは、マフォクシーの様子をはらはらしながら見守った。何もないならそれでいいが、少しでもマフォクシーが攻撃しそうな素振りを見せたら話は別だ。何としても間に割って入るつもりでいるファイツは、勝手に滲み出た唾をごくんと飲み込んだ。嫌な想像をしてしまった所為なのだろうか。飲み込んだ唾は、やけにすっぱい味がした。
(やだやだ!あたしったら何考えてるの!?)
止せばいいのに思い浮かべてしまった光景を、泣きそうになりながら振り払う。彼がまたしても傷付くなんてとても耐えられない。そんな未来は絶対にあってはならないのだ。
「やはり、ボクは部屋ではなく庭先に……。……フタチマル。お前、何をしている?」
「…………えっ?」
その場にそぐわないラクツの困惑したような声ではっと我に返ったファイツは、思わず間の抜けた声を出した。確かに存在していたはずの黒焦げだった物体が、気付けば跡形もなくなっていたのだ。その代わりに、渋い表情をしているフタチマルが自分の席の傍に立ち尽くしているのが見えた……。
「きゃあっ!!フタチマルさん、大丈夫!?」
極度に緊張していたこともあって数テンポ遅れて事態を悟ったファイツは、脱兎の如く駆け出した。お風呂場に置いてある洗面器を引っ掴んで、慌ててリビングへと舞い戻る。フタチマルは黒焦げになった元・焼き魚を、自分の代わりに食べてくれたのだ。
「無理しないで!吐き出してもいいからね!」
顔の真下に洗面器を滑り込ませながらそう言ったら、フタチマルは首をふるふると横に振った。どうやら既に飲み込んでしまったようで、何も残っていないぞとでも言いたそうに口元を何度も指差している。
「これを飲め。水だ」
ラクツが差し出したコップを受け取ったフタチマルが、並々と注がれた水をひと息で飲み干した。だけどそれでも苦さは口の中に残っているのか、とうとう舌まで出したフタチマルの表情は何とも苦しそうだ。溜息をついたラクツが懐から取り出した丸薬によってフタチマルの表情が元通りになるまでの間、ファイツは「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返した。心優しいポケモンに向かって、何度も何度もその言葉を繰り返した。