その先の物語 chapter W : 008

目覚めの朝
どこか遠くで、何かの音が鳴っているような気がする。真っ暗な中で、誰かに呼ばれているような気がする。まるで海底から身体が浮上するような感覚を覚えて、ゆっくりと目を開けた。
夢から醒めてまず最初に感じたのは眩しいということだった。眩しい、ものすごく眩しい。涙がじわりと滲むくらい眩しい。あまりにも眩しかったから、開いたばかりの目を反射的に閉じた。顔に暖かい何かが当たっているのを、黒とオレンジが入り混じった視界の中でぼんやりと感じ取る。

(……太陽の、光……?)

ポカポカとした暖かさを感じながら、閉じた瞳をそろりと開く。覚悟していた通り強烈な眩しさに襲われたものの、それも最初のうちだけだった。時間の経過と共に眩しさが段々と薄らいでいったことで、ふうと息を吐く。何度か深呼吸をしてから、眩しさに慣れた目をぱちぱちと何度も瞬いてみる。黒とオレンジ色だった視界が白一色であることに気付いたのは、瞬きをしてからしばらく経った後だった。

(白い……)

白一色で塗りつぶされた視界を眺めながら、思ったことそのままを心の中で呟いた。だって、本当に白かったのだ。視界一面を覆う白色の正体が天井であることに気付いたのは、眺め始めてからやっぱりしばらく経った後だった。どうやら自分は眠っていたらしいことを悟るまでには、更に長い時間がかかった。
眠っていたことを悟って、だけど何をするでもなく染み1つない天井を眺め続けてから、どれくらいの時間が経ったことだろうか。強烈な眩しさには、もう慣れた。だけど代わりに強烈な喉の渇きに襲われて、無意識にぐぐっと眉根を寄せる。きっとこの日差しの所為に違いないと、上手く働かない頭でぼんやりと思った。ポカポカとした日差しは確かに暖かいのだけれど、ずっと浴びていた所為か今や暑いくらいだったのだ。
困ったことに、感じ取れる不調はそれだけではなかった。喉がからからに渇いているだけとか、顔が暑いだけならまだ我慢出来るのに。どういうわけか身体が酷く重い上に、同時に頭が酷く痛いというのはものすごく困る。試しに首を動かそうとしてみたら、途端に痛みと倦怠感に襲われた。涙が滲むくらい痛かった。おとなしくしていようと思ったものの、同時にとりあえず喉の渇きだけでも何とかしたいとも思ったから。だからひりひりと痺れる喉をどうにか動かして、からからになった口内に感じるわずかな唾をごくんと飲み込んでみる。それだけでも幾分かは渇きが紛れたような気がして、はあっと息を吐く。
本当なら顔を火照らせている熱もどうにかしたかったところなのだけれど、首も満足に動かせない状況では無理に決まっている。自由に動かせるものといえば目線くらいで、その目線を頑張って動かしてみた。綺麗な真っ白いカーテンは、顔に当たる部分だけピンポイントに隙間が空いていた。その所為でこんなにも熱さを感じているのだと思うと、何だか恨めしくなる程だった。そんな思いで、カーテンの隙間から見える鮮やかな青色を睨みつけてやる。

「…………」

顔の火照りと全身を襲う重み、更には頭の痛みに耐えてから、どれくらいの時間が経ったことだろう。耳に何かの音が聞こえて、心臓がどきんと跳ねる。そうだ、音だ。何かの音がしたから、いや、誰かに呼ばれたような気がしたから。だから自分は目を覚ましたのだ。そういえば、夢の中でずっとずっと呼ばれていたような気がする……。心臓をどきどきと高鳴らせながら、耳を澄ませてみる。小さなその音は鳥が奏でる音だった、つまりは鳥のさえずりだ。

(違う……)

違うと声に出さずに呟いたと同時に、”この音じゃない”とも思った。鳥のさえずりは心地いい音だったのだけれど、夢の中で聞こえていた音はあれではないという根拠のない核心を抱いた。だけど、それが何かが分からなかった。夢の中でずっと誰かに呼ばれていたような気がするのだけれど、誰に呼ばれているのかが分からなかった。

