育む者 : 013

赤い目のボディーガード
「……流石にそろそろ勘弁して欲しいんだが」

きつねポケモン・マフォクシー。ほのおとエスパーという2種類のタイプを合わせ持つポケモンにされるがまま腕を引っ張られていたラクツは、幾度目かの引っ張りで降参とばかりにそんな言葉を吐き出した。どういうわけか執拗に引っ張られる所為で、右腕がいよいよ悲鳴を上げていた。一部分がすっかり赤くなった右腕に目を留めて深く嘆息する。時折爪を立てる所為で、広範囲にマフォクシーの爪痕がくっきりと残っている有様だった。

(……痛いな)

眉をひそめたラクツは、内心でそう口にする。そう、”痛い”のだ。もちろん無視出来ない程の痛みではないものの、こうも執拗に痛みが続くとなると流石に不快だった。

「……っ」

無理にでもマフォクシーを振り解こうとしたら、逆に強く掴まれてしまった。しかもこちらの言葉がどうやらお気に召さなかったようで、思いきり爪を立てられた。その手から逃れようとした結果として更なる痛みに襲われる羽目になったラクツは、眉間を寄せながら襲い来る痛みに耐え忍んだ。

(流石にかなり痛いな……。ボクが痛覚も理解出来ない人間であったなら、こういう時に役立つんだが)

自身の感情を理解する機能が基本的に欠如している自分は、十中八九”普通から外れている人間”なのだろう。その自覚は大いにある、あり過ぎると言ってもいい程にある。どうせおかしいのだから、いっそ感情だけでなく痛覚も理解出来ない身でありたかった。自身を卑下する意味ではなく1人の警察官として有用性があるからという理由で、そんなことを思考する。痛みは生命維持に関わる重要なシグナルだと理解しているが、痛覚があるおかげで苦労することもそれなりに多いのだ。その考えに付随してか任務を完遂出来なかった事例が勝手に浮かんで来たから、ラクツは思いきり眉間に皺を寄せた。確かあれは前々回の任務だったように思う。あの時利き腕の骨が折れてさえいなかったら、国際指名手配犯の集団をただの1人も取り逃さなかったものを。

「…………」

痛みと悔恨に支配されつつあったラクツだが、突き刺さる視線を感じて最早何度目になるか分からない深い溜息を吐き出した。言うまでもなくその視線の出所はマフォクシーだった。このままだと他所事を考えているのだと見なされて、更に爪を立てられるかもしれない。それはご免被りたかったラクツは無理やりに思考を切り替えた。好き好んで痛みを味わおうとする人間も世の中には存在すると分かってはいるが、自分は生憎そういう趣味を持ち合わせてはいないのだ。

「フタチマル。いいか、お前は何もするな」

今にも”シェルブレード”を繰り出しそうなフタチマルに向けて制止の指示を出したラクツは、マフォクシーを見下ろした。勝てる見込みがないからという消極的な理由で告げたわけではなかった。むしろこの2匹が戦った場合、勝つのはフタチマルの方だろうとラクツは踏んでいた。何せこちらはみずで、相手はほのおタイプなのだ。著しいレベルの差でもない限りは、みずタイプがほのおタイプに強いというのは世界の常識だ。単純にタイプ相性だけを取っても、そして戦闘経験を照らし合わせてみても、勝つのは間違いなくフタチマルの方だろう。ならばどうしてわざわざ待機の指示を出したのかというと、それは偏に単純な理由からだった。何のことはない、ラクツはマフォクシーというポケモンに興味を惹かれたのだ。何を思ってその燃えるような瞳をこちらに向けているのか、その理由を知りたいと強く感じただけのことだ。後は、強いて言うなら満腹と暖かさから寝入ってしまったポケモン達を起こすのは気が引けたというところか。底なしかと思われた食欲をようやく満たしたらしいダケちゃんの眠りは特に深いようで、鼻提灯を膨らませて実にぐっすりと寝入っていた。リビングで寝ていないポケモンはフタチマルとマフォクシーくらいのものだ。そのマフォクシーの瞳を、ラクツは改めて見つめた。

(……決して懐かれているわけではない。しかし、敵意ばかりを向けられているとも思えない。いったいこれはどういうことなんだ?)

この状態を表す言葉として最も適切なのは、さしずめ”戯れている”辺りだろうか。しかしそれでもこの状況に説明がつかないと、ラクツは首を傾げた。何せ自分がこのマフォクシーに接したのは正真正銘これが初めてなのだ。もちろん過去に接触した記憶も知る限りでは存在しなかった。それなのに、何故こうもこのポケモンに構われるのかが本当に分からない、そして何より右腕が痛い。流石にその事実に困り果てたラクツは、「マフォクシーくん」と言った。”おや”であるファイツに倣うなら「マフォクシーさん」と呼ぶのが道理なのだろうし、マフォクシーもマフォクシーでその呼び名を至極当たり前のように受け入れていることは明らかだった。しかしこのような仕打ちを受けた以上、”さん”を付ける気には到底なれないというのもまた事実なのだ。

