育む者 : 016
大人っぽくて意地悪な人
(うう、真っ暗……。知らなかった、ここって夜だとこんなに暗くなるんだ……)眉根を寄せたファイツは暗い夜道を歩きながらそう零した。目的地まではこの道を行くのが最短だからという理由であまり使わない道を歩いているわけなのだけれど、街灯がない所為で本当に真っ暗なのだ。国際警察官であるラクツが地元民の自分より地理に明るいことにすごいと感心するどころではなかった。神様に祈るかのように胸の前で両手をぎゅうっと握り締めたファイツは、のろのろと歩いた。急ぎたいのはやまやまだ。だけど、どういうわけか意思とは裏腹にスピードが出なかった。熱いコーヒーをご馳走してもらったことで身体は温まったはずなのに、地面に凍り付いたかのように足が上手く動かないのだ。何だか身体まで重いような気がしてならないのは、自分の考え過ぎなのだろうか。ファイツは思わず身震いした。どういうわけか背筋の震えが止まらないことといい、全身が重いことといい、まるで”何か”が自分のすぐ傍にいるような……。
「ラ、ラクツくん!」
猛烈に嫌な予感がしたファイツは、先を歩くラクツの背中に向けて半ば必死に言葉を投げかけた。「何だ」と返してくれた彼は止まってこそくれなかったけれど、それでもいいとファイツは思った。どんな形でもいいから彼と話がしたかった。そうすれば、絶対に気が紛れるはずなのだ。そうに違いないと思ったファイツは後ろを何度も振り返りながら歩いた。その所為で前を歩く彼との距離はじわじわと広がりつつあるのだけれど、背に腹は代えられない。だっていかにも”何か”が、はっきり言ってしまえばおばけが出そうな夜道ではないか。
(も……。もし本当におばけが出たらどうしよう……!)
ポケモンでないただの虫も苦手なのだが、ポケモンでないおばけだって同様に苦手であるファイツの肩は、かたかたと震えた。いっそのことラクツに自分の後ろを歩いてもらえば、少なくとも今よりかは安心出来るのではないだろうか。そう思った瞬間に背後でがさりと音がして、ファイツは反射的にその場にしゃがみ込んだ。
「きゃああああっ!」
しゃがむのと同時に、悲鳴が唇から勝手に飛び出した。ファイツはせめてもの抵抗とばかりに両目を思いきり瞑った。もしおばけが本当に出たとしても、これなら絶対に見えることはない。見たくないものは見なければいいのだ。
「何をやっているんだ、キミは。近所迷惑にも程があるだろう」
「だ、だって……っ!何か、音がして……っ」
「大方、葉が風で待った音ではないのか?」
真っ暗になった視界の中で、ラクツの静かな声が響き渡る。間近で聞こえるその声色は、どう好意的に解釈しても呆れていて。彼の言う通り、葉っぱか何かの音であって欲しい。そう思いながらゆっくりと目を開けて、そろりと顔を上げてみる。やっぱりというべきなのか、そこには眉間に皺を刻んだラクツが立っていた。しかも彼は、自分の後ろにそれはそれは鋭い目線を向けている……。
「ラ、ラクツくん……っ!あたしの後ろ、誰もいないよね!?大丈夫だよね!?」
見たくないものは見なければいい。そんなことを思っておいてなんだけれど、どうにも気になったファイツは縋り付くようにそう叫んだ。やや間が空いて「見た限りでは誰もいないな」という言葉が聞こえて来たから、ファイツは心の底からホッとした。彼からの否定の言葉が欲しかったのだ。
「よ、良かったあ……」
「しかし、キミも気になったのか……。やはり、思い違いではなさそうだな」
「キ、キミもって……?」
「ん?……ああ。ずっと気になっていたんだが、どうも誰かに見られているような気がしてな」
「いやあ……っ!……や、やっぱり出たんだ……っ!!」
ホッとしたのも束の間、やっぱりおばけが出たに違いないと確信したファイツは上擦った声を上げるとその場にへたり込んだ。半泣きになった自分とは対照的に平静そのものの顔付きをしていた彼が、怪訝そうに首を傾げた。何を言っているのか、という目付きで。
「”出た”?キミはいったい何の話をしているんだ?」
「だ、だから……!お、おばけに決まってるじゃないっ!」
「……おばけ?」
「あたし、呪われちゃったりするのかなあ……っ。憑りつかれちゃったらどうしよう……!」
「…………」
ファイツはがたがたと震えながら、ここにはいない友達に心の中で助けを求めた。くさとどくタイプのダケちゃんは”きのこのほうし”や”しびれごな”など、相手の自由を奪うわざをたくさん覚えているのだ。ポケモンのわざがおばけに通じるかは分からないけれど、こんな時こそダケちゃんがいてくれたら良かったのにとファイツは思った。何だか今にも取り憑かれそうな気がしたから、おばけを振り払うかのようにぶんぶんと頭を振る。