(……ここって、どこなんだろう……)

分からないといえば、ここがどこなのかが分からなかった。今更だけど、本当に今更だけれど。自分がどうしてここにいるのかがさっぱり分からなかったのだ。どうやら室内であるようだけれど、どうしてここに眠っていたのかも分からなかった。それどころか、自分が何者なのかも分からなかった。布団にカーテン、天井に青空。目に映る物の名前は分かるのに、自分の名前が分からなかった。
今更ながら気付いたその事実を思うと、途端に恐怖に襲われた。一筋の涙が瞳から溢れて頬を伝った。怖くて怖くて堪らなかった。誰でもいい、ただ誰かに助けて欲しいと強く思った。しかしその願いも虚しく、人っ子1人すら現れることはなかった。

「……っ」

この静かな部屋で、永遠にひとりぼっちで過ごさなければならないのだろうか。助けを呼ぼうと声を出そうとしたのだけど、どういうわけか声が出なかった。口から出たものといえば息だけだ。
無理に声を出そうとした所為なのだろうか。今度は息苦しさと喉の痛みに襲われることとなり、天井に固定されていた視界はぼやけた。身体の重さと頭痛、息苦しさと喉の痛み。更には恐怖に襲われたことで、またしても瞳からは涙が零れ落ちた。誰でもいい、誰かに助けに来て欲しい……。目線を動かしたのは、藁にも縋りたいという気持ちからだった。
白一色だった視界に、白ではない色が映り込んで来たのはそんな時だった。あの鮮やかな赤色は何なのだろう?恐怖に襲われていたことも忘れて、ぼんやりとした赤色に意識を集中させる。どうしてそうしようと思ったのかは自分でも分からなかった。

(……花瓶と、お花?)

赤色の正体は、小さな棚の上に置かれた花瓶だった。小さな赤い花瓶に一輪の赤い花が活けられている。そして、緑色の茎の部分には青いリボンが結ばれていた。花の部分の赤と、茎の緑と、リボンの青。赤青緑の3色で構成された花から、何故だか目が離せなかった。何となくだけど、可愛らしい花だと思った。

「…………」

もしかして、あれは誰かが持って来てくれた花なのだろうか。もしかして、誰かが来てくれるのではないだろうか。もしかして、自分はひとりぼっちではないのだろうか。そう思うと自然と涙が溢れた。だけどそれは、さっき瞳から零れ落ちたものとは違う種類の涙だった。

「……!」

不意に聞こえて来たその音で、心臓が跳ねる。規則正しいノックの音だ。ああ、やっぱりだ。やっぱり誰かが来てくれたんだ。そう心の中で呟いた。自分はもうすぐひとりぼっちではなくなるのだと思うと、ものすごく嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、身体が重かったことや息苦しかったことなどは完全に吹っ飛んでしまった。近くに誰かがいて、誰かがこの部屋に入って来るのだと思うとどきどきと胸が高鳴った。ノックされるまで全然気付かなかった、いったい誰が来てくれたのだろう?

「ファイツくん、入るぞ」

その音が鼓膜を震わせた瞬間、心臓がまたしてもどきんと跳ねた。そうだ、あの音はあたしの名前だ。心臓をどきどきどきと激しく高鳴らせながら、ファイツという単語を心の中で何度も何度も繰り返す。ファイツ、ファイツ。あたしの名前はファイツ……。
自らの名前を思い出したファイツは、返事をしようと乾いた唇を開いた。だけど、どうしても声が出なかった。こんなに出したいと思っているのに、どうして声が出ないのだろう?その歯痒さから思い切り目を瞑ったのと、ドアが開かれるのはほとんど同時だった。

「おはよう、ファイツくん」

真っ暗になった視界の中で、落ち着いた、だけどとても優しい声が響いた。男の人の声だ、だけど聞き覚えのない声だ。あの人はいったい誰なのだろう?目を開けるタイミングを完全に逃したファイツは、真っ暗な闇の中でうんうんと唸った。だけどいくら考えたところでさっぱり分からなかった。あの人が誰なのかをどうしても確かめたい。そう思ったファイツは、閉じていた瞳を薄く開けた。