「……何が望みだ?何をすれば放す気になる?」

マフォクシーに対して危害を加えるつもりはない。しかし、向こうが説得におとなしく応じるとも思えない。マフォクシーの望みを叶えるまでは、この右腕が解放されることは多分ないのだろう。そう判断したラクツがそう尋ねてみたところ、すぐに掴んでいない方の手でとある場所をぐいぐいと指し示された。1枚の板で隔てられたとある場所というのがキッチンであることを知って、ラクツは盛大な溜息をついた。あれだけ食べていたというのに、何なら美味しい美味しいと言って食べていたファイツと同程度の量を食べていたというのに、どうやらこのマフォクシーはまだ食べ足りないらしい。

「だから、何度言えば分かるんだ?無理なものは無理だ。いくらせがまれても存在しないものは出せないぞ。食材だってほとんど使い切ったし、何より今はファイツくんが使っている最中だろう」

そうなのだ。マフォクシーが指し示したキッチンは、今この瞬間も家主であるファイツが占領しているのだ。脳裏に浮かぶのは決意に満ちたあの娘の顔だった。頬杖をつきながらこちらの様子を見ていたファイツは、食後のお茶を淹れるのだと唐突に言い張った。どうしても淹れたいと言った彼女の勢いに根負けしたラクツは、それならばとブラックコーヒーを所望した。そうしたら、「絶対に美味しいコーヒーを淹れるからね」と言われてしまった。わざわざキッチンとリビングの境目であるドアを閉める程の気合の入りようだ。だからこそマフォクシーも、彼女の目に触れないのをいいことに好き勝手に行動しているのだろう。その結果が一方的な痛みとくっきりと残る爪痕というのは、正直言ってかなり理不尽だとは思うが。

「……!?」

そんなことを考えていたラクツの目の前で、閉じられていたドアが何の前触れもなく開いた。キッチンとリビングの境目には誰もいない。そしてここが室内である以上、しっかりと閉じていたはずのドアが風で開くはずもない。つまりはマフォクシーが”ねんりき”を使ったのだ。そう結論付けた瞬間に身体が意思とは関係なく宙に浮く感覚を抱いたラクツは、抵抗を試みた。しかし、最早全てが遅かった。

「……何を、する……っ!」
「きゃあっ!!」

フタチマルに指示を出す前に、そしてバリアブルロープを鞄から出す前に、”ねんりき”によってキッチンに空中から転がるようにして入る羽目になったラクツは、流石に看過出来ないとマフォクシーを睨みつけた。確かに放して欲しいとは言ったが、こういう形で放されるくらいならあのまま掴まれていた方がまだマシだった。しかし、当のマフォクシーはどこか勝ち誇ったような顔をしている……。

「……っ」

国際警察官として厳しい訓練を日々行っているという自負はある。しかし、その訓練も超能力の前ではまったくの無力だった。その事実を身を持って思い知ったラクツは、顔を歪めながら咳込んだ。受け身を取った上に防御スーツを着ているから衝撃こそそこまでではないが、痛いものは痛いのだ。

「ラクツくん、大丈夫!?いったいどうしたの!?」

気付けば、我に返ったらしいファイツに背中を擦られていた。キッチン内に放り込まれた時の衝撃でマグカップでも落としたのだろうか、辺り一面からコーヒーの匂いが漂って来る。今にも泣きそうな表情で背中を擦って来る娘にとりあえず大丈夫だと答えたラクツは、しかし眉間の皺を更に深くさせた。

(”いったいどうしたの”、か……。ボクの方が知りたいくらいだ、まったく……っ!)

内心で吐き捨てるようにそう呟いたラクツは知らない。同じ空間にいるこの娘に、ともすれば泣きそうなこの娘に。少しずつ、しかしどうしようもなく惹かれていくことを。ひいてはまったく同じ想いを当の彼女からも向けられることを。桜のように儚く終わるはずだったこの娘と、強い絆で結ばれることを。人知れず”みらいよち”を使ったマフォクシーが、自分達の恋のキューピッド役になってやろうと決意したことを。そのボディーガードによって強制的にキッチンに入る羽目になったラクツは、なおも勝ち誇るような笑みを見せているマフォクシーに対して鋭い視線をまっすぐに送りつけた。もちろんその視線に込めたのは敵意と警戒心だ。相手が敵意を向けて来るのなら、こちらも同じものを返すだけだ。

(敵意ばかりを向けられているのではないとボクは判断したが、どうやら思い違いをしていたらしいな。炎に加えて超能力まで自在に操るこのポケモンは極めて厄介な存在だ。今しがたの”ねんりき”は、ファイツくんを護りたいが故に使用したということか?結論を出すのは時期尚早だが、何にせよもっと警戒しなければいけないな……)

”このマフォクシーはこちらに対して敵意を抱いている”。そもそもその前提からして大間違いであるわけなのだが、もちろんそんなことはラクツは知らない。”いくら催促しても彼女の元に向かわない自分に業を煮やして超能力を使った”というのが事の真相なのだが、その事実を知る由もないラクツは、後から振り返ってみれば見当違いにも程がある視線をマフォクシーに向けるばかりだった。