その先の物語 chapter W : 012

真面目で優しい人
ベッドに横たわったファイツは、はあっと深い息を吐き出した。カーテンの隙間から見える空は見事に黒く染まっている。そう、この病院の消灯時間はとっくに過ぎているのだ。明日からリハビリが始まるわけで、だから早く眠らなければいけないと思うのだけれど、そう思えば思う程眠りから遠ざかっているような気がする。だけど、だからといってファイツが何もしなかったわけではなかった。瞳を閉じたりおとなしく横になったりと、自分なりに寝る為の努力を続けてみたりもしたのだ。けれどそれでも、眠気が訪れる気配はやっぱりなくて。無理に寝ようとするのをとうとう諦めたファイツは、またしても深い溜息をついた。

(静かだなあ……)

心の中で呟いた通り、本当に静かな夜だった。誰かが廊下を行き来する音はおろか、風鳴りの音すら聞こえて来ない病室は静寂そのものだ。きっと、眠るには最適の環境なのだろう。だけどまったく眠くならないファイツは、黒い夜空をぼんやりと眺めて夜を過ごした。星すら瞬いていない程の漆黒という色がそうさせるのか、黒い服を身にまとった彼の顔が浮かんで来て、ファイツは3回目の溜息をついた。彼がこの部屋にいないという事実が、何故だか無性に淋しかった。

(……優しい人、だったな)

お見舞いに来てくれたあの人は、本当に優しい人だった。矢継ぎ早に質問されたことに対して嫌な顔1つせず、記憶を失くした自分に色々なことを教えてくれた。話してくれたのは彼自身のことだけではなかった。質問が一通り済んだところで本題の、つまりファイツに関しての様々な情報を話してくれたのだ。食べ物の好き嫌いや趣味から始まって、誕生日の正確な日付けや気に入っていた数々の店や場所に至るまで、本当に様々なことを教えてくれた。パフェや甘い物をよく食べていたこと、あまりに辛い物や苦みがある物は食べられないと話していたこと。9月16日産まれで、ゴチミル座のB型だということ。星を見ることが好きで、賑やかな場所よりかは自然豊かな落ち着いた場所を好んでいたこと。母親は別の地方に働きに出ていてすぐには来れないこと、ポケウッドという施設で女優の仕事をしていたこと。そして学校のクラスメイト達や仕事仲間が、何度もお見舞いに来てくれたこと……。
ポケットモンスター、通称ポケモン。動物図鑑に載っていない、この世界の至る所に住んでいる不思議な生き物のことも改めて教わった。枕元で鼻からちょうちんを無音で膨らませているポケモンを、ちらりと見やる。起こしてはかわいそうだからと何もしなかったが、この子が傍にいてくれるのだと思うだけで心が温かくなった。

(よく寝てる……)

このきのこのような形をしたタマゲタケという種族名のポケモンをそれはそれは大切に育てていたのだと教えられたところで、ファイツはそのタマゲタケと対面することとなった。やっぱり可愛いらしいと思いつつも、自分にとっては初めて見る生物であることもまた事実なわけで。緊張感からつぶらな瞳をしたポケモンの頭をおそるおそる撫でてみたら、ぷにぷにとした柔らかい触感が返って来て、おまけにどう見ても嬉しそうな顔をされたから、ファイツは内心でホッとしたものだった。おずおずと唇だけで”タマゲタケさん”と呼んだら嫌な顔をされたことを思い出して、口角が自然と上がる。あの嫌がり方は本当に露骨だった。ダケちゃんという愛称で呼んでいたと教えてくれた彼も苦笑していたから、そう受け取ったのは自分だけではなかったのだろう。
それから、彼が育てているポケモンについても教わった。今はこの1匹しか傍に置いていないと前置きした彼は、ボール状の道具から水色のポケモンを繰り出した。”どうか、フタチマルくんと呼んでやって欲しい”。そう言われた通り、ファイツは声を出さずにフタチマルくんと呼んでみた。すると、途端に嬉しそうな顔をされた。それだけでなく、撫でて欲しいと自分の頭を指差して来る始末だった。その光景が蘇って、ファイツはまたしても微笑んだ。

(えっと……。確かダケちゃんが”むじゃきでおっちょこちょい”で、フタチマルくんが”まじめでねばりづよい”んだっけ……?)