「ダケちゃん。キミもいいかげんにしてくれ。菓子なら昨日散々あげただろう」

目を瞑っている間にちょうど横切ったのか、この部屋に入って来てくれた人物はこちらを背を向けていた。誰かが来てくれて嬉しいと思っておきながら、そして声の主が誰なのかを確かめたいと思っておきながら、彼がこちらに背を向けていてくれたことにファイツは内心でホッとした。何となくだけれど、今目が合ったら絶対に気まずくなると思ってしまったのだ。

「……それ以上食べると、健康に支障が出るぞ」

薄目を開けたファイツは、彼の背中をじっと眺めていた。黒い服を着た彼は、肩に乗せた小さな白い何かを諫めている。”ダケちゃん”と呼んだその何かの正体も気にはなったが、彼本人に視線と意識が惹き付けられた。姿勢がいいのか、ここから見ても分かるくらいに背筋がすっと伸びている。自分からはかなり背が高いように見える彼は肩に乗せた何かを叱っているようだけれど、それでもかなり優しい声だとファイツは思った。

(誰、なんだろう)

茶色い髪色の彼を見ながら、ファイツはぼんやりと心の中で呟いた。ファイツという自分の名前を呼んだくらいなのだから、きっとあの人は知り合いではあるのだろう。だけど、どうしても思い出せなかった。何とか思い出そうとなおも眺め続けていたファイツは、そこで初めてあることに気が付いた。彼は左手に花を持っていたのだ。ファイツが可愛らしいと思った、あの赤い花だ。

(あの人が、持って来てくれたの?)

衝撃で目が見開かれる。茎に白いリボンが巻かれた花は、彼によって今まで活けられていた物と入れ替えられた。何だか慣れた手付きをしているとファイツは思った。

(もしかして……。何度か来てくれたのかな……)

いったいあの人はどんな顔をしているんだろう。彼の顔が知りたいとファイツが思った時、ずっと背中を向けていた彼が花瓶を持ったまま振り向いた。とっさにファイツは目を瞑ろうとしたが、間に合わなかった。

「…………」
「…………」

彼とまともに目が合ったファイツは、どうしようと思った。彼の顔を観察するどころではなかった。ずっと見ていたことを気付かれたのだと思うと、とてつもなく気まずかった。

「……ファイツ、くん?」

こんなことなら最初から目を開けておけば良かった。気まずくて仕方ないと思いながら眺めていると、彼が自分の名を呼んだ。はっきりと分かる程の掠れ声だった。程なくして、彼が持っていた花瓶が音もなく落ちた。直後に耳に届いた音からして、どうやらあの花瓶は粉々に割れてしまったらしい。だけど彼は割れた花瓶には構わずに、呆然とその場に立ち尽くしていた。目を大きく見開いたまま、じっと自分を見つめている……。

「ファイツくん」

もう一度自分の名を呼んだ彼が、ゆっくりとこちらに近付いて来る。今度はしっかりとした声だった。綺麗な姿勢だと思った彼の足取りが何だか覚束ないように思えるのは、いったいどうしてなのだろうか。

「ファイツくん……」

またしても名前を呼ばれた。気付けば、ふらついた足取りをした彼は自分のすぐ傍までやって来ていた。遠慮がちに伸ばされた手が触れたのは、自分の右手だった。そっと手を握られたことで、ファイツの心臓は高鳴った。彼の声と同じくらい優しい触れ方だと思った。どうして彼はこんなことをするのだろうか?
そんなことを思いながら、お返しとばかりに握り返してみる。そうしたら、しっかりと握り返された。彼の手は温かかったけれど、ちょっとだけ痛かった。

「おはよう、ファイツくん」

この人は、どうしてこんなに泣きそうな顔をしているんだろう。この人は、どうして何度もあたしの名前を呼ぶんだろう。それに何より、この人はいったい誰なんだろう……。
「おはよう」と言われたファイツの中で、数え切れないくらいの疑問符が溢れ返る。彼に手を握られたまま、ファイツはさっぱりわけが分からないと内心で首を傾げた。