その先の物語 chapter W : 011
傍にいるだけでいい
「そうだな……。特にこだわりはないが、強いて言えば黒だろうか」”あなたのことをもっと知りたいです”。その言葉に違わず、ファイツからの尋問……もとい質問責めはそれからも続いた。最早当初の目的からは完全に逸脱しているわけなのだが、何せ他でもない彼女が訊きたいと強くせがむのだ。内心で苦笑しつつも、別にいいかとラクツは思っていた。”好きな色は何ですか”という問いかけに答えたら、”やっぱり!”と返された。”服が黒いからそうじゃないかと思いました”と唇だけで続けた娘は、どこか得意そうな顔付きをしている。
そんなファイツのことを、ラクツは熱を帯びた目で見つめた。これが他の誰か、例えばヒュウ辺りだったとしたら「ボクの服を見れば訊かずとも分かることだろう」と素気なく返しているところだが、この娘にそうしようとは露程も思わなかった。微笑ましいというか、癒やされるというか。ファイツを見ているだけで、そういう気持ちが湧いて来るから不思議なものだ。
(多分……。これを”愛おしい”、と言うのだろうな)
まさか、自分が他者に対してこのような気持ちを抱くようになるとは夢に思わなかった。この思いがけない変化を、しかしラクツは素直に受け入れていた。捜査対象の異性に対して幾度となく「好きだ」と告げて来た過去を思うと妙な気分になるが、これがラクツにとって正真正銘の初恋だった。
「ああ、色と言えば……。ファイツくんは青色を好んでいたんだぞ」
その言葉に付随して、トレーナーズスクールで潜入捜査をしていた頃の記憶が脳裏に蘇る。人前に出ることが恥ずかしいのか頬を赤く染めたファイツは、青色とグラシデアの花とパフェが好きで、そして星を見ることが趣味なのだと確かに言っていた。次に蘇ったのは、薄い青色のワンピースの代金を彼女の代わりに支払った時の記憶だ。余程嬉しかったのだろう、それは嬉しそうな顔と声で何度も何度も礼を言われたものだ。しかしそれらの記憶すら今のファイツには存在しないのだと思うと、ラクツは何ともやるせない気持ちになった。
(ボクが……奪った)
もちろんラクツ自らが彼女を崖から突き落とした、というわけでは決してない。厳しい言い方をしてしまえば、あの時間にあのような場所に1人でいた彼女自身にも責任の一端はあるのかもしれない。けれどラクツは、自分こそがファイツから記憶と時間を奪ったのだと思っていた。何せ得体の知れない嫌な予感を感じていながら、悪いことをしたのだろうと薄々は察していながら、彼女の家に訪問するのをずるずると先延ばしにしていたのだから。あの夜の苦い記憶が脳裏に浮かんで、ラクツは内心で顔を歪めた。
時計の針を戻したいと、この3年間で何度願ったことだろう。自分が代わってやれたらと、この3年間で何度願ったことだろう。目を覚ました彼女が記憶を失くしていたと知った時、どうしたら償えるのかと何度考えたことだろう。叶うなら、あの夜に戻りたい。あの夜に戻って、あの娘が家を出るのを引き止めたい。もう何度願ったか分からない願いは、しかし決して叶うことのない願いなのだということも知っている。
この娘から記憶と時間を奪った自分が彼女の為に出来ることといえば、ほんの小さなことだけだ。彼女が1人にしないで欲しいと願うなら、満足するまで傍にいよう。彼女がこちらのことを知りたいと願うなら、された質問全てに嘘偽りなく答えよう。1つはファイツの望みを力の限り叶えること。そしてもう1つは、ファイツを危険から護り通すこと。自分が出来ることといえば精々その2つくらいのものだ。しかしその2つの任務を、ラクツは全力で遂行するつもりでいる。言うまでもなくこの任務は年中無休のものとなるだろうが、別に構わなかった。
「……ファイツくん?」
指だけでなく全身が細くなってしまったこの娘を見つめながら、自分自身に誓いを立てたラクツだったが、ふと我に返った。ファイツがまたしても呆然としていて、その上顔を赤くしていることに気が付いたのだ。現在の時刻は16時、つまりは夕方だ。顔が赤いのは夕陽が差し込んでいる所為かとも思ったが、それにしては少し、いやかなり赤みが強いような気がしてならない……。
「どうした?……顔が赤いが、熱でもあるのか?」
指摘してしまってから、はたと気付く。唇だけで”熱はないから大丈夫です”と言われたものの、この娘は水分補給を行ったのだろうか。顔の赤みが脱水症状によるものではないかと疑ったラクツは、ぼんやりとしている彼女に問いかけた。もし頷かれたとしたら大失態にも程がある。しかしやや間が空いた後で”お水は飲みましたから”と返って来たことで、既に花瓶を割るという失態を犯したラクツは安堵の息を吐いた。どうやら診察される際に医者の目の前で水分補給を行ったらしい。ナースコールで呼び出された時は別として、基本的には定期巡回でしかこの棟に足を運ぼうとしない癖に、こういうことには案外しっかりしているようだと声に出さずに毒づいた。
