その先の物語 chapter W : 010

純粋無垢な白
瞳を閉じたら最後、この娘はこのまま目を覚まさないのではないか。この娘はまたしても、いつ覚めるかも分からない程の長い眠りにつくのではないか。寝てはどうかと言っておきながら、脳内に浮かんだ考えが現実のものになるのではないかと密かに危惧していたラクツだったが、その心配はまったくの杞憂に終わった。
今度の目覚めは早かった。眠っていたのは精々2時間程度で、蒼い瞳が開かれるその瞬間を捉えたラクツは心の底から安堵した。起きたとはいえ半分は夢の中なのか、彼女は目をぼんやりとさせている。ちなみにダケちゃんはというと、ファイツの枕元ですやすやと寝息を立てていた。

「まだ眠いのなら、もうひと眠りするか?」
「…………!」

夢現だったファイツはこの問いかけで完全に目を覚ましたようだった。余程自分が置かれた現状を知りたいのか、ぶんぶんとしきりに首を横に振っている。その反応と直後に紡がれた辿々しい無音の挨拶で、ラクツは目を細めた。声帯の筋力が著しく低下しているらしく、相変わらず声が出ないらしいファイツは唇だけで”おはようございます”と言ったのだ。何てことのない極普通の挨拶は、しかしラクツの心を熱くさせるには充分過ぎる程の威力があった。

「……ああ。……おはよう、ファイツくん」
「……!?」

万感の想いを込めて、そう口にする。特殊な訓練の甲斐あって、ラクツはほぼ完璧な読唇術が使えるのだ。不思議そうに首を傾げたファイツからの”あたしの言っていることが分かるんですか”という問いかけに頷くだけで応じると、彼女はただでさえ大きい瞳を更に大きく見開いた。
怒涛の質問責めが始まったのは、それからすぐのことだった。質問に次ぐ質問だった。まるで尋問されているようだと内心で苦笑しながら、しかしラクツはその全てに丁寧に答えていった。質問されずともこちらから説明するつもりでいたラクツだが、彼女の方から尋ねて来るならそれもいいだろう。大切なのは、彼女が現状を正しく把握することなのだ。
最初の質問は、”あたしはどうして記憶を失くしたんでしょう?”だった。「崖から落ちて頭部を打ったと聞いている」と答えたら、すぐさま次の質問が飛んで来た。”どれくらい寝ていたんですか?”に「約3年間だ」と答え、”どうして崖から落ちたんでしょうか?”には「ボクにも分からない」と答えた。嘘ではなかった。元来嘘をつくことに抵抗などないラクツだが、それでも今行われている質問に関しては正直に話そうと決めていた。しかしファイツがどうして崖から落ちたのか、そもそも何故あのような時間に出歩いていたのかは未だに分かっていないのだ。
そんな調子で続けられるだろうと思っていた質問の雲行きが変わったのは、それから程なくしてからだ。”名前はなんですか”という問いかけに、ラクツはそういえば言っていなかったなと思いながら「今はラクツと名乗っている」と答えた。よく見知った相手に改めて自己紹介をするというのは何とも妙な気分だった。またしても不思議そうに小首を傾げたファイツに対して「ボクには本名がないからな」と告げたら、彼女は少しの間呆然自失としていた。
正直に話すと決めていた以上仕方ないと言えばそうなのだが、おそらくはそれがいけなかったのだろう。記憶を失っているファイツは、事もあろうに彼女自身のことよりラクツ自身のことを尋ねるようになってしまったのだ。近くに住んでいるんですか、何歳なんですか、今は何をしているんですか……。矢継ぎ早の質問をされること自体は別にいいが、どう考えても本来の目的より大幅にずれている質問をされるというのは果たしてどうなのだろうか。喉から出かかった「ボクのことよりキミ自身のことを尋ねなくていいのか」という言葉をどうにか飲み込んで、ラクツはおとなしく質問に答えようと決意した。あそこまでまっすぐな好奇心とこちらへの興味で輝いた目付きをされたら、それ以外の選択肢など選べるはずもなかった。

「今はここから3㎞程離れたビジネスホテルで暮らしている。次は……ああ、年齢か。今年で18歳になる」
「……?」
「いや、同い歳だ。誕生日の関係で今はボクの方が1つ上だが、後数ヶ月でキミも成人するんだぞ」
「…………!?」

そう告げたら、ファイツはものの見事に固まってしまった。”やっぱり歳上なんですか”と唇の動きだけで尋ねて来た彼女は、口を半開きにしたまま石のように硬直している。

「……そこまで驚くようなことだろうか」

数年前にもまったく同じ台詞を口にしたなと思いながら、放心している娘に苦笑混じりで問いかける。しかし、彼女の反応はなかった。ポカンと口を半開きにしたまま、ファイツはただただ呆然としている……。