「何をやっているのかと思えば……。キミはそんな些細なことを気にしていたのか。トレーナーズスクールで幽霊ポケモンと触れ合っていたと記憶しているが、ただの幽霊は苦手なのか?」
「ポケモンは平気なの!そ……それに些細なことじゃないもん!ラクツくんはおばけが怖くないの!?」
「幽霊がいようがいまいが、視認出来ない以上関係ないことだろう。それに、そのような質問をボクにすること自体がずれていると思うが」
「…………あ」
ファイツは目を見張った。そうだった。今の今まで忘れていたけれど、そういえばこの人は……。
「……”怖い”とか、”かわいそう”だとか……。ラクツくんは、今でもそういう気持ちが分からないの?」
「ああ。一部の感情以外は理解出来ない」
「…………」
「とにかく、急ぐぞ。店が閉店したら、キミだって困るだろう」
「う、うん……」
一部は分かると言っていたけれど、ラクツは今でも感情の大部分が理解出来ない人間であるらしい。その事実を改めて告げられたことでそっと目を伏せたファイツは、相変わらず重い足をどうにか動かしてラクツの後を追った。そう、今はスーパー・ヒオウギとは別の、食品やら日用品を売っているスーパーに行く途中なのだ。”そもそもあたしがあんなに食べなければ本日2回目の買い物に行かなくて済んだのに”と、ファイツは自分の行いを恥じた。いくら美味しかったからとはいえ流石に食べ過ぎだったと、後悔が今になって押し寄せる。
「あのね……。今度はあたしが荷物を持つからね。買い物で使ったお金だって、ちゃんと立て替えるから」
「キミの好きにしたらいい。だが、途中で落としてもボクは知らないぞ。キミは色々と危うい娘だからな」
「……あたしって、そんなに危なっかしい……?」
「否定は出来ない。ファイツくんは色々と危機感が薄過ぎる」
「…………」
ラクツの発言の真意をよく理解していないファイツは、”あたしにだって危機感くらいあるもん”と心の中で文句を言った。口に出さなかったのは、こんなところで言い争いをするのは嫌だと思っただけのことだ。
「はあ……」
ファイツはしばらく無言で歩いていたものの、ふと溜息を漏らした。ラクツがいてくれるとはいえ、やっぱりこの暗闇がどうにも怖くてならなかったのだ。スーパーにたどり着くまでにおばけに呪われたり憑りつかれたらどうしよう、そんな不安がどうしても消えてくれない。
「ラクツくん……。スーパーに行くまで、お喋りしてもいい?あたし、もう怖くて……」
「ああ。歩を過度に緩めないのならな」
「うん……」
彼とお喋りして少しでも気を紛らわしたいし、頭の中に浮かんだ嫌なものの存在も消し去りたい。そしてあわよくば、ラクツのことをもっと知りたい。何日間になるかは分からないけれど、今日限りでぷつんと切れるはずだった彼との縁はまだ繋がっているのだ。もちろん酷く細い繋がりだとは思う、だけど完全には切れていないわけで……。
(うん、そうだよね……。これって、ラクツくんのことを知るチャンスだってことだよね……!)
確かに気を紛らわしたいと思ったのは事実だ。だけどそう思ったのも束の間、ファイツはそれじゃあもったいないと思うようになっていた。分からないことだらけのラクツを知る、せっかくの機会ではないか。
「あのお店のコーヒー、すっごく美味しかったね……!」
何と言っても、真っ先に挙げられるのはコーヒーの味だろう。あのお店で飲んだ、ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒー。メニュー表には載っていなかったから特別に注文することになってしまったけれど、まろやかなミルクと上品な砂糖の味が苦みの効いたコーヒーと見事に調和していて、あれは本当に美味しかった。
「各人で味覚が違う以上、その感想には同意しかねるな。個人的には悪くない味だと思ってはいるが」
「…………」
だけどラクツの返しは素っ気ないもので、ファイツはぐっと言葉に詰まった。”それを美味しいって言うんじゃないの?”と言いかけて、だけど無理やり飲み込んだ。繰り返すが、こんなところで言い争いをしたくはなかったのだ。口では絶対にこの人に勝てない。ファイツにはそんな確信があった。
「……ラ、ラクツくんはあのお店によく行くの?」
「よくと言える程頻繁に足を運んでいるわけではない。物理的にも不可能だ。精々数回程度だが、客があまり来ない店だから相対的には常連だと言えるか」
「そ……。そう、なんだ……。あのお店、ちょっと分かりにくいところにあるもんね……。あんな場所に建ってて大丈夫なのかなあ……?」
