その先の物語 chapter W : 014
大人で子供
(うう……っ。本当に美味しいよお……っ!)プリンを食べながら、ファイツは心の中で声高に叫んだ。美味しい、本当に美味しい。あまりにも美味し過ぎて、思わず涙ぐんでしまうくらいだった。これは間違いなく、この1週間で食べた中で一番美味しい食べ物だったと言い切れる。何せ、ここの病院食は味が薄いのだ。薄いというより、正確にはほとんどと言っても良かった。食事が出るだけありがたいからとても文句は言えないけれど、病院食を食べる度に憂鬱になってしまうのもまた事実なのだ。だからこのプリンの美味しさは、ファイツにとって格別だった。ラクツに忠告されたというのもあるけれど、何より少しでも長く味わっていたかったファイツは、プリンをひと口ずつ掬って口に運んだ。そうする度に口の中で甘さが、そして心の中で幸せがいっぱい広がった。
美味しい美味しいと心の中で叫んだファイツは目をとろんとさせながら無我夢中でプリンを頬張っていたのだけれど、不意にはっと我に返った。椅子に腰かけたラクツが、こちらをじっと見つめていることに気が付いたからだ。それは優しい目をした彼は、それはそれは柔らかく微笑んでいて。同い歳なのに自分よりずっと大人びた彼にがつがつとはしたなく食べているところを見られていたのだと思うと、途端にファイツはパニックになった。顔が、一瞬で熱を帯びた。もう恥ずかしくて堪らなくなって、ケホケホと盛大にむせ込んだ。
「ファイツくん!」
その直後だった。それはもう大人びているラクツが、音を立てて椅子から立ち上がった。息苦しさから前屈みになったファイツは、涙目になりながら心の片隅で”ごめんなさい”と謝った。自分はまたしても、彼に余計な心配をかけてしまったのだ。
「……大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくり深呼吸をするといい」
労わるように背中を何度も擦ってくれた彼の声が、鼓膜を震わせる。耳元で聞こえるその声は、擦ってくれる手付きと同じくらい優しかった。言い付け通りにゆっくりと深呼吸をしたファイツの瞳に、じわりと涙が滲んだ。それは単純に咳き込んで息苦しくなってしまったことと、彼の優しさを肌で感じたことから来るものだった。
「無理をするな。まだ息苦しいんだろう?礼を言うなら治まった後にしてくれ。万が一キミが呼吸困難になったとしたら、ボクの精神が持たない」
酷く息苦しかったし、彼に申し訳ないとも思った。だけど、それ以上に嬉しかった。まだむせ込みは続いているけれど、優しいラクツにどうしてもお礼を言いたくて。苦しい息の下で何とか唇を開いたら、溜息混じりで諫められてしまった。ラクツにこれ以上心労をかけたくないと、ファイツはこくこくと必死に頷いた。落ち着かなきゃと言い聞かせて、深呼吸をすることに全神経を集中させる。その甲斐あって、浅かった呼吸はゆっくりと元に戻っていった。
「……落ち着いたか?」
やっぱり優しい声で尋ねて来たラクツに、こくんと頷く。彼が言葉を発したタイミングは、どうにか落ち着きを取り戻してからかなりの時間が経った頃だった。
(もしかして……。あたしがまたむせないように、タイミングを見てから話しかけてくれたのかな……)
呼吸が整ってすぐ話しかけられていたら、どうなっていただろう。最悪、慌てて返事をした結果として再度むせ込む羽目になっていたかもしれない。声に出さずに呟いたファイツの心には、熱い何かが広がった。”ラクツさんは本当に優しい”と、この1週間だけで何度思ったことだろう。もう数え切れないくらい思ったけれど、本当に優しいのだから仕方ないのではないだろうか。ラクツという人は、すごく優しくて。おまけに、すごく大人びている人なのだ。気付けば、自分の手の中にあったプリンの容器は彼の手に握られていた。せっかくのプリンが台無しにならないように、持っていてくれたのだろう。はしたなくプリンを食べた、子供っぽい自分とは大違いだ。そんなことを思いながら彼の顔を見つめていたファイツは、またしても我に返った。
「……あ!ラクツさん、その……っ。あ、ありがとうございました……っ!」
「いや、礼には及ばない。その様子だと、もう大丈夫そうだな」
「は、はい!もう大丈夫ですから……。あ、あと……」
「……どうした?」
「その、迷惑かけちゃってごめんなさい……」
ファイツはぺこりと頭を下げた。もちろん、わざとむせたわけではなかった。だけど彼に余計な気苦労をかけたと思うと、どうしても罪悪感を覚えてしまうのだ。それでなくても、ラクツは1週間連続でお見舞いに来てくれているわけで。そんな優しい彼に謝らずにいられる程、ファイツは図太い性格をしてはいなかったのだ。
(そういえば……。記憶を失くす前のあたしって、いったいどんな性格だったんだろう?)