「……ファイツくん?」

名前を呼んでみたが、彼女の反応は変わらなかった。どうやら余程驚いたらしく、何度名前を呼んでも彼女は依然として放心していたから。だからラクツは右手を伸ばして、微動だにしないファイツの手にそっと触れた。

「……!!」

痩せ細った指を撫でた瞬間に、ものの見事に呆然としていたファイツはびくりと肩を跳ね上げさせた。過剰な反応に、自然と笑みが深くなる。目の焦点が固定されているところからすると、彼女はやっと我に返ってくれたらしい。先程口にした言葉を一字一句違わずに告げると、ファイツはこくこくと頷いた。それはもう猛烈な勢いだった。しかも、手を握り返してくれるというおまけつきだった。しかし理解はしても完全には納得してもらえなかったようで、ファイツは何かを考え込むかのようにぐぐっと眉根を寄せている……。
うんうんと唸っている娘を、ラクツは目を細めて見つめていた。目の前にファイツがいる。声こそ出ないものの、それでもきちんと反応を返してくれる。そして自分が手を握れば、そっと握り返してくれる……。あの日から、ずっとずっと願い続けていた光景だ。あの日に掌から零れ落ちた光景が、一度は失われた光景が、今まさに自分の眼前で広がっている……。自分が3年間願い続けたそのものの姿でファイツがこの空間に存在しているのだと思うだけで、心には熱い何かが広がった。その熱い何かの正体を、ラクツはとうの昔に理解していた。これは”嬉しい”という名前の感情だ。

「……さて。次の質問は、”今は何をしているのか”だったな。そこで眠っているダケちゃんのように、ポケモン……ポケットモンスターを扱うトレーナーではあるが、本職は国際警察官だ。階級は……」

言い淀んだラクツはそこで言葉を切った。もちろん、わざともったいぶったわけではなかった。単に判断に迷っていただけなのだが、数秒思考した後で唇を開く。出した結論は言いかけた言葉をそのまま告げる、というものだった。国際警察官であることも警視であることも事実ではあるのだから、別に嘘をついたことにはならないだろう。それに、”これ”はファイツが知らなくてもいいことなのだ。

「……いや、何でもない。今の階級は警視だ。コードネームは黒の2号」
「…………!?」

警視と告げたら、ファイツはまたしても固まってしまった。3年間の眠りについていたと言った時より、明らかに驚いて見えるのは何故なのだろうか。崖から落ちた結果として記憶喪失になってしまっていることや、3年間も意識がなかったことなどは気にならないのだろうかとラクツは訝しんだ。てっきり彼女は酷く怯えるものだとばかり思っていたのに、まるで自分が昏睡状態に陥っていたことなどまるで気にしていないように見えるのは流石に予想外だ。いや、悪戯に怯えさせるよりかはずっといいのだけれど。
そんなことを考えているうちに、ファイツは硬直からどうにか回復したらしい。遠慮がちに紡がれた”あたしとあなたってどういう関係なんですか?”という音が、ラクツの脳内に響き渡った。ここに来て、核心をついた質問だった。どの道されるだろうと思っていたが、いざ質問されたとなるとやはり言葉に詰まってしまう。

「……そう、だな……」

自分とこの娘の関係で一番正確なのは、多分知り合いという言葉なのだろう。しかし嘘ではないはずのその単語を正直に口に出すのは憚られた。そう言ってしまえば、”ただの知り合いなんですか”と更に突っ込まれるかもしれない。だからといって友人関係と言うのもまた憚られた。ヒュウやペタシとは違って、この娘とは正式な友人関係を結んでいるわけではないのだから。
首を傾げたファイツの不思議そうな視線をその身に感じながら、ラクツは思考を続けた。この質問をされること自体は予想出来ていたのに中々思考がまとまらなかった。

「……そうだな。ファイツくんとボクの関係は、クラスメイトだ。ポケモントレーナー養成校の、な」

長考の末に告げた答は、確かに事実ではあった。しかし自分の脳内に浮かんだ、心の奥底ではそう在りたいと望んでいる関係性を告げたわけではなかった。それでもこの答でファイツは納得してくれたらしく、”学校のクラスメイトだったんですね”と唇だけで言いながら何度も頷いていた。そんな彼女は依然として好奇心と興味が入り混じった目をしていたから、ラクツは相変わらず素直なものだと苦笑した。この娘は本当に、いとも容易く嘘を吐ける自分とは大違いだ。瞳だけではとどまらず、”あなたのことをもっと知りたいです”と唇と身振り手振りで訴えて来るファイツを、やはり純粋無垢な娘だとラクツは思った。