育む者 : 014

被害者と加害者
(本当にごめんなさい……っ。ラクツくん……っ!)

両の瞳に涙を溜めたファイツは、暗い夜道を歩きながら謝った。「本当にごめんなさい」と、声に出さずに謝った。黙ったまま先を歩くラクツの背中に向けて、それはもう必死な程に頭を下げた。家からここまでの短い道のりで、既に数え切れないくらいの小さな「ごめんなさい」を口にしていることは分かっている。度を超えて謝るのは却って逆効果になりそうだとも思う。けれどそれでも、ファイツには謝ることしか出来なかった。だって、それ以外に何をすればいいというのだろう?

(……もう、地面に埋まりたい……)

土下座したいという衝動に駆られたファイツは、舗装された地面に目線を落とした。急に”土下座したい”なんて思ってしまったが、実際は既に土下座していたりする。やっとのことで事態を把握したファイツは、片膝を付いたラクツに向けて「痛い思いをさせてごめんなさい」と繰り返し繰り返し土下座して謝ったのだ。お気に入りのスカートとついでに靴下がコーヒーで汚れてしまったような気がするし、何なら今この瞬間も汚れているんだろうなとは思うのけれど、そんなことはどうでも良かった。コーヒーの染みが目立たない色合いの服を着ているからという理由ではない。今の自分の脳内を大幅に占めているのは、”ラクツくんに誠心誠意謝りたい”という気持ちなのだから。もっとも、その気持ちが彼に届くかどうかというのはまた別の話なのだけれど。

(ラクツくん、何も言わない……。やっぱり怒ってるよね……)

何も言わないどころかラクツは溜息もつかなかった。もちろん立ち止まってもくれなかった。まさしく無反応のまま、ただまっすぐに歩き続けている。そんなラクツの背筋がまっすぐに伸びているのが何故だか目について、ファイツはそっと息を吐いた。決して現実逃避をしているわけではないけれど、自分の姿勢が悪いことが気になって仕方なかったのだ。自分のことに気を回している場合でないことは重々承知の上で、知らず知らずのうちに猫背になっていた背筋をぴんと伸ばす。

(どこに行くんだろう……。何だか、町の外れに向かってるような気がするんだけど……)

ちょっとだけ見え方が変わった景色をぼんやりと眺めながら、思う。「少しいいか」というラクツが発した一言に半ば引きずられるようにして家を出て来てしまったわけなのだけれど、肝心の行先をまだ訊いていなかったのだ。あれから最低でも10分は経っているように思う、だけどどうやら目的地はまだ先であるらしい。いつもならいるはずのダケちゃんが自分の傍にいないというだけで、こんなにも不安感に襲われるとは思わなかった。それに、彼が行先を告げないことが不安感を更に煽った。ファイツは一度は閉じた唇をおずおずと開いた、今なら答えてくれるだろうか?

(……ううん。やっぱり、訊けないよ……)

訊いたところで答えてくれなさそうな気がしてならなくて、喉から出かかった言葉を無理やりに飲み込んだ。元々遅かった歩みが更に遅くなった所為で彼と自分との距離は少しずつ開いていくばかりだったのだけれど、ファイツは何も言わなかった。厚かましいと分かってはいるけれど、本当は”待って”と言いたかった。”出来れば赦して欲しいの”と言いたかった。それに、”何か言ってよ”とも言いたかった。だけどそんな言葉達を口に出来るわけがなくて、代わりとばかりに唇を強く噛んだ。静かな夜道を歩いている上にこの距離だ。大きい声でないにしろ、いくら何でも自分の「ごめんなさい」が彼に聞こえていないはずがない。つまりラクツが自分を無視していることは明らかだったが、そうなっても仕方ないとファイツは思っていた。

(当たり前、だよね……。あたしの所為で痛い思いをさせちゃったんだもん……)

気の毒にもマフォクシーの鋭い爪痕がくっきりと残ったラクツの右腕が、街灯に照らされたことで暗闇に浮かび上がる。絆創膏を貼ろうとしたら首を横に振られてしまったから、そのままにしているのだ。その瞬間に罪悪感で胸がずきんと痛んだが、”ラクツくんの感じた痛みはこんな小さなものじゃない”と言い聞かせて、ともすれば被害者意識に浸りそうになった自分自身を激しく非難した。彼は爪痕が残るまでマフォクシーに掴まれた上に、超能力でキッチンの壁に叩き付けられてしまったのだ。驚いただろう、苦しかっただろう。それに何より痛かっただろう。申し訳なさで、ファイツはぐっと奥歯を噛んだ。キッチンにこもっていて知らなかったとはいえ、まさかそんなことをする子だとは思わなかったとはいえ、マフォクシーの好きにさせていた自分の責任でしかない。全てはマフォクシーの”おや”である、ファイツ自身の責任だ……。

