育む者 : 018
がんばれブレックファースト
ぴかぴかに磨かれたコンロの前で、ファイツははあっと溜息をついた。真っ黒なフライパンから真っ白な煙がもくもくと立ち昇っていることを認めたくなくて、現実から逃げるように目を瞑る。だけど無言の抵抗は長続きしなかった。何も見えなくなったことで、鼻を刺す嫌な臭いを却って感じる羽目になってしまったのだ。とうとう耐えられなくなったファイツは、閉じたばかりの目を開けた。そして、ぐぐっと眉間に皺を寄せる。どう頑張って解釈しても成功とは言えなかった。はっきり言ってしまえば失敗以外の何物でもない……。「またやっちゃった……」
現実を認めざるを得なくなったファイツの唇から、言葉が勝手に飛び出した。のろのろとした動作で、閉め切っていた窓へと手を伸ばす。換気の効果はすぐに表れた。嫌な臭いと白い煙は瞬く間になくなった、だけどこの現実は消えてくれない。明るくなり始めた空とは対照的に暗い気持ちになったファイツは、がっくりと肩を落とした。今度もダメだった。性懲りもなく、自分はまたしても料理を失敗してしまったのだ。いったいこれで通算何度目の失敗になるのだろう?
「……何で失敗しちゃうんだろう……」
どういうわけか黒焦げになってしまった魚を睨みつけながら、弱々しく呟いた。ベッドに入った時点で朝ご飯のメニューは和食にすると決めていた。どちらかと言えばイッシュ地方ではマイナーな料理なのだが、ファイツは和食が好きだった。数年前に母親に連れて行ってもらったレストランで初めて和食を食べた時の衝撃は、今でもはっきりと思い出せる。残念なことにそのレストランは潰れてしまったらしいのだけれど、その美味しさにすっかりはまってしまったファイツは、定期的に和食を作るようになったのだ。
だけど、決して上手く作れるわけではなかった。和食を作ること自体は好きなのだが、どうしてか失敗することの方が圧倒的に多いのだ。要領が悪いという自覚はある。少しくらい料理に手間取ってもいいように、うんと早起きした結果がこれだ。少し手間取ったというレベルではなかった。朝食作りに取りかかってからかれこれ1時間は経つはずなのに、ちっとも進んでいないのだ。これではそもそもまともなメニューが出来るか怪しいところだ。悔しくて情けなくて、ファイツはまたしても深い溜息をついた。
「あ……」
声を上げたのは、タイマーの音が耳に飛び込んで来たからだ。結果を確かめたい気持ちと確かめたくない気持ちがぶつかり合ったものの、結局勝ったのは前者の方だった。おずおずと手を伸ばして鍋の蓋をそっと開けた瞬間に、湯気が勢いよく立ち昇る。それが煙ではなかったことと嫌な臭いがしなかったことにまずは安堵したファイツは、胸をどきどきさせながら味見用のスプーンを手に取った。ひと口分だけを掬って、口の中に放り込む。掬ったそれは炊き立てのご飯だった。
「…………」
ご飯を咀嚼したファイツの眉間に刻まれたのは深い皺だった。何となくそうじゃないかとは思っていたけれど、やっぱり思った通りだった。魚はものの見事に焦がしたが、こちらは火加減が弱過ぎたらしく、ご飯にはしっかりと芯が残っていたのだ。頑張れば食べられなくはないけれど、美味しいとはとても言えないご飯だった。レストランやスーパーで売られているご飯とは雲泥の差だ。
(やっぱり、パンとサラダにしておけば良かったなあ……)
噛めば噛む程美味しくなさが強まるご飯を何とか飲み込んで、ファイツは深く項垂れた。今更にも程があるのだけれど、自分の選択を後悔したのだ。失敗する可能性が低い簡単なメニューにしておくべきだったのに、どうして難しいと分かっている和食に手を出したのだろう?そう自問したファイツは、だけど分かってるでしょうと自分自身を嘲った。
何のことはない。つまり、自分は見栄を張ったのだ。お客さんであるラクツとポケモン達の為に、豪勢な朝ご飯を作りたかったのだ。きっとまだ2階で寝ているであろうラクツが昨日自分にしてくれたことと、まったく同じことをしたかったのだ。”目が覚めたら、テーブルの上には美味しそうな料理がずらりと並べられていました”。昨日散々迷惑をかけたことへの罪滅ぼしの意味も込めて、あの光景を自分だけの力で再現したかったのだ。
だけど実際に出来た料理と言えばどう見ても黒焦げの魚と、芯がものの見事に残ったご飯という散々なもので、ファイツは理想と現実は違うことを身を持って思い知らされることとなった。これから本格的な味噌汁作りに取りかかるわけなのだけれど、それだって上手くいくかどうか分からない。品数だって少ないし、料理の出来は最低レベルだしで、今やファイツは込み上げて来る涙と必死に戦う始末だった。料理そっちのけで泣くのを我慢していたファイツははあっと息を吐き出した。そうだ、どうせここには自分しかいないのだ。誰にも迷惑をかけないのだから、思いきり泣いてもいいのではないだろうか……。