忘れてしまわないようにと、彼から教えてもらった情報を心の中で呟いてみる。人間がそうであるように、ポケモンもそれぞれ性格が違っていて、おまけに好き嫌いもちゃんとあるらしい。彼から教わったところによると、フタチマルは好き嫌いが特にないようだけれど、ダケちゃんは甘い味が好きで苦い味がダメなのだそうだ。ちなみに、2匹とも性別は♂なのだとか。眠っていた自分の代わりに彼がダケちゃんを世話していたと聞いて、ファイツは何度も頭を下げた。そんな自分に対して、彼は「気にしないでくれ」と言ってくれた。彼のことを優しいと思ったことは記憶に新しい。
色々なことを教えてくれて、ポケモンの世話までしてくれて。それだけでも充分ありがたかったというのに、「何かして欲しいことはないか」とか「疲れていないか」などと、彼は事ある毎に自分のことを何度も何度も気遣ってくれた。しかもこちらの心情を察してくれたのか、面会時間が終わるまで傍にいてくれたのだ。本当に時間ギリギリで、見回りに来てくれた看護師に促されるまで椅子に座っていたくらいなのだ。彼が注意されてしまったことに関しては申し訳なく思うのだけれど、”ひとりぼっちになるのは淋しくて堪らない、出来るだけ長くいて欲しい”と内心で感じていたファイツにとって、これがどれだけありがたかったことか。
その優しい彼は、何と明日も来てくれるのだと言う。”よくお見舞いに来てくれたんですか”と尋ねたら、神妙な面持ちで頷かれた。聞けば、ここに来る度に小さな赤い花を差し入れてくれたのだとか。グラシデアというらしい名の、あの可愛い花だ。萎れやすいことで有名で、何でも水をたっぷり吸わせてやらないと1日持つか持たないかということらしい。花瓶を割ってしまったことを彼に謝られたけれど、ファイツはそんなことは少しも気にしていなかった。むしろ花瓶のことなど告げられるまで完全に忘れていたくらいなのだ。割れてしまった花瓶代わりに使われているコップには、確かに水がたっぷりと注がれていた。そんなにお世話が難しい花なのに、どうして差し入れてくれたんだろう。そう内心で呟いたら、「キミが好きな花だったから」とすぐに返された。その瞬間に、ファイツの心は申し訳なさと嬉しさでいっぱいになった。彼が優しい人だということは何となく分かっていたが、そこまで自分のことを想ってくれているとは夢にも思わなかった。

(そういえば、あたし……。お礼言ってない、よね……?)

された質問全てにちゃんと答えてくれるくらい真面目で、好きだったからという理由だけでお世話が難しい花を持参するくらい優しい人に、お礼を言い忘れた。その事実が、ファイツに重くのしかかる。あれだけ質問をしておきながら肝心なことを言っていないというのは、人としてどうなのだろうか。いや、絶対良くないに決まっている。記憶喪失だからというのは言い訳にならないとファイツは思った。

(……早く、明日にならないかな。ラクツさんに、お礼を言わなくちゃ……)

タマゲタケのことは、ダケちゃんと。そしてフタチマルのことは、フタチマルくんと。それぞれそう呼ぶつもりでいるファイツだけれど、彼……つまりラクツのことは、さん付けで呼ぼうと決めていた。彼の話では自分達は同い歳であるようなのだけれど、ファイツにはとてもそうは思えなかった。もちろんラクツの話を疑っているわけではなかった。彼があまりにも大人びているように思えてならなかったから、単にくん付けをするのに気が引けるだけだ。

(だって、だって……。難しい言葉を使ってるし、雰囲気だって大人びてるし、すごく落ち着いてるし、あたしをあんなに気遣ってくれてたし……)

彼についての印象を指折りながら色々と挙げ連ねる。あんなに大人びた人がクラスメイトだったのだ、きっとクラスでも一目置かれていたに違いない。記憶がないファイツは、まるで思い出せない学校生活に思いを馳せた。自分はいったいどんな学校生活を送っていたのだろうか?

(あたしのことはさっぱり思い出せないけど、ラクツさんは真面目に授業を受けてたんだろうなあ……。それに、きっと成績も良かったんじゃないかなあ……?だって、警視さんなんだもんね。警察官ってだけでもすごいのに、国際的な警察官さんで、おまけに警視さんなんだもん。……やっぱり恐れ多くて、とてもじゃないけどくん付けなんて出来ないよ)

うんうんと頷いて、ファイツは心の中で”ラクツさん”と何度も何度も繰り返した。そうしなければ、何かの拍子にうっかりくん付けで呼んでしまうかもしれない。もしかしたら彼は赦してくれるかもしれないけれど、ファイツ自身が嫌だと思ったのだ。あんなに大人びた人をくん付けで呼ぶなんて、あまりにも失礼過ぎる。
明日から辛いリハビリが待っているけれど、真面目で優しいラクツがまたお見舞いに来てくれるのだ。そう思うだけで、不思議と勇気が湧いて来る。ファイツは頑張らなくちゃと声に出さずに呟いて、気合を入れるかのように拳をぎゅっと握った。