その先の物語 chapter W : 007
いやしのねがい
病院の受付を済ませたホワイトは、「あ」と小さな声を上げた。忙しなく動き回っている医者や看護師やら見舞客に紛れて、見知った人物が歩いているのが見えたからだ。「ラクツくん!」
「……ホワイトさん?」
まさか、病院の廊下で大声を出すわけにもいかない。かなり控えめな声で叫んだホワイトは、彼が振り返ってくれたことでホッと胸を撫で下ろした。案内図があるから1人でも目的地へはたどり着けるのだけれど、誰かと一緒に行けるならそれに越したことはない。重苦しい病院の雰囲気が苦手であると自覚しているホワイトは、知り合いがいてくれて良かったと思った。そして、足を止めてくれているラクツの元に小走りで駆け寄った。
「おはよう。待っててくれてありがとね」
「おはようございます。今日は随分早いですね、この時間に会うとは思いませんでした」
「今日はポケウッドが休みなのよ。だから、たまには朝から行こうかなって思って」
後輩と何でもない会話をしながら、目的地へと向かう。その途中で医師と看護師で形成されたグループとすれ違って、思わずぐぐっと眉毛を寄せた。誰も彼もが見るからに慌ただしいし、よくよく見れば揃いも揃って険しい顔付きをしている。もしかして急患だろうか。
「……どうしたの?」
後輩が自分を見ていることに気付いて、ホワイトは首を傾げた。わざわざ口に出して尋ねたのは、こちらを見つめているラクツが何か言いたそうな顔をしていたからだ。そんな彼を近寄りがたい子だなんて思っていたことがあるだなんて、今ではとても信じられなかった。
「アタシに何か付いてる?」
「いえ。……相変わらず熱心だな、と」
そんな言葉を口にしたラクツに、思わず苦笑する。熱心だなんてとんでもない。その言葉に相応しいのは、自分ではなく彼の方ではないか。
「ボクはそう思いませんが」
「あ、声に出てた?」
「いいえ、顔にはっきりと書いてありましたから。……それより、袋に入ったそれはやはり手土産ですか?」
「そうよ。ほら、ポケウッドの近くにケーキ屋さんがあったでしょう?そこで売られてるプレミアムプリンよ。この前発売されたばかりなんだけど、かなりの人気商品なのよねえ……」
脳裏に蘇ったのは昨日の光景だ。プレミアムプリン目当てなのか、夕方だというのに店内は大勢の女性客でごった返していて。あまりに人が多過ぎた所為で、レジに進むのさえ一苦労した程だった。押し寄せる人の波に揉みくちゃにされたことを思い出したホワイトは、はあっと溜息をついた。結局確保出来たのはこの1つだけだったのだけれど、それでも買えただけラッキーだったわと独り言ちる。
「……あ、ごめんねラクツくん。頑張ったんだけど、これしか買って来られなかったのよ」
きっと、彼もこのプレミアムプリンが食べたかったのだろう。歩きながらプリンが入った紙袋をちらちらと見やるラクツの反応をそう解釈したホワイトは、片手を上げて謝った。
「ラクツくんに会うって昨日の時点で分かってたらなあ。強行突破すれば良かったかしら」
「違います。何を誤解しているんですか」
ホワイトは、即座に否定した彼に「そうなの?」と返した。どうやら自分の予想は的外れだったらしい。じゃあどうしてあんなに見てたんだろうと心の中で呟きながら、ラクツの後に続いて階段を登る。綺麗にデコレーションされているプリンを崩さないようにと1段1段慎重に登ったから、それだけでちょっと疲れた気分になったのは内緒だ。無事に登り終えて、ホッと息を吐く。目的地までは後少しだ。
「……ボクは、そういった物を持参したことがなかったので」
自分を待っていてくれたラクツが誰にともなく呟いた言葉で、思わず足が止まる。だけどホワイトが足を止めたのはほんの少しの間だけだった。色々と大人びているというのに、眉根を寄せている今の彼は歳相応の男の子にしか見えなかったから。だからホワイトは、悪いと思いつつもくすくすと忍び笑いを漏らした。そんな小さなことを気にする子だとは思わなかったのだ。
「やーねえ、何言ってるのよ。ラクツくんだってちゃんとお見舞い品を持って来てるじゃない。……それ、今日で何本目だっけ?」