それにしても診察での水分摂取は盲点だったと、内心での独白は続いた。不思議そうな目でこちらを見るファイツの様子がおかしいことに気付いたラクツは、すぐさまナースコールを押したものの気が気ではなかった。本当なら同伴したいくらいだったのだが、まさか男の自分が異性であるファイツの診察に立ち入るわけにもいかない。相変わらず人の往来が少ない廊下で彼女の診察が終わるのを待っていたから、ラクツはその情報を得る機会がなかったのだ。
(しかし、今回は結果的に良かったようなものの……。こんな有様では先が思いやられるな、まったく)
心の中で、はあっと深い溜息をつく。ファイツを護ると誓ってからのこれだ。彼女が脱水症状を起こしているかもしれないという思考にすぐには至れなかった。これではいざという時に彼女を護ってやれないではないか。この娘のちょっとした変化に気付けるようでなければ、彼女を護るなど夢のまた夢だ。観察力と洞察力を更に磨かなければと、ラクツは決意も改たにファイツをまっすぐな目で見つめた。
ラクツには気にかかることがあった。熱はないなんて言いながらも、彼女の顔は依然として赤く染まったままなのだ。きっとその疑念が伝わったのだろう。何故か慌ててしまったファイツに”どうか気にしないでください”と懇願されることとなり、ラクツは今まさに出そうとしていた音を引っ込めた。彼女が気にしないで欲しいと願うなら、自分としてはその望みを叶えないわけにはいかない。あっさりと引き下がったラクツは、代わりに別の音を出した。
「ファイツくん、ボクにまだ訊きたいことがあるんだろう?遠慮せずに訊いていいんだぞ?」
「……!」
そうなのだ。目は口程に物を言うとはよく言ったもので、ファイツの瞳が”訊き足りないです”と雄弁に語っていたのだ。そう告げた瞬間、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。そんな娘の反応で、ラクツの口角は自然と上がった。ファイツの言動全てが愛おしかった。唇に手をやるという何気ない動作ですら愛おしいと思えるのだから、愛情とは本当に不思議なものだ。
”じゃあ、好きな食べ物は何ですか?”という質問が投げかけられたのは、ファイツが調子を取り戻してからすぐ後のことだった。その”調子を取り戻すまで”にかなりの時間を要したわけだが、そこには触れないでおこう。ラクツはそう胸中で呟いてから、どう答えたらいいものかと思案した。苦手な味付けはファイツのおかげで自覚したものの、好きな食べ物は何かと問われると答に詰まってしまう。なおも思考を続けるラクツに、好奇心を滲ませた彼女の視線が何本も突き刺さった。3年間何度呼びかけても反応がなかった娘に今この瞬間見つめられているのだと思うと、ラクツの心臓はどくりと大きな音を立てた。久し振りの感覚だった。
この娘に見つめられると、どうしてこんな症状が起こるのだろうか。わけも分からずただただ悩んでいたあの頃と違って既に”これ”の正体を自覚しているラクツだが、しかしファイツに気持ちを告げるつもりは更々なかった。言うまでもなくこの娘に向ける感情が恋愛感情であることは理解している。それに、これが初恋だということも理解している。しかしラクツは、何をどうするつもりもなかった。聞いた話によると、どうやら初恋というものは実らないものであるらしいというのが定説のようだ。最初から叶わないと分かっているならなおのこと、想いを告げることに意味などないような気がした。それに、この娘から記憶と時間を奪ったのは他でもない自分なのだ。こんな自分が好きだと告げたところで、いったい何がどうなるというのだろうか。そもそもそうすること自体赦されないような気がしてならなかったし、何より彼女だって困ってしまうに違いない……。
この娘の願いを叶えられればそれでいい、この娘を護れればそれでいい。そして、この娘に幸せが訪れてくれればそれでいい。かつてはいつ死んでもいいと考えていたラクツだが、今となってはその考えは消え失せていた。これからは彼女の願いの成就と心身の保護、その2つを果たす為だけに生きようとラクツは思った。この娘の言動全てが愛おしいと思うことに嘘偽りはないけれど、それでも気持ちを告げることだけは絶対にしないようにしなければとも思った。”ボクはただ、この娘の傍にいるだけでいい”。そう内心で呟いたラクツは、意識を切り替えた。そして瞳を輝かせながらこんな自分を待っていてくれる娘の質問に答えるべく、閉じていた口を開いた。