「…………」

罪の重さをまざまざと思い知らされたファイツは、とうとう歩みを止めた。自分には泣く資格なんてないと分かってはいるけれど、何だか思いきり泣きたいと思ってしまったのだ。”弱虫”だとか、”自分勝手”だとか、”あたしのバカ”だとか。思いつく限りの自分を罵倒する言葉を頭の中で呟きながら、ファイツはまたしても心の中で「ごめんなさい」と言った。謝る以外にラクツの感じた痛みと苦しみを受け止める方法を、まるで思い浮かばなかったのだ。もしも彼が腹いせに自分を殴ると言うならそれでも構わなかった。それに、慰謝料を払えと言うならあるだけを払う心づもりでもいた。彼にはまだ言っていないけれど、自分が出来ることならファイツは何でもするつもりだった。
だけど同時に、”マフォクシーを自らの手で傷付けろ”とか”マフォクシーを捨てろ”という要求にだけは答えられそうもないとファイツは思った。出来ることは何でもするという決心と思いきり矛盾していることはもちろん分かっている。だけど、それだけはどうしても出来ないと自分の心が叫んでいた。もっと別の罰、例えば明日のおやつ抜き程度の軽いものならともかくとして、そういった類の罰はどうしても与えられそうにないと思った。”解放の専門家”という大仰な二つ名が自分に付いているからという理由ではなくて、単純にあの子と離れたくなかったのだ。
あんなことをしてしまったけれど、マフォクシーは決して悪い子ではないのだ。そのことを、ファイツはよく知っていた。確かにきまぐれではあるしちょっとだけいたずらもする子ではあるけれど、断じて悪い子ではないのだ。あんなことをしたのには絶対何かしらの理由があるに違いない、そうに決まっているはずなのだ。マフォクシー自身がそう望んでいるならまだしも、ファイツは”マフォクシーさんと離れたくない”と強く思っていた。もちろんそれは、一緒に生活させてもらっているどのポケモンにも当てはまることなのだけれど。

(やだ……。何で泣いてるんだろう、あたし……)

嫌な想像をしてしまった所為だろうか。いつの間にか視界がぼやけていることに気付いて、ファイツは愕然とした。泣きたいのは、泣く資格があるのは、真の被害者であるラクツの方なのだ。それなのにどうして自分が泣いているんだろうとファイツは思った。だって、自分は加害者でしかないのだ。そんな自分が泣いていいはずがないとばかりに目をぎゅうっと瞑って、ごしごしと乱暴に涙を拭う。

「…………え?」

止めどなく流れる涙と格闘していたファイツは、声にならない声を上げた。涙で濡れた瞳をゆっくりと開くと、いつの間にか足を止めていたらしいラクツと目が合った。彼ははっきりとした、どこか呆れたような眼差しを自分に対して向けている……。

「あたし、どうすればいいの?痛い思いをさせちゃったお詫びに何でもするから……っ。だから、だからね……っ!」

ラクツが自分を見つめている。その事実を悟った瞬間に、言葉が堰を切ったように口から飛び出した。「だからね」の後で脈絡のない、しかも最早何度目になるか分からない”ごめんなさい”を絞り出すようにして告げたファイツは、そこでものの見事に言葉に詰まってしまった。厚かましくも”どうかマフォクシーさんに危害を加える言葉をラクツくんが言いませんように”とひたすら願ったファイツは、半ば必死にラクツを見つめた。しばらくそうしていたら、ラクツがはあっと深い溜息をついた。

「……何でもする、か。本当にそう思っているのか?」
「う、うん……。その、あたしに出来ることなら……」
「そうか。ならば、このまま付いて来たまえ」
「……うん」

頷くや否や、話は終わったとばかりにラクツが歩き出した。そんな彼の後を慌てて追いながら、”あたしとマフォクシーさんはいったいどうなっちゃうんだろう”とファイツは思った。分かっている、彼は歴とした被害者なのだ。対する自分は加害者でしかないことはもちろん分かっているのだけれど、不安と恐怖で胸がどうしようもなくどきどきと高鳴った。