”それ”とはラクツが右手に持っている一輪の花のことだ。ホワイトは、赤い花を指差したまま記憶を辿った。だけどどうしても思い出せない、それは何という名前の花だっただろうか。
「えっと……」
「グラシデアです。今日で32本目になりますね」
「あ、そうそう。グラシデアだったわね。それにしても32本目か……。もうそんなになるんだ、月日が経つのって本当に早いわよね」
「……そうですね」
「毎日入れ替えるのだって、グラシデアの花が萎れやすいからなんでしょう?ラクツくんって本当にまめよねえ……」
こちらが言いたいことを汲み取って花の名前を即答した洞察力と、正確な本数を即座に答えた記憶力と。それに何よりラクツの几帳面さを改めて思い知らされることとなったホワイトは、歩を進めながら舌を巻いた。いや、元はと言えば話を振ったのは自分なのだけれど。だけどそれでも32という具体的な数字を示されると、こう思ってしまうのも仕方のないことなのではないだろうか。
「ボクが、まめですか?別にそうは思いませんが」
「そうかしら。そんなことないと思うけどな」
「……それより、ホワイトさん」
「何?」
「世間一般的に言って、やはり花より甘い物を差し入れられる方が喜ばれるものなんでしょうか?……その、異性には」
困ったようにそんなことを言う彼が、あまりに微笑ましかったから。だからホワイトは、忍び笑いを通り越してぷっと噴き出した。普段は呆れるくらい落ち着いているというのに、こういう話題になると途端に落ち着きがなくなるこの後輩は微笑ましいにも程がある。異性にはの前に”好きな”という単語が付いていないところとかが、特に。
「真剣に考えてもらえませんか。ボクは真面目に訊いているんですが」
仏頂面になった後輩に向けて、ホワイトは慌てて「ごめんね」と謝った。ラクツが真面目な子であるということはよく知っている。それなのにいつまでも笑っているのは彼に失礼だ。コホンと咳払いを入れて、ホワイトは意識を切り替えた。
「うーん……。世間一般的じゃなくて、アタシ個人の意見になっちゃうけど。それでもいい?」
「はい」
「そうねえ。アタシだったら、お見舞い品を持って来てもらえるだけで嬉しいって思うかな」
「そう……ですか?」
「そうよ。しかもそれなら場所を取らないし、すっごく可愛いじゃない?女の子が喜ぶツボを押さえた品って感じよね」
そう言いながら、グラシデアの花に目をやった。綺麗にラッピングされたその花には茎に黄色のリボンが巻かれていた。細いのに、先がふんわりと広がっている可愛いリボンだ。ホワイトは前回ここに来た時の、つまりは1週間前の記憶を辿ってみた。病室で見たグラシデアの茎に巻かれていたリボンの色は、確か青だったような気がする。まめな彼のことだから日毎に違う色のリボンが巻かれたグラシデアの花を差し入れてるんだろうな、とホワイトは思った。
「それに何より、お見舞いの度に一輪一輪差し入れられるなんて……。アタシから言わせてもらえばかなりロマンチックよ、それ」
ウインクをしたホワイトは、唐突にあることを思い出した。あれは確か、半月くらい前のことだっただろうか。毎日毎日来店するものだから、とうとう花屋で働いている店員全員に顔を覚えられました。目的地である病室でばったり出くわしたラクツは、静かにそう話してくれた。グラシデアの花だけは品切れさせないようにしてくれている上、お得意様ということで割引してくれているのだとか。
中には何かを察したのか、「頑張ってくださいね」だとか、「応援しています」だとか、とにかくエールを送ってくれる店員まで現れたらしい。ラクツは大袈裟だと言ったが、ホワイトはそうは思わなかった。もし自分が花屋の店員の立場だったら、ホワイトだって絶対に応援するに決まっている。それに知っているのか知らないのかは分からないけれど、ラクツのことはこの病院でも話題になっているらしい。そのことを知ったのは、まさについさっきのことだった。受付にいた女の人が、自分がラクツの知り合いだと知って、こっそり耳打ちしてくれたのだ。無理もないとホワイトは思った。
だから「もっと自信を持ちなさい」と、ホワイトは後輩が差し入れた品に対して太鼓判を押した。ラクツはそれでもまだ納得しきれていないのか、こちらを窺うような顔付きをしている。
