その先の物語 chapter W : 009

出会った黒
”記憶喪失”。駆けつけた医者からその単語を、つまりは自分の診察結果を告げられたファイツは、その現実を素直に受け入れていた。何せここが病院であるらしいということに、白衣を着た男の人がやって来るまさにその瞬間まで気付かなかったのだ。まして、自分の名前すらすぐに思い出せなかったということもある。これが記憶喪失でなくて何だというのだろうかと、むしろ大いに納得したくらいだった。自分の置かれた現状を聞いても大して驚かなかったファイツだけれど、代わりに恐怖心や不安感に襲われる羽目になった。記憶喪失ということは、文字通り自分の記憶がなくなるということだ。記憶も思い出も失った自分がこの先どうなるのかと思うと、不安で不安で堪らなかった。それに、将来的に記憶が戻るのかどうかも気になる……。

(本当に……。どうなっちゃうんだろう、あたし……)

検査にはかなりの時間がかかったが、とりあえず脳波に異常は見られないと聞かされた時はホッとしたものだった。おまけに物の名前や日用品の扱い方などの生きていく為に必要な記憶はどうやら失われなかったようで、リハビリさえ頑張ればまた元の生活が送れると告げられた時は更にホッとした。頑張り次第で普通の生活が送れるようになるのだから、記憶がなくなったとはいえ自分はまだマシな方なのだろう。さっきから何度も自分にそう言い聞かせてはいるのだけれど、どうしたって将来の不安は消えてくれなくて。だから、ファイツははあっと深い溜息をついた。その途端に「大丈夫か」と尋ねられて、肩が自然と跳ね上がる。声がした方に顔を向けると、椅子に腰かけた男の人がこちらを見つめているのが目に映った。「おはよう」と言ってくれた、あの彼だ。

「……大丈夫か?」

おはようと言ってくれた後で、すぐにナースコールを押してくれた彼を、ぼんやりと見つめる。姿勢がいいのかなという見立てはどうやら間違っていなかったらしい。やっぱり背筋をまっすぐに伸ばした彼は、こちらをまっすぐに見つめたままその言葉をもう一度口にした。自分がいつまでも返事をしないからそう言わせてしまったのだと思うと、何だか彼に申し訳なくて。だからファイツは眉根を寄せて、こくこくと何度も何度も頷いた。無言で何度も頷くその様子は、傍から見ればかなりおかしい所作だったことだろう。だけど彼が笑わずに「そうか」と言ってくれたことが、ファイツにはものすごくありがたかった。実は気を遣って笑わなかっただけでした、ではないと思いたい……。

「ファイツくん。眠らなくていいのか?」

前言撤回、ファイツの胸は申し訳なさでずきんと痛んだ。結局は彼に気を遣わせてしまっていたらしい。申し訳ないと思うのは無駄に気遣わせてしまったことだけではなかった。どういうわけか声が未だに出ない所為で、すぐに返事が出来ないのが歯痒くてならない。

「……無理はしなくていい、と告げただろう。喉を痛めたらどうするんだ」

頑張って声を出そう。そう思って口を開こうとした瞬間に、お説教が飛んで来た。驚きで口が半開きになったファイツは大きく目を見開いた、どうして彼は自分がしようとしていたことが分かったのだろう?

「顔を見れば分かる。それに、そうでなくてもキミは分かりやすい娘だからな」

さっき自分を咎めたばかりの彼は、今やくすくすと忍び笑いを漏らしていて。結局笑われる羽目になったと、ファイツはぐぐっと眉根を寄せた。それから口も閉じた。彼に笑われるのは何だかすごく嫌だった。

「……ああ、すまない。誓ってキミを貶める為に笑ったわけじゃないんだ。ファイツくんがあまりにも素直だったから、つい……な。キミの気分を害したのなら謝る。……すまなかったな」

笑った彼のことをちょっとだけ恨みがましいと思いながら見つめていたら、そんな言葉を告げられた。貶めるってなんだっけ。言葉の意味を考える間もなく、彼に頭を下げられることになったファイツは慌てた。もう大慌てだ。”笑うなんて酷い”。こう思ったのは事実なのだが、彼に謝って欲しいわけではなかったのだ。

(……あれ?)

ファイツはどうしようと思いながら、だけど何も出来ずに彼をおろおろと見つめていた。そうしているうちに不思議な気持ちに捕らわれて、どうしてだろうと小首を傾げる。何だか無性に、誰かに謝りたいと感じたのだ。「ごめんなさい」と、深く頭を下げなければいけないような気がした。だけど誰に何を謝らなきゃいけないのかが、自分にはさっぱり分からなかった。
彼が自分を見つめていることに気付いて、傾げた首を慌ててぶんぶんと横に振る。謝る必要はないという意思を込めて振ったのだが、彼は伝えたかったことを読み取ってくれたようで、「分かった」と言ってくれた。

「話を戻すが、少しでも寝た方がいいのではないか?肉体的にも精神的にも、酷く疲れているだろう?」

彼の言葉で、ファイツは問いかけにちゃんと答えていなかったことを思い出した。今の今まで忘れていたけれど、そういえば「寝た方がいいのではないか」と訊かれていたんだった。そう心の中で呟いて、彼の顔をちらりと見やる。確かに彼に言われた通りだった。首はある程度動かせるようにはなったものの、全身がものすごく怠いことに変わりはなかったのだ。
肉体的にもそうだが、むしろ疲れているのは心の方だった。果たして自分はこの先どうなるのだろうか。そして、失われた記憶は戻るのだろうか。改めて思うと不安で堪らなくなった。更にはリハビリのこともある。リハビリは辛いと言われてしまった上に、終わるまでにはかなりの期間がかかるらしい。退院以前にそもそもリハビリに耐えられるのだろうか。突如として不安に苛まれたファイツに、恐怖感と疲労感がどっとのしかかる。

「……席を外そうか?」
「……!」

沈黙をどう解釈したのか、彼はそんな提案をして来たから。だからファイツはぶんぶんと首を横に振った、それはもう思い切り振った。それだけでは伝わらないような気がしたから、縋るような眼差しもぶつけてみた。彼が席を外すということは、つまり自分がひとりぼっちになるということなのだ。せっかく彼が来てくれたのにまた1人になるのだと思うだけで、ぞっとするような思いだった。

「分かった。……分かったから、そんな顔をしないでくれ。ファイツくんが起きるまでここにいるが、それでもいいか?」

こくこくこくと、何度も頷いたファイツは心の底からホッとした。良かった、あたしはひとりぼっちにはならないんだ。「ここにいる」と言ってくれたことが、ファイツは嬉しいと思った。目が覚めたら、キミとこの子のことを話すから。落ち着いた声で確かにそう言ってくれた彼に、こくんと頷いた。
髪と瞳の色こそ茶色だけれど黒一色をまとった彼は、肩に乗せている小さな生物を指差した。赤と白で構成された小さな生物はそれはそれはつぶらな目をしている。可愛らしい生き物だと思いながら、ファイツはベッドに体重を預けた。安心した所為か、急に眠くなってしまったのだ。

「……おやすみ、ファイツくん」

優しい声が降りかかる。そう思えるだけの優しさを滲ませた声でそう言った彼を、薄れゆく意識の中でちらりと見やる。根拠はないけれど、やっぱり思った通りだった。それはそれは優しい顔付きをしていた彼を見たファイツは、やっぱり彼は優しい人なんだと思った。彼が優しい人で良かった。目覚めてから最初に会った人が、彼で良かった。言いようのない安心感に包まれたファイツは、まだ名前も聞いていない彼に向かって「おやすみなさい」と声に出さずに呟いた。