その先の物語 chapter W : 013

可憐な花
念願叶って特別な娘が長い眠りから覚めたとはいえ、この3年間ですっかり身体に染みついた習慣がそう簡単に変わることはなかった。今日も今日とて病院に向かう途中で日課であるグラシデアの花の購入を済ませたラクツは、とある部屋のドアの前に立った。部屋番号は321、ファイツの病室だ。
いつも通りドアをノックしたラクツだったが、その直後に取った行動はいつも通りとはいかなかった。ドアの取手に手をかけたまま、中途半端に足を踏み出した状態でラクツはその場に留まっていた。断りを入れる前に、音が耳に届いたからだ。心が熱い感情で満たされる。分厚い板で隔てられた空間から聞こえた音の正体は、言うまでもなくあの娘の声だ。ここが病院であることも忘れて、更には「入るぞ」と声をかけることも忘れて。感情のままに勢いよくドアを開けると、愛おしくて堪らない娘がベッドの縁に腰かけているのが見えた。目と目が合った瞬間、彼女の海のように蒼い瞳が三日月型に細められる。

「ラクツさん!今日も来てくれたんですね!!」

慣れない呼ばれ方をされたことで、ラクツは内心で苦笑した。今の彼女が自分をさん付けで呼ぶことは唇の動きで既に知っていたが、改めて口にされるとすさまじい違和感だった。それをおくびにも出さずに「おはよう」と告げると、すぐに「おはようございます」と返された。何でもない極普通の挨拶だったが、ラクツにとっては感慨深い以外の何物でもなかった。目頭が熱くなる、3年振りに聞くファイツの肉声だ。

「……ファイツくん。声が出るようになったんだな」
「はい!これでやっと、普通にお喋り出来ますね!」
「……ああ。そうだな」

そう返して、グラシデアの花の包みを丁寧に破る。購入と同じく、花の交換も最早日課となっていた。新しく購入した花瓶に注がれた水を入れ替えていると、身体に視線が突き刺さった。言うまでもなくそれはファイツから発せられたものだ。苦笑しながら、「どうしたんだ」と尋ねる。気付かれたことが気まずいのか、彼女はばつが悪そうにえへへと笑った。

「えっと……。ラクツさんが勢いよく入って来たから、どうしたのかなって思って……」
「あ、ああ……。……すまない」

そういえば、「入るぞ」と断りを入れていなかった。そのことにようやく気付いたラクツは、花瓶を置いた後で眉間に皺を寄せた。たまたま腰かけていただけだったから良かったようなものの、彼女が取り込み中だったとしたら非常にまずいことになる。医師による回診や、看護師による検温程度ならまだいいかもしれない。これが例えば着替えをしている最中に入室していた場合、どれ程詫びたところで赦してもらえそうもない気がする。驚かせたこととこの娘への配慮が足りなかったことを詫びると、ファイツは慌てて首を横に振った。

「そんな……!”すまない”だなんて、とんでもないです!ラクツさんにはお世話になりっぱなしで、あたしの方こそ謝らなきゃいけないのに……!」
「いや、キミが謝る必要はない」
「だったら、ラクツさんも謝ることないですよ」
「そういうものなのか?」
「そういうものですよ。だから、これでおあいこです!」

両拳をぐっと握ってはっきりとそう言い切ったファイツに釣られて、ラクツもまた微笑んだ。この娘の一挙手一投足が微笑ましくてならなかった。

「それよりラクツさん、前から訊きたかったことがあるんですけど……」
「ん?……どうした、改まって」
「あの、お仕事の方は大丈夫なんですか?あたしが目を覚ましてから今日で1週間になりますけど、毎日お見舞いに来てくれてますよね?」
「…………」

一転しておずおずと問いかけられたことで、ラクツはどう答えたものかと内心で思考を巡らせた。果たしてどう答えるべきなのだろうか?

「それに、昨日も一昨日も……。いいえ、毎日遅くまでここにいてくれてますし……。……あっ!その、ラクツさんが嫌だってわけじゃないんですよ!?毎日欠かさずお見舞いに来てくれるなんて、本当にありがたいなって思ってるんですから!ラクツさんが遅くまでいてくれるって思うだけで、すごく心強いですし……!」

会話の途中で大声を出したファイツは、わたわたと意味もなく腕を動かした。その慌て振りに、自然と苦笑いが漏れる。自分は勘定に入っていないのかとでも言いたそうに拗ねているダケちゃんには気付きもせずに、彼女は言葉を紡いでいる。それはもう、必死な程に。

「ほ、本当です!あたしは本当にそう思ってるんですからね!?」
「どうか落ち着いてくれ。ファイツくんがそう思ってくれているのなら、ボクとしては嬉しい。連日見舞いに来ておいて何だが、キミの負担になっているのではないかと少し不安だったから」
「負担だなんて!……あたしの方こそ、ラクツさんの負担になってるんじゃないですか?ラクツさん、疲れてないですか?あたしの為に、無理してませんか?」

