育む者 : 015

常識と非常識
ファイツの家から歩くこと、約15分。だいたい1.2kmの道のりを歩いた末に目的地へとたどり着いたラクツは、隣にいる娘に向けて呆れと困惑の入り混じった視線を向けた。例によってポカンと口を開けながら立ち尽くしているファイツを一瞥して、これ見よがしに溜息をついてやる。ここは単なるカフェでしかないのだ。少々見つけにくい場所にあるというだけで、建物自体は何の変哲もないと言い切れる。最早見慣れた光景だとはいえ、それでもラクツは”相変わらず理解出来ない娘だ”と思った。このカフェのいったいどの部分にそこまで驚愕する要素があったのだろうか。

「何を呆けているんだ、キミは」
「あの……。……ここってカフェ、だよね?」
「見れば分かるだろう。カフェ以外の何に見えるというんだ、まったく」

字が読めないのかと内心で言いつつ、ドアを開けて半歩だけ踏み出す。その姿勢を保ったまま振り返ると、眉根を寄せた彼女と目が合った。その青い瞳は、不安だと言わんばかりにゆらゆらと揺らめいている。

「ラクツくん……?」
「レディーファーストだ。先に入りたまえ」
「あ……。う、うん……」

入店するや否や、男性店員に「いらっしゃいませ」と出迎えを受けた。角度は目算できっちり30、相変わらず非の打ち所がない綺麗な礼をするものだ。父親代わりである国際警察長官に礼儀作法を叩きこまれているラクツは、店員の案内に従って歩きながらそんなことを思った。どうでもいいと言えばそうなのだが、自分の前を歩く娘が店員とは対照的な姿勢であることがやけに気になった。

「どうぞ」

好都合なことに自分達以外に客がいない所為なのか、それとも異性を伴って来店した所為なのか。理由など知ったことではないが、通された席は窓際だった。そういう目的で訪れたわけでもないので、ラクツは窓の外には目もくれずに腰かけるとメニュー表を手に取った。そのまま向かい側に座った娘の前に差し出すと、どういうわけかファイツはびくりと肩を震わせた。何故だ。

「よろしければこちらをどうぞ」
「いや、いい。構わないでくれ」
「かしこまりました」

別の席から新たにメニュー表を持って来た店員を手で制止する。言外に必要以上に近寄らないで欲しいと告げると、店員はしっかりと一礼した後で「ごゆっくりお過ごしください」と言い残して去って行った。必然的に場には自分達だけが残される、漂うのは沈黙と落ち着いたBGMだ。

「あ、あの……。ラクツくんが先でいいよ?」

メニュー表を眺めたと思ったのも束の間、ファイツは何とも意味不明なことを言い出した。わざわざ渡したというのにこの娘はいったい何を言っているのだろうか。そう思いながら彼女の顔に目を向けると、ファイツはまたしても大袈裟な程に両肩を震わせた。だから、何故だ。

「それは出来ない。長官からこういう場では異性を優先するようにと教えられている。ファイツくんが先に選びたまえ」
「あ、はい……っ。……でも、あの……っ」
「何だ?」
「う……。その、あたし……。お金、持ってなくて……。慌てて出て来ちゃったから……」

目を逸らしながらおずおずと紡がれた言葉で、ラクツは納得したとばかりに軽く頷いた。ファイツの今しがたの反応は、所持金がないことを気にしていたからこそのものだったらしい。

「ボクが全額払う。それで何の問題もないだろう?」
「あ、あるもん……っ」
「どこに?」
「だ……。だって、その……。あたし、ラクツくんを怪我させちゃったんだよ……?それなのにご馳走してもらうなんて、ラクツくんに悪いよ……っ」
「別に構わない。ファイツくんを急き立てたのも、付いて来るように促したのも、どちらもボク自身だからな。ついでに言うなら、ボクに危害を直接加えたのはマフォクシーくんだ。キミではない」

そう告げても、ファイツの表情は変わらなかった。それどころか、今にも泣き出しそうに瞳が揺らめいたように思えてならなかった。しつこいようだが、何故だとラクツは思った。

「マフォクシーさんが……。本当にごめんなさい……」
「…………」

言葉に付随して脳裏に浮かび上がったのは、マフォクシーのあの目だ。してやったと言わんばかりの、どこか勝ち誇ったような瞳をしていた。その見立て自体は間違ってはいないものの、今はまだ前提を履き違えているラクツは、いつものように眉間に皺を刻んだ。

(手強い相手ではあるが、フタチマルが残って監視してくれている。もしかしたらポケモンバトルを繰り広げているか、あるいは既に叩きのめしているかもしれないな)