記憶を失くした経緯や食べ物の好み、趣味については教えてくれた。でも、性格のことは教えられていなかったように思う。一度そう思ってしまうと、ファイツは前の自分がどんな性格をしていたのかが無性に気になってしまった。あまりにも美味しかったとはいえ、プリン1つではしゃぐような、子供っぽい性格だったのだろうか。もう気になって仕方なくて、だからファイツは訊いてみようと改めてラクツに向き直った。
(…………え?)
口を開きかけたファイツは、そのまま固まった。さっきまでは柔らかい表情をしていたはずのラクツが、眉根を寄せていることに気が付いたのだ。彼が酷く苦しんでいるように思えてならなくて、ファイツはおろおろと慌てた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……あ、ああ……」
「ほ、本当に大丈夫ですか……?もしかして、具合が悪いんじゃ……」
「いや、ボクなら平気だ」
「で、でもっ!ラクツさんの顔、すごく苦しそうですよ!?」
「……そうだろうか」
はぐらかしたのか、それとも自分では気付いていないのか。ラクツは「そうだろうか」なんて言ったけれど、ファイツは簡単に引き下がる気にはとてもなれなかった。もしかして”不調を押してお見舞いに来ました”、とかだったりするのだろうか……。そんな場面を想像してしまい、途端にファイツは絶望感に襲われた。
「やっぱり……。……やっぱりあたし、ラクツさんに迷惑ばかりかけてるんじゃ……」
「いや、それはない。万が一にもそれだけはあり得ない」
「で、でも……っ」
「…………迷惑をかけているというなら、それはむしろボクの方だ」
相変わらず苦しそうな顔付きで、ラクツがきっぱりとそう言い切った。「でも」を挟んで続けられた言葉の意味が分からないと首を傾げた自分の眼前に、透明な何かが突き付けられた。彼に差し出されたそれは、食べかけのプリンの容器だった。
「あ……。ありがとうございます……」
お礼を言ってから、ラクツの手から受け取ったプリンを口に運ぶ。甘いプリンは相変わらずの美味しさだったのだけれど、さっきまでのような幸福感は何故だか湧いて来なかった。それに、前の自分の性格について聞こうとしていたことなどは、頭からすっかり吹き飛んでしまっていた。プリンや自分の性格のことより、ラクツのことが気になって仕方がなかったのだ。彼の顔をじっと見つめてみたものの、残念なことに何も読み取れなかった。分かっていたことだけれど、子供っぽい自分は大人びている彼とは違うのだ。
「そんなにボクを見つめても、もう何も出ないぞ」
苦笑しながら答えたラクツの表情は、元の穏やかなものに戻っていた。さっきまで真逆の表情だったことなど微塵も感じさせないような顔付きだ。だけどファイツは、今でも彼は苦しいのではないかという気がしてならなかった。プリンを盾に、彼にはぐらかされたような気がしてならなかった。訊けば、答えてくれるとは思うのだけれど。だけどとても訊く気になれなかったファイツは、そっと溜息をついた。