ファイツは眉根を寄せながらぐいっと詰め寄った。全身全霊でこちらを心配するその姿が3年前の彼女と重なって見えて、ラクツは思わず目を細めた。

(再会したばかりの彼女は、ボクの身を何かにつけて案じていた。……記憶を失くしても、そういうところはまるで変わらないな)

例えば、敬語を使うところとか。例えば、こちらを”さん”付けで呼ぶところだとか。そして例えば、それが短時間でも独りになるのをやたらと怖がるところだとか。記憶を失くす前と後とで変わった部分を挙げれば色々と出て来るものの、素直でお人好しというこの娘の本質はまるで変わっていないのだと強く思わされる。そんなことを思いながら、ラクツはファイツを見つめていた。そろそろ答えてやらないと、本気で泣いてしまいそうだ。

「疲労感はない。それに、無理もしていない。……仕事の方も問題はない。今はどの任務も拝命していないからな」

どれも嘘ではない、本当のことだった。この娘といると疲労を感じるどころか逆に癒されるくらいだし、他でもないラクツ自らが望んで見舞いに来ているのだ。仕事の件に関しても、別に嘘は言っていないのだから問題ないだろう。そう言い聞かせて、ラクツは自分自身を納得させた。対するファイツはというと、完全には納得しきれていないのか、じっとこちらを見つめて来る始末だった。

「ほ、本当に本当ですか?」
「本当に本当だ。キミに接していると、ボクは心の底から癒される。重ねて言うが、これは紛れもない本心からの言葉だぞ」
「え……っ」

瞳を見開いたファイツは、そのまま固まってしまった。瞬く間に顔を赤く染め上げて、石のように放心している。十中八九困らせてしまったのだろうが、恥ずかしがる姿が可愛いとラクツは思った。そんな感情を内に秘めながら名を呼ぶと、彼女はやっとのことで我に返った。

「……あ、ええと……。ラ、ラクツさんの負担になってないなら、良かったです……っ」

良かったですという言葉で締め括られた通り、ファイツはホッとしたように息を吐き出した。この2、3日で時折憂いのある表情を見せていたことが引っかかっていたが、まさにこのことを気にしていたのだろう。相変わらず人が善い娘だと、ラクツは苦笑いを漏らした。

「ファイツくん。ボクのことより、キミ自身のことを心配してくれ。声が出たこと自体は喜ばしいが、まさか無理をしたのではないだろうな」
「む、無理してないですよ!昨日の夜、ラクツさんが帰ってから出るようになったんです!最初はぎこちなかったんですけど、一晩寝たら楽に話せるようになってて……!」
「そうか、それなら良かった。リハビリの効果が表れたんだな」
「そうだといいんですけど……。でも、ちょっとだけ残念です」
「何故だ?」

思ってもみないことを言われて、ラクツは眉をひそめた。彼女の質問の意図が掴めなかった。

「だって……。あたしが話せるようになったことを最初に知ったのは、見回りに来てくれた看護師さんだったんですよ?もちろん看護師さんにもお世話になってますけど、どうせならラクツさんに一番最初に知ってもらいたかったなあって……。だってだって、ラクツさんには看護師さん以上にお世話になってるんですから!」

またしてもそう断言したファイツのことを、呆気に取られながらも見つめる。今度は自分が硬直する番だった。まさか、そんな風に思われているとは予想外だった。

「キミはボクを買い被り過ぎだ。ボクは別に、大したことはしていない」
「そんなことないです!ラクツさんがよくお見舞いに来てくれるおかげで、声が出るようになったのかなって……。あたしはそう思ってるくらいで……っ!」
「いや……。この短期間で上手く発声出来るようになったのは、ファイツくん自身が毎日のリハビリを頑張ったからだろう。そんなキミに、これを渡したいんだが」
「えっと……。何ですか?」

鞄から紙袋を差し出すと、ファイツは不思議そうに小首を傾げた。紙袋に書かれている店の名前を、一文字ずつ口に出している。そんな姿すらも可愛いとラクツは思った。

「そうだな……。リハビリを頑張った労いと、声が出るようになった祝いだと思って欲しい。遠慮しないで開けていいんだぞ」
「きっと気に入ると思う」と付け加えたラクツだったが、その言葉が彼女に届いたかどうかは微妙なところだと思った。きゃあっというファイツの歓声で、言葉自体がものの見事にかき消されたからだ。しかしそれも些細なことだ。何せファイツは”気に入った”どころではない、喜色満面の笑みを見せてくれているのだから。

「これ、本当に食べていいんですか!?」
「ああ。医者にもちゃんと許可は取ってあるから、安心して食べてくれ」

そう告げると、ファイツの瞳はきらきらと輝いた。「胃を驚かせないように、なるべく少しずつ食べるんだぞ」という忠告にこくこくと頷いた彼女は、スプーンで掬ったプレミアムプリンを実に味わって食べている。ひと口食べる毎に「幸せです」と言うかの如く頬を緩ませた娘のことを、ラクツはやはり可愛いと思った。