「物音がするから何かと思えば、こんな早朝から料理をしていたのか。てっきり泥棒でも入ったのかと思ったぞ」
「きゃあっ!」
どうせ、ここには自分しかいない。そうに違いないと思っていたのに、しかし現実はそうではなかった。あまりの驚きで泣きたい気持ちが一瞬で吹き飛んでしまったファイツは、そろりと後ろを振り返った。黒い服に黒いズボンを着た、黒ずくめの恰好をした彼と目が合う。
「ラ……。ラクツくん……っ」
彼の名前を上擦りながら口にする。自分が「何度も叩いてごめんなさい」と言った相手だ。大食いだと思われたことがどうしても恥ずかしくて、暗い夜道でラクツの胸板を何度も叩いた。その時は憤慨と恥ずかしさしかなかったのだけれど、時間の経過に比例して罪悪感もどんどん強まることとなり、風呂掃除をする頃には完全に後悔の念に押し潰されていた。だからファイツは「さっきはごめんなさい」と言って、面と向かって頭を下げたのだ。「別に気にしていない」と言ったラクツは、足早に下に降りてしまった。そんな彼を呆然と見送ったことは記憶に新しい。
「お、お、おはよう……っ!」
「……おはよう」
盛大につっかえてしまった朝の挨拶は聞き流されることはなかった。良かった、ちゃんと返してくれた。無視されなかったことにホッと胸を撫で下ろしたファイツは、ラクツの顔をじっと見つめてみた。こんな時間に起きたにも関わらず、彼はかなり引き締まった表情をしているように見えた。大あくびを何度も噛み殺していた自分とは大違いだ。
「キミは朝型なのか。正直意外だな」
「い、いつもはもうちょっと遅くまで寝てるんだけど、今日は特別で……」
「そうか。どこかに外出するつもりなのか?」
ラクツの声が聞こえていなかったわけではなかった。だけどファイツは、何も返さなかった。彼と2人きりで顔を合わせるのは何となく気まずかったというのもあるが、どうして彼がここにいるのだろうという疑問で頭の中がいっぱいになっていたのだ。だって、ようやく太陽が顔を出したばかりなのだ。具体的に言うなら朝の5時を少し回ったところだ。ポケモン達だって皆ぐっすりと眠っているし、彼のフタチマルだって多分寝ていることだろう。それなのに、ラクツだけがどうして?
「そういうわけじゃない、けど……」
ファイツはそこで口を噤んだ。自分の後ろにあるものを、ラクツには見られたくないと思ったのだ。自分とは比べ物にならない程料理上手である彼には、特に見られたくなかった。彼の意識が失敗作に向かないようにと祈りながら、気を逸らすかのようにわたわたと大袈裟に腕を動かした。
「そ、それより……。その、よく眠れた?」
「いや。正直、よく寝付けなかった」
「…………」
淡々としたラクツの返しで、ファイツはまたも言葉に詰まった。自分の部屋と彼が使っている客室は同じ2階にある上距離も近いのだが、部屋の壁はかなり厚いと聞いている。多くのポケモン達と生活するのだからと、騒音がなるべく響かない家を業者さんに探してもらったのだ。だけど、彼は寝付けなかったとはっきり言ったわけで……。
(や、やっぱりあたしの所為……?もしかして寝言とか言っちゃった?それともすっごくいびきをかいてたとか……?やだ、どうしよう……っ!)
男の人であるラクツを泊めることに躊躇いは微塵もない、だけど寝言やいびきがすごい娘だと思われることには大いに躊躇いがあった。ついでに言うなら、暴力女だと思われるのも嫌だった。どうして寝付けなかったのかを訊きたい。だけど、もしもキミのいびきの所為だと告げられたらどうすればいいのだろうか。謝る他ないのだろうとは思うのだけれど、きっと一生立ち直れない。どうしようどうしようと頭を悩ませる傍らで、黒一色の服装であるラクツが足を前へと踏み出した。彼が自分の横を通り過ぎた瞬間に、ファイツははっと我に返った。「見ないで」と慌てて彼を止めようとしたが、既に手遅れだった。
「和食か。そういえば、昨晩米を買っていたな。この地方では珍し…………」
多分、ラクツは”珍しい”と言おうとしたのだろう。だけど、彼はその続きを口にすることはなかった。鍋とフライパンの中身を覗き込んだまま、石のように硬直してしまっている。覗き込んだということはつまり、焦げてしまった魚も芯が残った美味しくないご飯も、しっかりばっちり見られてしまったわけで……。
「………………」
料理が上手いラクツは自分が作ったメニューについて何も言わなかったけれど、彼が何を思っているのかは沈黙したことからしても明らかだ。絶対に絶対に”料理が出来ない女”だと思われたに決まっている。料理下手のレッテルを貼られたファイツは、宙に伸ばした腕を力なく下げた。恥ずかしいのと情けないのと悔しいのとで、顔が赤くも青くもなっていることをぼんやりと感じ取る。それは何かを言いたそうにしているラクツが目線だけを自分に向けている事実が、逆に辛くて仕方がなかった。近所迷惑になるから実際には泣かないけれど、だけど思いきり大泣き出来たらいいのにとファイツは思った。