叩きのめしているというのは言うまでもなくフタチマルがマフォクシーを、という意味だ。家に残りたいと目で訴えて来たフタチマルの意思を汲んだラクツは、それならばと唯一の手持ちポケモンを同伴せずに出かけたのだ。これでもフタチマルとは強い信頼関係で結ばれているという自負はある。”まじめ”な彼のことだ。きちんとマフォクシーの監視をしているか、もしくは監視が発展した結果としてポケモンバトルを行っているかもしれない。いくら何でも、自宅が全焼する危険を冒してまで炎を使う程愚かでもないだろう。そんなわけでフタチマルに対しては主に超能力を使うだろうが、彼ならどうとでもなるだろう。つまりどう転んでも、勝者がフタチマルであることは目に見えているわけで。それならそれでいいとラクツは思った。確かに酷い仕打ちを受けたのはラクツなのだが、ポケモン同士で決着をつけるならそれに越したことはない。
それでも一度抱いた警戒心が簡単に消えることはなかった。自分から近付く真似はしないつもりだが、相手の方から攻撃をしかけて来たら話は別だ。フタチマルがいるならいいが、1人でいるところを狙われる場合もあるだろう。ほのおとエスパーという希少なタイプを持つマフォクシーにこの身だけでどう対応すればいいのだろうか。彼女には構わずに脳内で戦略を立てていたら、ファイツが小さな悲鳴を上げた。だから、いったい何故だ。四度目の”何故だ”を心の中で呟いたラクツは、溜息交じりに「キミに頼みがある」と告げた。未だに練り上げられていないマフォクシーへの対応策は、とりあえず頭の片隅へと追いやった。

「ラ、ラクツくん……。……あたしは何をすればいいの?ただカフェに連れて来たかったわけじゃないよね?」
「無論だ。どうせならコーヒーでも飲みながら話そうと思っていたが、先に本題を済ませようか。……ファイツくん」
「は、はい!」

姿勢を正したファイツに倣ったわけではないけれど、ラクツもまた更に背筋を伸ばした。頼み事をするのだからと、ともすれば逃げ出したいと言わんばかりに揺れ動く彼女の目をしっかりと捉える。”何を言われるんだろう”という文字が顔にはっきりと書いてある娘を見つめて、ラクツは息を吸った。

「数日間で構わない。ファイツくんの家に泊まらせて欲しい」
「……え?」

流れるように、ひと息で言葉を紡ぐ。そう告げた途端に目を見開いたまま固まってしまった娘を、ラクツはただまっすぐに見据えた。この反応をされることは容易に想像がついたから、呆れの眼差しは向けなかった。

「ホテル代の節約にもなるし、何より気になることがあるからな。もちろん日中は必要以上に関わらないと約束する。それに、夜も家の中で寝かせろとは言わない。庭先でいい」
「庭先って……?」

言うべき事柄を事前に決めていたこともあって、言葉は難なく口から飛び出した。もっと長く硬直しているかと思ったが、予想外にもファイツの回復は早かった。それでもわけが分からないのだろう、実に不思議そうな表情で小首を傾げている。

「言葉通りの意味だ。寝床は庭先で構わない、と言ったんだ。当然だろう?」

自分がどちらかと言えば非常識な人間だという自覚はある。だけどそれでも、そういう関係でもない歳頃の男女が同じ空間で過ごすのは問題があるという常識は持っている。何せ、今のファイツはただの民間人なのだ。任務に関係していない女性に配慮する常識と心の余裕はある。……しかし。

「そんなのダメだよ!庭先なんかじゃなくて、部屋に泊まらなくちゃ!」
「………………は?」

自分の配慮と気遣いは、他でもないファイツ自身によってぶち壊された。”部屋に泊まっていって”などと実にとんでもないことを言い出したファイツは、続けて「春でも夜は冷えるんだよ」と続けた。更には「風邪引いちゃうよ」となんて、ラクツからすれば何とも的外れなことを言っている……。

「………………」
「いいから、泊まっていって!お部屋なら空いてるから!毎日ちゃんと掃除してるし、布団だって干したばっかりだし……」
「……いや、しかし……。ボクは男で、キミは女だろう」
「え、うん。……それがどうかしたの?」
「…………」

ラクツはその返しに絶句した。まさか、”それがどうかしたの”なんて言葉が返って来るとは思わなかったのだ。

(……この娘には危機感というものがないのだろうか。無防備にも程があるんだが……)

ファイツは紛れもない女の子なのに、自分から男を懐に招き入れるも同然の発言をしているのだ。これでは襲われても文句は言えないとラクツは思った。いや、断じて、絶対に襲うつもりはないけれど。

「……だが、空き部屋があるということは、誰か泊まりに来るような間柄の人間がいるのではないのか?見たところ、1人で暮らしているようだが」
「え?……えっと、たまにね。えっと……。ママとワイちゃんと……。あ、それにホワイトさんとか……」

流石に提案を素直に受け入れられなくて困惑しながらも反論したら、そう返された。ワイちゃんというのは女友達のことだろう。彼女の口から出て来る人名らしき単語はどれも女性のそれだ。つまりファイツは、今現在恋人がいないことになるわけで……。

(……いや、そんなことはどうでもいいだろう)

ファイツに恋人がいようがいまいが知ったことかとラクツは思った。それこそ、実にどうでもいいことだ。それなのに、自分は何故こんなことを思ったのだろうか。

「大丈夫だから。……ね、いいから泊まっていって?」
「……ファイツくん」
「うん、何?」
「ボクの方から言い出しておいてなんだが、本当にいいのか?」
「うん!だって、ラクツくんがそう言ったんでしょう?それに、出来ることなら何でもするからって言ったのはあたしだもん!」

どうやら本当に気にしていないファイツは、「大丈夫だよ」だとか「泊まってもいいよ」と何度も重ねて来る始末だった。しかしこうもあっけらかんと頷かれると、果たして本当に自分が泊まっていいのかという疑問が生まれて来る。そして、それからも押し問答は続いた。結局は根負けする形になったラクツは、危機感と常識が欠如している娘と。更には彼女の意見を受け入れた自分自身に向けて、盛大な溜息を送った。