「……そういうものなんですか?」
「そういうものよ。ほら、もっと自信を持ちなさいってば。……ああ、やっと着いたわ。来る度にいつも思うんだけど、ここって明らかに外れの方よね。1ヶ月前は中心部にいたのに酷いと思わない?これじゃあまるで、あの子が医者に見捨てられたみたいじゃない!」
「この棟に入院している患者の状態を思えば、それも仕方のないことだと思いますが」
「……ラクツくんって本当に大人よね。アタシは無理。ラクツくんみたいに割り切れないわ」
「そうでしょうか」と言った彼に、「そうよ」と言い返す。もちろんそれは皮肉や社交辞令などではなかった。年齢こそ下だけれど、彼は本当に大人びているとホワイトは思っている。そう告げる度に彼は否定するけれど、少なくとも自分よりは遥かに大人びていることは最早間違いないだろう。
「……ファイツちゃん、入るわよ?」
気を取り直したホワイトは、コンコンと規則正しいリズムでドアをノックをした。”もしかしたら”とか、”今日こそは”とか。密かに期待していたホワイトは、あの子の返事がないことに内心で落胆しつつも目的地であるファイツの病室へと足を踏み入れた。枕やシーツカバーといった寝具だけでなく、カーテンやドアや壁紙、おまけに椅子やベッドの柵に至るまで。全てが白一色で統一された病室の中央で、茶色い髪色をしたファイツは確かな存在感を放っていた。そうなのだ。長期間に渡って意識のない患者ばかりが集められたこの棟にある一室に入院しているのだけれど、この娘はまだ生きているのだ。だからこそ、こんな僻地に病室を移されたことが悔しくてならない。プレミアムプリンを枕元に置いた後で、ちょっとだけ乱暴に椅子を引き寄せたホワイトは悔しさから右手をぎゅうっと握り締めた。だけど、はっと我に返る。
「おはよう、ファイツちゃん!それからダケちゃんも。……今日は生憎の天気よね。ほら、今にも雨が降りそうよ?」
どうやらダケちゃんは寝てしまっているようだけれど、この眠り姫はこうしている今にも目を覚ますかもしれないのだ。意識が覚醒したファイツが一番に見るのが先輩の怒りの形相では、この子だって目覚めが悪いに決まっている。笑顔で話さなきゃと自分に言い聞かせながら、眠っているファイツに努めて明るい声で呼びかけた。カーテンの隙間から見える空は、どんよりとした厚い雲で覆われている。
「……ふふ」
「どうかしましたか?」
妹のように思っている後輩が自分の言葉に微かな反応を見せたような気がしてならなくて、今度は自然な笑みを浮かべる。本当に可愛らしいと思いながらファイツを見ていると、背後からもう1人の後輩の声が飛んで来た。ファイツに色々と話しかけている間に、彼は最早日課となっているグラシデアの花の入れ替えを済ませたらしい。黄色いリボンが巻かれたグラシデアが活けられた、小さな赤い花瓶を持ったラクツは、怪訝そうな顔で自分を見るばかりだった。
「雷が落ちるかもって言ったら、ファイツちゃんが嫌がったように見えたから。……それよりほら、アタシなんて見てないで。ラクツくんも、ファイツちゃんに何か話しかけてみたら?……っていうか、先に話しかけちゃってごめんね」
「……何を謝ることがあるんですか。毎日訪ねているボクよりホワイトさんを優先させるのは当然だと思いますが。ボクに気を遣う必要はないですよ」
さらりと言い放たれたラクツの言葉で、ホワイトはそっと目を伏せた。そうなのだ。仕事の関係上、自分は精々週末くらいしかここに来れないわけで。だけどラクツはあの日から、つまりはファイツが事故に遭った日から、彼女の見舞いを1日たりとも欠かしていないのだ。
ラクツから大事な大事な妹兼後輩が瀕死の重傷を負ったのだと聞かされた時のことは、よく憶えている。あまりのショックで、ライブキャスターを落としてしまった程だった。それは惨い姿になった後輩と対面した時は、ただただ号泣するばかりだった。泣いて泣いて、身体中の水分が枯れてしまうくらいに大泣きして。病室だけでなく、家や職場でも涙を流しまくったホワイトがようやく立ち直った時には、既に3日が過ぎていた。