「さあ、どうだろうな。あのカフェの経営戦略からすると、ファイツくんのその心配はまったくの的外れだな」
「経営戦略って?」
「あえて人の目に付きにくい場所に店を構えている上、品数も絞っている。何より厳選した素材を使用しているとメニュー表に記載されていただろう。徹底的な厚利少売だ」
”見て分からないのか”。直接告げられたわけではないけれど、ファイツには彼のそんな言葉が聞こえるような気がした。相も変わらず素っ気ないラクツの返しに怯みかけて、だけどぶんぶんと首を横に振った。せっかく彼と話しているというのにマイナス思考に囚われてどうする。
「そっか……。ラクツくんの言う通りだよね、確かにどの飲み物もいい値段してたよね……。あたし、何回もコーヒーの値段を見ちゃったもん」
「びっくりしちゃった」とわざと明るく言ったファイツは、気を取り直すとあのお店に思いを馳せた。話題を切り替えたくてそう言ったわけではなかった。あのカフェで過ごした時間は1時間にも満たないけれど、とにかく驚きの連続だったのだ。あのコーヒーの美味しさにも驚いたし、行き付けのカフェで頼む飲み物の2倍はするであろう値段の高さにも驚いた。何より、彼がブラックコーヒーを平然と飲んでいた事実にも驚かされた。
「あ、そうそう!そういえばラクツくんって、コーヒーをブラックで飲むんだね!砂糖もミルクも入れないなんてすごいね!」
驚きと尊敬で、弱々しかった声が自然と大きくなる。甘い物が好きな自分には、コーヒーをブラックで飲むなんて芸当は逆立ちしたって出来ないに違いない。
「キミはいちいち大袈裟だな。ブラックコーヒーを飲める人間など大勢いるだろう」
「それはそうなんだけど!でも、口直しに甘い物も食べないなんて本当にすごいよ……っ!」
「ああ……。そういえば、キミはケーキが載っているページを食い入るように見つめていたな」
「……はえ?」
「2つ頼もうが3つ頼もうが同じことだ。別に食べても良かったんだぞ」
「…………」
「何なら、今からあの店に戻っても構わない。買い物なら朝食前に行けばいい」
「………………」
ファイツは立ち止まった。口をあんぐりと空けて、彼が言った言葉の意味を吟味する。今からあの店に戻るかと、ラクツは確かにそう言った。絶対に聞き間違いなどではなかった。いや、出来ればそうであって欲しいけれど。
「そ……。それってどういう意味なの、ラクツくん!?」
怒りと何より恥ずかしさの所為なのだろうか。気付けば、足はすっかり動くようになっていた。元通りになった足でずんずんと歩いて、かなり開いていた彼との距離を一気に縮める。
「言葉通りの意味だ。キミはどうやら、よく食べる娘……」
「わ、わざわざ言わないでよ!!ラクツくんの意地悪っ!!バカバカバカ!!」
最早半泣きになったファイツは、ラクツの前に出るとずいっと詰め寄った。詰め寄るだけじゃ足りないと思ったから、彼の胸板をポカポカと叩く。
「……何をする」
「だって!ラクツくんが、あんなこと言うから……っ!」
ファイツは恥ずかしさで耳まで赤くしながら、心外だとばかりに頬を膨らませる。マフォクシーに危害を加える気も自分から無理やり引き離す気もないと、ブラックコーヒーを飲みながらラクツがそう言い切ったことは記憶に新しい。あたしを殴らないのと訊いたら心外だと返されたけれど、とにかくファイツは心の底からホッとしたものだった。ブラックコーヒーも飲めるし、落ち着いたお店に来ているのに堂々としているし、何よりマフォクシーを赦してくれた。そんな彼のことを大人っぽい人だと思ったし、マフォクシーさんを赦してくれてありがとうと何度も何度も感謝したものだ。だけど、その感謝の気持ちは今やすっかり消え去っていた。だって女の子に面と向かって大食いと言うなんて、いくら何でもあんまりだ。
「何故ボクが叩かれるのか理解出来ないな。キミが言え、と言ったんだろう」
「ほ、本当に聞きたくて言ったわけじゃないもん!揚げ足ばっかり取るんだから、もう!」
最後にバシッと彼の背中を叩いて、ファイツは身体の向きをくるりと変えた。そしてその勢いそのままに、大股でずんずんと歩き出す。あのカフェに入る時、彼はレディーファーストだと言ってドアを開けてくれた。あの気遣いは、いったいどこへ行ってしまったのだろう?
”謎だらけのラクツくんのことをもっと知りたい”。その気持ちに嘘偽りはないけれど、何だか彼のことがますます分からなくなったような気がする。そう思いながら、ファイツはスーパーまでの道を突き進んだ。少しだけ大人っぽくてやっぱり意地悪な人の物言いたげな視線を、身体中に受けながら。