その先の物語 chapter W : 015

きんちょうかん
就寝時間が差し迫る中、ファイツはせっせと右手を動かしていた。1日の出来事をその日の夜に、もっと詳しく言えば就寝時間の直前に書き留めるのがファイツの日課なのだ。どんな小さなことでも何でもいいから、その日思ったことを自由に書こうと決めている。”プリンが美味しかった”とか”リハビリが大変だった”などという、他愛もない日記だ。10分に満たないこの時間は、だけどファイツにとっては大切なものだった。

(可愛い……。何でこんなに可愛いって思えるんだろう?)

右手に持った、クリップに羽が描かれている黒いペンも。そして表紙が薄い水色の、これまた羽が描かれた日記帳も。どうしてか見るだけで笑顔になるくらい可愛らしいそれらの道具は、ラクツが買って来てくれた物だった。まだ声が出なかった頃に「手のリハビリも兼ねて日記を書きたい」と唇だけで頼んだら、次の日には日記帳とボールペンを携えて面会に来てくれた。渡された筆記用具の可愛さに笑顔になったら、優しい笑みを湛えられて穏やかに微笑まれたことを今でも憶えている。頭の中にその光景を思い浮かべていたファイツは、はっと我に返った。その方が集中出来そうだからと、日記を書く時間をわざわざ就寝直前にしたのは他でもない自分なのだ。看護師が見回りに来る前に日記を最後まで書いてしまわなければ。別に途中で終わったところで何があるわけではないのだけれど、中途半端になるのは何となく嫌なのだ。

(……”すっごく緊張しちゃう”、っと……)

思ったことを、思うままに。そして緊張しちゃうと書いたところで、ファイツは動かしていたペンを止めた。そう、ファイツはとてつもなく緊張しているのだ。明日の予定を思い浮かべて、はあっと深い溜息をつく。明日の午後はいつも通りのリハビリが予定されているわけだが、午前中に数人の見舞い客が来ることになっているのだ。プリンを食べ終わった後のことだ。ラクツに引き合わせたい人達がいると告げられた時、ファイツは緊張しながら「はい」と頷いた。声が出るようになった以上は、遅かれ早かれラクツ以外の見舞い客が来るだろうと予想していた。けれど、それでも自分がある程度落ち着くまでは待っていてくれたのだろう。ラクツの気遣いは嬉しかったが、だけど緊張感は消えてくれない。半日以上後のことだというのに、知らない人達が来ると思うだけでどうしようもなく緊張してしまうのは何故なのだろうか。

(えっと、確か……。ホワイトさんと、ヒュウさんと、ペタシさん……だっけ?どんな人達なのかなあ……?)

見舞客の名前を心の中で呟いて、静かに目を伏せる。名前と表面的な情報だけしか知らない人達が来る。間違いなく、自分が忘れてしまった人達だ。ホワイトは仕事仲間でヒュウとペタシは友達だということらしいが、自分にはその記憶が綺麗さっぱりないわけで。否が応でも緊張感と憂鬱感は高まってしまい、またしても深く息を吐き出した。だけどそれでも、心の準備が出来るだけまだいい方だとファイツは思った。事前告知もなしに、たとえば明日の朝になってから「これから見舞客が来る」などと告げられていたら、緊張感の度合いは絶対に今の比ではなかったに違いない。

「多分、あたしを気を遣ってくれたんだろうなあ……。ラクツさんって、あたしと本当に同い歳なのかなあ……?絶対違うと思うんだけど……」

もちろん、ファイツは本気でラクツを疑っているわけでは決してなかった。だけどあまりにも彼が大人びているから、そう感じてしまうだけなのだ。声が音になって口から飛び出したことに苦笑しながら、ファイツは日記帳のページを一番最初まで戻した。罫線が引かれているページに書かれている文字の羅列が目に留まる。それは音では知っているけれど綴りを知らないことに今更気付いたファイツが、ラクツに頼んで書いてもらった彼自身の名前だった。その字は整っていて、相変わらず綺麗だとファイツは感嘆の溜息をついた。何となく気が引けて次のページから日記を書いたわけだけれど、そうして正解だったと強く思う。だって丸文字である自分の字が何だか酷く不格好に思えるくらい、ラクツの字は綺麗でしかなかったのだから。

「本当に綺麗な字……。ね、ダケちゃんもそう思わない?」

肩に飛び乗って来たダケちゃんに話題を振ったら、つーんとそっぽを向かれた。相変わらずの態度にファイツはまたしても苦笑する。険悪とまではいかないが、決して懐いているとは言えない態度だ。自分が長い眠りについている時、ダケちゃんの世話をしてくれたのは他でもないラクツなのだと知っている。ダケちゃんも、少しは友好的になってもいいと思う。そう言ったらまたしてもそっぽを向かれた、本当にどうして?

「もう……。”ダケちゃんがラクツさんに懐いてくれますように”って書くからね?」

そう宣言して、ファイツは言葉通りの文字を日記帳に書き記した。ダケちゃんが見るからに不機嫌になってしまったことには申し訳なく思うのだけれど、思ったことを自由に書くと決めているから仕方ない。続けて”明日の面会が無事に終わりますように”と書き連ねて日記帳を閉じたファイツは、しっかりと鍵をかけた。その日記帳を引き出しの中にしまい込んでから、枕元の電気を消してベッドに横になる。「鍵つきの方がいいだろうと思って」と言いながら日記帳を差し出してくれたことを思い出して、ファイツは微笑んだ。単なる一個人が書いた日記だ。誰に見られるとも思っていないけれど、やっぱり鍵がついているというだけで安心出来る。安心出来るといえばもう1つ。見舞客が数人来ることを思うとどうしようもなく緊張するけれど、だけど一緒にいてくれるとラクツは言ってくれた。彼が傍にいてくれるというだけで、本当に心強いとファイツは思った。頭の中で彼のことを思い浮かべたファイツは、明日の面会が無事に終わりますようにと願った。