自分が泣いてばかりで何の役にも立てないでいるうちに、ラクツは壊れてしまったファイツ名義のポケモン図鑑の修理依頼をきっちりと済ませていた。これまたファイツ名義のライブキャスターも破損したようで、同じく修理の依頼をしたはいいがいくつかのデータは取り出せなかったらしい。それだけでなくファイツの入院の手配、更には保護者である彼女の母親への連絡まで済ませたというのだから驚きだ。おまけにしっかり者の後輩は、高額な治療費と入院費を肩代わりすることを提案したのだとか。流石に申し訳なさ過ぎると結果的には辞退されたようだけれど、少なからず他人の借金を肩代わりしたことのあるホワイトは、ラクツの思い切りの良さと懐の広さに感服するばかりだった。多額の借金を肩代わりするだなんて提案は、相応の覚悟と潤沢な資金、それに何よりある種の情がないとまず出来ないことだからだ。
「……それに。ホワイトさんが話しかけた方が、この娘も喜ぶと思います。あなたは彼女が目を覚ます瞬間をずっと待っているんでしょう?」
神妙な顔付きでそんな言葉を口にした後輩に、ホワイトは溜息を送った。この大人びた後輩は、どうしてこんなことを言うのだろうか。確かに自分は可愛い後輩が目を覚ますことをずっとずっと願って来た。だけど、自分より遥かに強い想いで彼女が目を覚ますことを待っている人間がいることもまた事実なのだ。そしてその人物は、まさにホワイトの目の前に立っている。
「なーに言ってるのよ。眠り姫を起こすのは王子様の役目なのよ?ほら、水替えならアタシが行って来てあげるから」
「ホワイトさん。病室にはそれぞれ洗面台が設置されているんですよ?」
「分かってるわ。散歩も兼ねて行って来るんだからいいのいいの。アタシが散歩して来る間、ラクツくんはファイツちゃんにちゃんと話しかけてあげなさい!」
王子様発言は突っ込まれることはなかった。そのことをちょっとだけ残念だなんて思いつつも、かなり強引にラクツから花瓶を奪い取ったホワイトはいいから任せておきなさいとひらひらと片手を振った。病院の雰囲気は苦手なのだと打ち明けてはいないからか、ラクツが自分を引き留めることはなかった。お邪魔虫はさっさと退散しないとねと言い聞かせながら、素早く病室を出ると後ろ手に扉を閉める。そうじゃないかとは思っていたけれど、やっぱり廊下には誰もいなかった。医者も看護師も、そしてポケモン達も。自分達のような見舞客はともかくとして、ここで働いている者がこの棟にやって来ることはあまりない。それこそ緊急時や定期巡回以外では滅多にないことなのだ。それを知っているホワイトは、そっと息を吐いた。
お見舞いの頻度を増やしたいのはやまやまだが、仕事の関係上自分は基本的に週末くらいしか来れないのだ。ファイツの家の掃除もしてあげたいし、これが精一杯というのが正直なところだった。ヒュウもペタシもよくお見舞いはするようだけど、それでも毎日ではないと知っている。こんな端の方にある病棟に毎日足を運ぶような人間は、それこそラクツくらいしかいないのではないだろうか。
「……おはよう、ファイツくん」
静まり返った廊下を歩き出した途端に聞こえて来たその声で、ホワイトの心臓はどきりと高鳴った。いや、断じてあの後輩のことが好きだというわけではないのだ。ただ、彼の声があまりにも優し過ぎる上に、確かな熱を帯びたものだったから。ただの女友達とか、単なる知り合いに向けるものではない彼の声を、不意に聞いてしまったから。だから、こんなにもどきどきしているのだ。そう分かってはいるのだけれど、やっぱり心臓に悪くて。自分からそう仕向けたというのに急に気まずくなったホワイトは、誰もいない廊下を早足で歩いた。
(ファイツちゃん、早く起きて。ラクツくんの為に、早く目を覚ましてあげて)
ホワイトにとって、いやあの場にいた男子3人にとっても悪夢でしかない日から、早くも1ヶ月と2日が過ぎていた。今日目覚めなかったら、きっと明日も。明日目覚めなかったら、そのまた明日も。ラクツは一輪のグラシデアの花と、そして恋心を携えてここに来るのだろうとホワイトは思った。
眠り姫を起こすのは王子様の役目で。そして傷付いた王子様を癒すのは、とびきり可愛いお姫様の役目なのだ。ラクツくんの為にも、ファイツちゃんが早く起きますように。長い廊下を歩きながら、ホワイトはその呟きを何度も何度も繰り返した。